2011年05月23日

井上ひさし×蜷川幸雄って実際どうよ?(2ちゃんねる風)〜『たいこどんどん』公演から考える〜

井上ワールドの“小ささ”VS蜷川ワールドの“大きさ”

たぬき:「井上ひさし追悼ファイナル」と銘打たれた、シアターコクーンの蜷川幸雄演出「たいこどんどん」。ここ数年井上作品を手がけることの多い蜷川だけど、私たぬきは蜷川と井上戯曲って実は相性ぜんぜん良くないと感じてるんだけど、ぽわんさんはどう思ってるの?
ぽわん:私も相性は良くないと思うよ。『藪原検校』は地人会でよく上演されていただけあってそっちのほうが面白かったという意見もあったし。そういうふうに考えている人は少なくないんじゃないかな。井上ひさしの世界って人情味というか、俳優たちの細やかな演技や味わいが要求されると思うんだけど、蜷川は大仕掛けで視覚中心の演出家でしょ?蜷川が芝居を上演するハコもシアターコクーンにしろさいたま芸術劇場にしろ割と大きいから、本質的には合わないと思う。だからこそ、蜷川は井上戯曲をずっとやってこなかったんだろうしね。
たぬき:井上戯曲って、だいたい3期に分かれると思うんだ。テアトル・エコーに書き下ろしてた初期は狭い小屋でひたすらドタバタ、五月舎中心の中期は臆面もなく卑猥さを強調、後期は評伝劇を中心に、三一致の法則を守りつつしっかりお説教を盛り込む新劇っぽいお芝居、みたいな感じだと思うけど、共通することが一つあって、それは、どの期の戯曲も、間口はせいぜい紀伊國屋ホールだってこと。
ぽわん:そうだね。蜷川もそれは分かっていて、『天保十二年のシェイクスピア』でもドカンと装置を作っちゃったけど芝居自体は割と狭い空間でやったし、今回の『たいこどんどん』も舞台上にさらに何畳か分のエリアを作って、基本的にはその上で俳優に芝居させていたね。『道元の冒険』に関しては、場面の動きなどが井上戯曲としては比較的ダイナミックな作品だし群衆っぽい人を出したりしやすいから、空間を広く使っていたと思うけど。つまり、蜷川と井上は、根本的に資質が違うのをお互い分かった上で晩年タッグを組んだと言えるんじゃないかな。といってもまあ書き下ろしは『ムサシ』1作に終わったけど。
たぬき:『ムサシ』は、さいたま芸術劇場の広々した空間やら、わざわざ可動式にしたセットに何の意味もなくて(あれ一杯道具でいいよ)惨憺たる出来だったね。『道元の冒険』は全編が劇中劇というか、阿部寛扮する新興宗教の教祖の妄想みたいな枠組みがあったから、下手エリアに阿部を配置するだけで絵にはなったね。今回の『たいこどんどん』はそうはいかなくて、「アクティング・エリアを区切りさえすればあとはスターさんに目がいくでしょ」みたいな安易なプラン。つまり、もはや老齢を迎えた蜷川には広い舞台空間を埋めるエネルギーがない、というか埋めなくてもいいと思っているんだ。かつてはくどいほど群衆やら花で埋め尽くした蜷川が、最初と最後だけ書き割りを並べて事足れりとしているのは、彼自身かつてあれほど嫌悪していた枯れた晩年を迎えていることの証左だね。
ぽわん:不思議だよね。最近の蜷川って、過去の自分の過剰さに飽きているのかなあ。「え!?」っていうくらいシンプルだったり、同じ演出プランの使い回しだったりすること、すごく多いもんね。その結果、「小さい空間で賑やかに」なるはずの井上の作品を「広い空間でスカスカした感じ」で蜷川が演出する、ということになってしまっていたよねえ。


蜷川演出には俳優同士の交流がない?

