2011年03月28日

つかこうへいの遺したもの〜NHKのドキュメンタリー『つかこうへい よみがえる伝説の舞台』&アル☆カンパニー『冬の旅』に思う〜

つか芝居の「口立て」の持つ意味は?

ぽわん:この週末にNHKのドキュメンタリー『つかこうへい よみがえる伝説の舞台』と、アル☆カンパニー『冬の旅』を観て、ちょっと思ったことがあるんだけどね。
たぬき:もうすぐ、つかさんの一周忌だ。早いねえ。
ぽわん:ぽわんはつかこうへい作品や、それ以後の小劇場芝居も好きなんだけど、今日は敢えて、そこに存在する問題点を考えてみたいんだよね。というのも、早口でまくしたてることがある種の陶酔感を作っていったのは、ぽわんも観客で体験していて、否定しないんだけど、そこで演技の限界が生まれたとも思うの。
たぬき:実はわたし、こと、たぬきも『熱海殺人事件』を演ったことがあるんだけど、あれは気持ちいいもんだねえ。
ぽわん:うん。演る側にも観る側にも麻薬みたいなものがあるのが、つか芝居の特徴だよね。でも、麻薬には依存性と副作用があるでしょ。それが今の演劇界を貧しくした面もあるんじゃないかしらん。つまり、つか芝居は面白かったけど、流行してそういうのばっかりになっちゃったことの功罪。主に思うのは、俳優なんだけど……。
たぬき:基本的に技術が要らないからね。「俺を見ろ! 俺が芝居だ!」というナルシスティックなテンションだけで保たせるというか。
ぽわん:まあ、ある種の技術というか体力・瞬発力みたいなものも必要だとは思うけど、俳優としての基本スキルをすっ飛ばしている印象があるかな。たとえば、つか自身が自ら台詞の言い方を実践してみせる、有名な「口立て」があるよね。あれは、台詞回しはこうあるべき、というものが確立されていない日本ではある程度有効というか、そうせざるを得なかった部分もあると思う。蜷川幸雄も稽古場では台詞を自ら言って聞かせるそうだし、つまり、そうやって手取り足取り教わらないと、芝居としてちゃんとまとまらない、という事情があったんだろうねえ。ただ、あれは俳優から、考えることを奪うとも言えるかもしれない。
たぬき:ふむふむ。
ぽわん:平田オリザはNHKのドキュメンタリーで「つかの登場で、戯曲は俳優のためにあるということに変わった。それを引き出すためには口立てはものすごく有効だった」みたいなことを言ってたの。でも同じ番組で小西真奈美が、いみじくも「つかさんが演じるのが一番面白い」と語っていて、納得したなあ。つまり、つか芝居での“俳優の魅力”とは、つかこうへいの代弁者になること。現場で即興的に作るとは言っても、作る主体者はつかなんだし。
たぬき:つかさんの芝居は、差別される人間だけが持つことの出来る輝きが身上な訳で、それはつかさん自身にとって一番切実なテーマだった訳だからね。つかさんが役者に考えるスキを与えないような台詞回しを要求したのは、ひと言で言って役者に精神的に裸になってもらいたかった訳だけど、その上に着せる衣装は、大音量の「白鳥の湖」とか原色の照明とか、案外ワンパターンではあったね。
ぽわん:つか本人もワンパターンであることは認めているね。もちろん「裸にする」ことでその俳優の新たな魅力が、つかというフィルター(プレッシャー?)を通して出て来るのは確かで、つかや遊眠社、第三舞台といった、いわゆる小劇場演劇の、早口でまくしたてるエネルギーは、追い込まれた俳優のエロティックな魅力とか、ある種のテンポを俳優の中に作ることには成功した。筧利夫なんてその成功例だし、阿部寛みたいにタレントでつかのおかげで成長したひとも。最近ではチョウソンハもその例に挙げてもいいのかな? みんな魅力的だけど、でも、メソッドはメソッドでしかない。劇団四季の発音ってすごく変だけど、平幹二朗は今でも浅利慶太に感謝の念を述べているし、実際、台詞回しはすごくいい。でもみんなに当てはめることはできないのかも。
たぬき:つか芝居ってのは本来、要するに音楽で言えばパンク、絵画で言えばアクション・ペインティングみたいな、ひとつのジャンルが技術偏重になった際に必ず起きる、ある種の先祖帰りなんだよね。そのパンクだって、今や「青春パンク」とかの人生応援歌になっちゃったらしいけど、ただ、件の劇団四季の朗唱術はじめ、テクニック一般がひどく欺瞞的に思えちゃって、そういうのをチャラにしないと気が済まなかったという時代があったという面と、逆に言えばその時代は若者文化がヘゲモニーを握った、要するに若者特有の性急さがすべてに優先したという2つの面があると思うんだ。だから、もはや中年に差しかかった我々ゆえに、技術云々が気になり出しただけなのかもね。
ぽわん:わたしはまだ中年に差しかかっていませんっ! ともかく、パンクとしての機能よりもメジャーになってしまい、演劇人たちに多大な影響を与えているからこそ、その功罪に目を向けているわけで。それに、韓国の観客に今ひとつ受け入れられなかったのは、中年とかそういう問題じゃないと思うんだけど、どうなの?
たぬき:それはやっぱり言葉の問題じゃないのかな。つかさんにとっても韓国公演の失敗が持つ意味は大きかったみたいだけど、90年代以降の野田秀樹の演劇活動は、夢の遊眠社イギリス公演の挫折を考慮しないと分からない面があるし、ランゲージ・バリヤーって、島国日本にいるとなかなか実感できなんだよ。
ぽわん:でも、それを言うなら、言語感覚の違う日本の若者世代にも、通じないかもしれない。となると、つか的世界は古いのに、作り手・演じ手には多大な影響を与え続けているというのは、一つの矛盾じゃないかなあ?