ぽわん:出演者についてはどうだった? 一説によると、中村橋之助は中村勘三郎の代役だったという噂だけど?
たぬき:橋之助と古田新太に、互いの心の交流が全然感じられなかったんだよね。勝手に演じてる感じ。例えば、古田演じる幇間の桃八は、橋之助演じる若旦那・清之助に手ひどく裏切られるんだけど、偶然の出会いからいとも簡単に和解してしまう、その理由が舞台で表現されていない。「仇敵との再会がなんでそうあっさり終わっちゃうの?」という疑問がぬぐえない。
ぽわん:んー、ただ、蜷川が戯曲をカットしない主義なだけにみんな早口でとにかく進めなくちゃいけなくて(それでも上演時間3時間40分だもんね)、交流どころじゃなかったっていう気もするけど。私は二人のコンビはそんなに悪くはなかったと思う。もちろん、勘三郎と古田だったらさぞかしプラスαの面白みがあったろうなあと想像しちゃうけど、橋之助は大健闘だったと思うなあ。
たぬき:そうだね。喜劇としてテンポを落としたくなかったのかもしれないけど、それでもテンポを落とさなくてももう少し身体表現なり何なりで表現できたはず。前から「アンサンブルを罵倒したり脇役にスケープゴートを作ったりはするけど、対照的にスターさんには演技指導が甘い」ことで有名な蜷川だけど、彼ら2人に大したハードルを課してなかったのは明白だね。
ぽわん:とはいえ、井上&蜷川作品での古田新太の使われ方は相当にハードル高いよ。イジメかっていうくらいの早口・長台詞・出ずっぱり・・・。つまりハードルの種類の違いというか、じっくりと醸し出す演技に重点を置いた要求をしなかったということじゃないかな。あるいは、あのテンポ・スピードを守るところまでしかいけなかったというところかも。でも、蜷川演出での俳優さんって大抵そうだよね。例外は平幹二朗とかごく少数の、本当の意味での名優さんのみ。
たぬき:確かに、「蜷川演出はいっぱい走らされるので大変」というのはよく聞くね。そういえば古田が鈴木京香に「濡れ場は事務所的にOKなのか?」みたいなこと言ってたけど、ああいう新感線の楽屋落ちみたいな台詞を許したのはいただけなかったなあ。
ぽわん:まあ古田にはストイックなことをいっぱいやらせたから、少し得意なこともやらせよう、みたいな感じなんじゃないの。私は全体の中で特別そこを批判しようとは思わないな。


芸術は震災とどう向き合うべきか

ぽわん:さて、もう楽日も近いからネタばれしてもいいかなって思うんだけど、ラスト、東京となった「元江戸」の町が波に飲まれる情景は、明らかにこの前の大震災の津波を意識して描いていたねえ。
たぬき:「富嶽三十六景」風のやつね。ちなみに私たぬきは、地震当日に所用で都内某所へ2時間半かけてとぼとぼ歩いてたんだけど、民族大移動みたいな人混みの歩道で「これからしばらく演劇界は地震ネタで溢れるだろうなあ、それはそれで単調なことだなあ」と物思いにふけってたんだよね。その流れは案外早く来たねえ。
ぽわん:好みかどうかはともかく、現代に生きる芸術家である以上、社会について何も言わないのはむしろ不誠実だと思う。いや、絶対に社会に対して直接的に何か言えって言いたい訳じゃないし、まあ何事もなく芝居をしても別にかまいやしないけど、作り手が「何事もなかった顔はできない」と思うならば、表現に取り入れればいいよ。特に蜷川は、社会とコミットして展開した学生運動の流れを汲む演出家なんだから。
たぬき:でもあれじゃ、「がんばろう日本」みたいな空虚なメッセージと同じじゃないの?
ぽわん:そうかなあ? 「がんばろう日本」の一番の気持ち悪さは「自分の主張の正しさを疑っていない」ところにあるけど、あの演出は黙って絵だけ使っているし、波が日本を襲ったこと事態は事実だし、もちろんあれを使うことそのものに明確な意志があるわけだけど、それが唯一無二の真実だという押し付けがましさはなかったから、気持ち悪さは感じなかったよ。
たぬき:いや、「押し付けがましくない」のが問題なんだと思うんだ。要するに、いちばん弱い部分を狙い撃ちしてる訳だから。涙もろくなってる人は泣かせやすいのと同じだよ。
ぽわん:まあ、恥ずかしながら私ぽわんも泣いちゃったから大きいことは言えないなあ。でもあれは現時点での一つの回答だと思うよ。もともとの戯曲自体がもっているいささかシニカルな、しかしポジティブな部分を、うまく活かした上で施した演出だった。ベタかもしれないけど、あそこに関してはアリだったと思う。同時進行で、文明開化の騒がしさを皮肉っているからウェットに過ぎることもなかったし。
たぬき:『道元の冒険』のエンディングでモニターを山ほど出してTVが現代の洗脳装置になってると主張したり、『オレステス』で紛争中の国の国旗をバラまいて「復讐の連鎖」を暗示したり、エンディングでだけ現実とくっつける蜷川手法って、私たぬきははっきり言って嫌いなんだ。舞台の終焉が現実の始まりなのは当然な訳で、唐十郎のパクリを仰々しくやってるだけだと思うね。
ぽわん:パクリかどうかを話すときりがないので今回は置いておくとして、文句だけ言っても平行線だから、蜷川の震災後最初の作品『たいこどんどん』で震災に言及したかった気持ちを汲んでみようじゃないの。じゃあたぬきさんは、どうしたらあの作品で、空虚でもなく泣かせるのとも違うかたちで、あの出来事を意識したものができると思うの?
たぬき:そうねえ。かつては台詞を変えずに舞台を日本に置き換えたシェイクスピアをバンバン上演してた蜷川だから、東北の民衆に放射線防護服を着せるなり、山賊が出る峠に☢(放射線管理域)マークを張るなり何でもやればいいと思うね。要するに、どうせやるなら全面的に、って事だ。
ぽわん:それは過激だけどぽわんも観て見たい。つまり“アリ”だね。でも最近の蜷川はかつてのように過激じゃないからねえ。でもって、どうやらぽわんの周囲では、震災前の演出プランで観たかったという声も、あのラストがインパクトあったという声も両方あったから、その意味では折衷的だったとは言えると思う。それがたぬきさんにとってつまらなかったっていうのはわかったよ。ただ、シェイクスピアと違って井上は去年まで生きていた“現代人”で、しかも基本的には震災前に上演が決まったホン&キャスティングだから、作家や企画の趣旨とそこまで異なるものを本編全体に入れ込むっていうのは、やっぱり蜷川にも主催者にも抵抗があったんじゃないかなあ。もしかしたら、井上が生きていたら相談の余地もあった、かもしれないけど・・・。まあそこは商業演劇の限界、とも言えるかもね。
たぬき:『真情あふるる軽薄さ』が初演された頃とは何もかもが違う、ってことか。
ぽわん:ともあれたぬきさんも予見した通り、今後震災の影響は、舞台芸術のあちこちに観られることになるだろうから、また検証の機会もありそうだね。
posted by powantanuki at 01:56 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月03日