つか芝居の負の遺産!?

ぽわん:やっぱり、何が気になるかっていえば、つか的な演技が未だに演劇界で尾を引いている気がすることなの。つまり、考えるよりも先に勢いよく台詞を叫ぶのがうまい俳優はいても、じっくり考え、冷静かつ豊かに話すことができる俳優って圧倒的に少ない。まあ、それをつか芝居と完全に同一に考えるのはおかしいかもしれないけど、あのね、こないだアル☆カンパニーの『冬の旅』を観たんだけどね……。
たぬき:ご存知、つかが生んだ俳優夫婦、平田満と井上加奈子のユニットだね。
ぽわん:この『冬の旅』は松田正隆が書いたものなんだけど、「語り」にすごく力点を置いているの。ぽわんはアル☆カンパニーがけっこう好きなんだけど、この語りがうまくできていなかったの、平田満も井上加奈子も。
たぬき:井上加奈子は長く患ってらしたから、ちょっと厳しいかもしれないけどね。
ぽわん:でも平田満も、だよ。素敵な味わいのある俳優なのに、じっくりと台詞を聞いていられるタイプの俳優じゃないんだなあと、ちょっと意外にすら感じた。もっと短い台詞の応酬なんて、アル☆カンパニーでも二人とも上手かったと思うんだけど、やっぱり、長ーく語るとなると、この二人でも聞いててしんどいんだなあと思った次第なんだよね。例えば、長く語る際、本当の意味で台詞術みたいなものがしっかり身についていないと、抑揚をつけたりじたばたと動き回ったりして、余計に集中して聞くことができないというか、静かに地に足をつけて語るということの難しさを、観ていて実感したよ。
たぬき:今でもやっぱり、引き出しをいっぱい持ってる新劇畑の人はしゃべりが上手いよ。
ぽわん:だけど新劇の集団は今や風前の灯火だし、新劇の世界でも若い俳優はヘタだよ。そう考えると華が重要というのは事実なんだけど、それを重視する余り、技術の備わることがなかったという残念な俳優が今、新劇にも多いかも……。
たぬき:声楽家と同じで、体が楽器みたいな面は間違いなくあると思うんだ。安物の楽器だと絶対に良い音が出ないのと同じでね。
ぽわん:でも、良い楽器もメンテナンス次第じゃん。
たぬき:そうだね。でも小劇場にせよ新劇にせよ、やっぱり役者として長く成功するためには素質の占める要素は大きい気がする。そう言う意味では、つかさんはいわゆる時分の花を最大限に利用したんだね。
ぽわん:ある意味、客が呼べる俳優を主役にすることばかり重視せざるを得ない日本の演劇界自体が、時分の花しか使えないのかも……。
たぬき:全くだね。ちょっと上手くなり始めた頃には呼ばれなくなるという。
ぽわん:ドキュメンタリーではつかが「F1をみんな観たがる。車庫入れのほうが難しくてもそれを観る人はいない」と言っているけど、車庫入れを面白く観られることが、今、必要なのかもしれないよ。今の発言は98年の韓国公演の会見での発言だけど、その韓国公演では「面白いけど散漫だ」みたいな反応が多くて、これは本質的。日本ではそれがむしろいい、といった感じで一世を風靡したけれど、もう限界に来ているのかもねえ。
たぬき:でも、唐の亜流も野田の亜流もほとんどいなくなっちゃったけど、つかさんの亜流だけは未だに盛んなんだよね。
ぽわん:それはきっと、唐も野田も一応現役だけど、つかこうへいが最後のほう、完全な意味での新作を書けなかったせいもあるかな?
たぬき:つか芝居のスペクタクル性は大劇場にも応用出来るからというのと、今の演劇界の中核がつかさんの衝撃をまともに受けた世代だという2つの理由なんじゃないかな。
ぽわん:でも後者については唐・野田もそうなんじゃないの?
たぬき:唐さん世代は今や引退気味だし、野田さんのバタバタ走って言葉遊び連発、というのは彼のトレードマークになりすぎてて、今やるのは恥ずかしいんじゃないかなあ。
ぽわん:恥ずかしいというより、できる人があまりいないとも言えるのかな?−−ところで、なんでたぬきさんは、ほかの劇作家は呼び捨てなのに、「つかさん」って言うの?
たぬき:わたし、こと、たぬきみたいなしがない猫にさえ"さん付け"させてしまう、そのくらいつかこうへいという存在は大きいんですよ……。
ぽわん:野田秀樹&鴻上尚史に影響を受けたのかと思ってたけど。
たぬき:野田みたいに飛び跳ねるのは無理だけど、正面向いて身の上話を滔々と喋るのはそんなに難しくないと感じてた。鴻上は、たぬきに言わせればつかの亜流です。
ぽわん:つまり、野田はちょっと異色で、でもつか芝居は頑張れば手が届きそうな気がして、親しみが持てたってこと?
たぬき:というか、頑張る必要すらなくて、単に体力との戦いだった。野田は異能の人って感じだったけど、つか芝居は誰にでも出来る気がした。
ぽわん:つまり、確固たる演技メソッドがなくても、それをやれば達成感と陶酔が持てた。その快感みたいなものがみんな忘れられなくて、演劇界に今でもつか信奉者が多いのかなあ?
たぬき:そうだね。誰でも15分だけはスターになれるというやつだ。正確に言うと「誰もが15分だけは有名になれる」byアンディ・ウォーホル、だけど。
ぽわん:みんなスターになりたいってこと? 確かにスター芝居も楽しいよ。でも、アンサンブルの妙や台詞そのものが浮き上がってくるような職人芸も、わたしはたくさん観たいんだよね。つか的な呪縛は、いつ解けるんだろう……?
たぬき:ぽわんさんもそろそろ大人だねえ。
ぽわん:ちょっ! さっき、中年って言ったじゃんか!!
たぬき:中年は憚られるので大人にしてみました(笑)。
ぽわん:ふーんだ。「中年」だの「大人」だのじゃなくて、呪縛のない「若者」に期待するかなあ……。
たぬき:つか芝居は、端的に言って、俳優教育で言う「感情解放」の段階で敢えて止まったものと言えるのかも。だから、そこから先に行くことが必要だね。
ぽわん:さて、いつごろ、どういうかたちで実現するかなあ? ゴドー待ちみたいにならないといいなあ。

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2011年02月25日

ムジークテアターに未来はあるか? 〜東京二期会・コンヴィチュニー演出『サロメ』をめぐって〜

貶められたサロメを救い出す演出!?

たぬき:オペラ界この春の話題作のひとつ、東京二期会のペーター・コンヴィチュニー演出『サロメ』。いつもながらに現代世界の頽廃をテーマに、グロテスクで同時多発的な演出を多用してコンヴィチュニー健在を知らしめた訳だけど、ぽわんさんも彼のファンなんだよね?
ぽわん:そうだよ! 単なるこけおどしじゃなくて、歌詞も読み込んだ上で思いがけない意味を付与できる人。大胆な設定置き換えとともに、すごく細かい工夫があって面白いから好きなの。
たぬき:うん、今でこそ「過激な演出」自体ありふれちゃったけど、そうした中でも彼の演出の特徴のひとつは、オリジナルのスコアと言葉の辻褄を、小芝居でやたらチマチマと合わせていくところ。例えば今回で言うと、急にテンポと拍子が変わってヘロデ王が"Tanz für mich, Salome!"って歌い出すところがあるよね。あそこってちょっと唐突な感じがするけど、それを補うためか、そのちょっと前からヘロデ王がヘロインをアブって静脈注射して、その幻覚で「踊ってくれ、サロメ」って言わせることにしていたね。これはとても巧い手で、おかげで、その後彼が急に寒くなったり熱くなったりするあたりにも説得力が出てる。こんなふうに、グランドデザイン(=現代世界の頽廃)とディテール(=麻薬による幻覚)が、音楽を媒介にうまく調和してるのが彼の演出の特徴だね。
ぽわん:あと、今回のプロダクションで好きだったのは、サロメが素敵に描かれていたところだな。サロメって悪女みたいに扱われていて、ヨカナーンからも汚れた存在だと非難されるけど、あれってひどいよね。サロメの母親のヘロディアスが、サロメの父親の弟にして兄を殺した当人であるヘロデと結婚したというのが主な糾弾理由になってるけど、それって『エレクトラ』と同じ展開だよね? サロメはいわばエレクトラと同じ立場で、むしろ被害者かもしれないじゃん。でもコンヴィチュニー演出では、サロメ以外の人々はヨカナーン含めて俗悪だけど、サロメだけはその中にいても愛を信じていて、最後はヨカナーンと二人で外の世界に飛び出すっていう結末になっていて、良かったなあ。
たぬき:最後がいきなり純愛讃歌になるのは彼の得意技で、『トリスタンとイゾルデ』の最後で棺桶が2基出て来たのを思い出したよ。ちなみにコンヴィチュニーは旧東独出身でベルリナー・アンサンブルで修行した訳だから、ブレヒトの孫弟子に当たる。インタビューのたびにブレヒトに言及してるし。それでもって、実はブレヒトも純愛を描くのが得意だよね。『セツアンの善人』のシェン・テと飛行機乗りのヤン・スンのくだりとか。ブレヒトが純愛なんて信じてなかったのは彼の女性遍歴から見て明らかだけど(笑)、やっぱり社会の圧政の対立項としては便利なんだろうねえ、純愛って。
ぽわん:単なる純愛じゃなくて、不当に貶められてたサロメの復権の物語なんだと思うよ、これは。やっぱり雄のたぬきさんにはわからないんだわねえ、その大きな意味が!


ムジークテアター、今後の可能性は?

たぬき:東京二期会の歌唱もアンサンブルもすごく良かった。さぞ密度の濃いリハーサルをこなしたんだと思う。やっぱり高い集中力で取り組むことは何よりも重要だね。多かれ少なかれルーティンぽさが感じられる引っ越し公演なんかよりずっと良かった。
ぽわん:サロメ役の大隅智佳子はじめ、歌手陣も大健闘だったよね。二期会がコンヴィチュニー演出を上演するのは『皇帝ティトの慈悲』『オネーギン』に続いて三度目。毎回すごくがんばってると思う。激しい動きや極端な格好もしっかりこなしながら歌うんだもん。上演にこぎつけたスタッフも讃えたいね! あと、東京都交響楽団の演奏も良かったし。
たぬき:都響ってこぢんまりしたイメージだけど、すごくいい演奏だったね。ところで、昔からムジークテアター派に対しては「状況設定を無視している」「肝心の歌をおろそかにしている」みたいな批判があったけど、最近は逆に「もはやコンヴィチュニーの時代は終わった」みたいなことを言い出す人も出てきたね。確かに四角い密室のセットは『アイーダ』の延長線上だし、そもそも、支配階級の堕落とそこからの死を賭した脱出という点では、今回の『サロメ』と『アイーダ』はまったく同じだもん。
ぽわん:さすがに数をこなすとパターン化しちゃうっていうのは、演出家の常なのかもね。日本の実力者で考えても、蜷川幸雄も栗山民也もそういうところがあるのは否めないよ。
たぬき:唐十郎なんて、観始めて20年ぐらい経つけど何も変わってないよ(笑)。コンヴィチュニーからも演出家として新しい手法は出ないかもしれないけど、未だに「歌手に芝居させる能力」はトップクラスだよね。彼はもはや大御所だからフォロワーも多い訳だけど、フォロワーたちは若い分もっと傍若無人になれるし、インパクトという点では次世代に道をゆずっていくのかなあ。
ぽわん:じゃあ、たぬきさんは次代を担うオペラ演出っていうのはどうなると思うの?
たぬき:いわゆるユーロトラッシュ(これってアメリカのオペラ愛好家が付けた蔑称なんだっけ)の演出家でコンヴィチュニーより下の世代って、すごく映画からの引用が多いよね(でも、元ネタを知ってると更に興味が増すって訳じゃなくって、単なるヴィジュアル的な効果が第一義って感じ)。あと、今回の『サロメ』にも出てきたけど、歌わないアルターエゴみたいなのを出したり、いつも性差の闘争みたいなのを取り扱ってる。要するにユーロトラッシュはブレヒトと映画、それと精神分析に多くを負ってる訳で、ブレヒトをファシズム(と社会主義)の産物と考えれば、これらは所謂20世紀の三大発明。さて、21世紀は…マイク使用は最小限という縛りがかかっている以上、マルチメディア方面の伸び代は少ないだろうし、ゲイ美学全開みたいなのも増えたけど、まずソプラノありきのオペラ界での位置は…難しいねえ。もうしばらくは20世紀の遺産でやっていくしかないのかなあ。ただ、話は戻るけど、件のアメリカのオペラの総本山・METでさえ、ピーター・ゲルブが総支配人に就任してからは斬新でシアトリカルな舞台が増えてきた(すぐ近所のブロードウェイから演出家を連れて来るのはいかにもMETらしいけど)。それはつまり、オペラもパフォーミングアートだという流れは止まらないということだよね。なんたって観てて楽しいもん。ただ、若い演出家の中には、音楽も歌手も自分の表現欲求の手駒、もっと言うと単に本人の趣味みたいな人も多いよね。ああいうのはいただけないなあ。やっぱり社会性は欠けてほしくない! そもそも「オペラに社会性を」というのがムジークテアターの始まりなんだから。
ぽわん:わたしの希望としては、正直、作品によるかなあ。社会性なくオーソドックスに上演してほしい作品と、そうでない作品がある気がするけど… これはもう、手腕とセンスの問題なのかもしれない。そして、手腕とセンスの高い演出家がオペラに現れるには、数をこなすしかないのかも。となるとやっぱり、オペラの内部から演出家を育てるのと同時に、「目利き」的なプロデューサーが、素質のありそうな異分野のひとにどんどん挑戦させるっていうのが大事なんじゃないかな。でも日本で言うなら、まずは「目利き」を育てることから始めなきゃ、かな?
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2011年02月13日

別役実作品に望むこととは?〜MODE『マッチ売りの少女』〜

リアリズム劇だろうが抽象劇だろうが…

たぬき:今度のMODEは、別役実が二十代で書いた名作「マッチ売りの少女」に挑んだわけだけど、やっぱり主演の山田美佳には不満が残ったねえ。小市民の家庭に闖入してくるあの役は、カマトトぶったり切々としたり、みたいな紋切型の台詞回しで切り抜けられなくもないけど、やっぱりたまにはドスを効かせてほしい。キャスト4人の中では飛び抜けて若いからちょっと可哀相だけど。
ぽわん:山田美佳は、賛否はともかく、すさまじい大根役者で、リアルな演技はできない。それが味であり存在感だっていうのが松本ないし大方のスタンスみたい。まあわからなくもないんだけど、チェーホフ『かもめ』のニーナの時は、その演技がまるで通用しなくて観てられなかったからね。それに比べると、今回の少女のような「異物」的立場は合っているほうだし、頑張ってドスも効かせてたつもりだと思う。
たぬき:でも、いくらリアリズムの戯曲じゃないからといって、リアルじゃない俳優なら通用するというわけじゃないよ。そもそも、姉と弟なのに一目で弟の方が年上に見えてしまうっていうキャスティングはやめてくれないかなあ。あれって意図的なものでは絶対になくて、単に松本修は山田美佳を出したくてしょうがなくて、なのに彼女より年下に見える適当な俳優がいなかっただけだと思う。そういうのって、「別役実は抽象劇=リアルさは考慮に入れなくてよい」みたいな変な勘違いじゃない?
ぽわん:その一方で、演出テイストとしてはあんまり抽象的じゃなかったね。基本的に、松本修の演出テイストはきらいじゃないんだけど、作品によって、合う/合わないがある気がする。今回はちょっとウェット過ぎる感じがしたかなあ。雪やら黄昏風のアンバーの照明やらもだし、あと、劇の中に幾度か登場する場面転換のシュールさに余計な意味を持たせてしまって、結果的にシュールな面白さが薄れてしまったのが残念だったよ。もっと抽象的なほうが良かったなあ。
たぬき:別役戯曲すべての中でも、この『マッチ売りの少女』と『象』という初期作品2つの上演頻度はかなり高いよね。それは何故かというと、思うにこの2作は、後年ほど厳密なロジックで組み立てられていない代わりに、情緒性がたっぷりあるからなんじゃない? そういう意味で松本演出も、やっぱり情緒に寄っかかっていた。
ぽわん:そこが、さっきも言った理由で、不満だったんだよなあ。

もっと周到な仕掛けがほしい

ぽわん:わたしが好きな松本演出作はカフカ。カフカと別役は不条理性っていう点では共通するとも言えるのに何が違うかと考えるに、観るこちら側にも、カフカにはチェコのノスタルジーみたいなイメージを抱いているから、ウェットでもだいじょうぶ。でも、別役作品はドライで場所や色を限定しないのが面白さだと思っているから、ウェット過ぎると嫌なのかも。
たぬき:確かに、松本修ってスタイリストを装ったロマンティシストだなあと改めて感じたね。ただ個人的には、もっと仕掛けを作って、いないはずの弟が出現するに至るまでのドライヴ感を出すべきだったと思うけど。
ぽわん:ドライヴ感?
たぬき:えーとね、つまり不条理劇って話の展開自体は基本的に無理筋なんだから、それを納得させるだけのノリがないと空々しくなってしまうと思うんだよね。これは、人間をみんな犀にしちゃったり授業を殺人にエスカレートさせちゃったりしたイヨネスコから別役が学んだことだと思うんだけど。要するに「弟がいます」ってのは展開上の分岐点、夫婦が抱いている日常性の論理と闖入者側の論理がいったん逆転する瞬間で、そこまでに客席も舞台もエキサイトしてないと、その結構高いハードルをクリアできないんだよ。例えばジョン・クローリーが演出したtptの舞台だと、姉を演じた久世星佳の長身ゆえのヌボーとした存在感と夫婦が醸し出すユーモアで観客が沸きに沸いていて、「弟がいます」は大受けだったんだよね。これは喜劇性を強調することで難所を切り抜けた訳だけど、例えばサイコホラー的にでも理詰めっぽいアプローチでも何でもいいから、なんか仕掛けてほしかったなあ。ちなみに初演は「戦後民主主義の欺瞞を、彼らが忘却した筈のトラウマが暴き立てる」みたいな時代性コテコテの演出だったらしいよ。
ぽわん:けど、サイコホラーというのは、松本修テイストとは違い過ぎるね。MODEとしてもっと効果的に「仕掛ける」にはどうすべきだったかな? ひとつの解決策としては、姉をもっとうまい俳優が演じることかなあ? ウェットあるいはベタな演出に対して、巧みに距離をもって演じられるような?
たぬき:今回は「旅芸人」がテーマだったそうだから、旅芸人のペーソスというか泣き落としみたいな路線か? 
ぽわん:ううむ、わたしはどっちかっていうと泣き落としは好みじゃないなあ。
たぬき:そりゃあいちばん簡単なのは「弟がいます!」って宣言するだけで場をさらえるだけの力量のある女優を連れて来ることだろうさ。あと、これはどうでもいいけど、「MODEはオトナに観てもらいたい。MODEはコドモには観てもらいたくない。」ってのが謳い文句のクセに、学生料金が設定されてるってヘンじゃないか!?
ぽわん:まあでも、学生がコドモとは限らないから、それはいいんじゃない? 精神的にコドモな人はいつまで経ってもコドモだし、若くてもオトナはオトナだし。で、わたしたちはどっちかな?(笑)
posted by powantanuki at 22:16 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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