みんな大好き『欲望という名の電車』の、松尾スズキ演出版は是か否か

松尾スズキは九州のテネシー・ウィリアムズ!?

たぬき:松尾スズキが、秋山菜津子を主役にテネシー・ウィリアムズの名作に挑んだ、パルコプロデュース『欲望という名の電車』。企画を耳にした時は、これはなんとなく出会いものなのではという気がしたけど、ぽわんさんはどうだった?
ぽわん:んー、複雑な気持ちだったな。プロデュースものって、企画として「お!」とは感じさせるけど、まとまりに欠けたりして、文字通り「企画倒れ」ってことが多いんだもの。それに秋山菜津子はいい女優だけど、『欲望という名の電車』には私、思い入れがあるから、どういうブランチ像ができるか不安だった。だけど蓋を開けてみたら、好きかどうかはともかく、松尾スズキワールドになっていたから、そこは逆に気にならなかったなあ。
たぬき:松尾スズキが持っている主題のひとつは、人間の業の深さというか破滅的な本能のまるごと肯定みたいなことだと思うけど、それは当然ブランチにも共通するわけで、狙いは外れてはいないし、実際ある程度成功したと思うね。
ぽわん:パンフレットによれば松尾スズキは「俺の田舎には(略)黄色いスタンリー、黄色いステラ、黄色いブランチは、集落に1組は必ずいました」と書いているから、松尾スズキの原体験に基づく世界・人物として描いたみたい。ブランチというヒロインはこれまで、杉村春子、岸田今日子、栗原小巻、大竹しのぶなど錚々たるメンバーが演じてきて、スペシャルな存在になっていたというか、女優にとってある種の到達点だったと思うんだけど、その意味で今回は、いかにも「現実離れした、危ない女でござい〜」という空気を漂わせる王道路線から、ちょっとはずれていたかもね。でも面白かったのは、ずれていると見せかけて、秋山に関しては、渾身と言える演技を見せたこと。今時の新劇の女優にあそこまでできないだろうね。
たぬき:秋山菜津子ひとり舞台状態になるとこは引き込まれたね。例の「明かりをつけないで!」のあたりとか。自己陶酔系じゃなくて、あそこまで集中した芝居ができるのはさすが。
ぽわん:あそこはどうやるんだろうって思ったら、電球をミッチがびよーんって伸ばして来たのは、「ああ」って感じ。全体的に、今回の松尾演出は、名場面・名演技で有名な箇所自体を崩すというより、その周辺で遊んだ雰囲気だったね。ある意味、照れ屋の松尾っぽい(笑)
たぬき:ただ、彼女は本来引きの芝居も上手いんだけど、今回はアクセル踏みっぱなしという感じで、結果的に単調なのは否めなかった。
ぽわん:それは、周囲の俳優の問題もあるかもしれないし、松尾のイメージでもあるのかもしれないよ。公演パンフレットを読むと「過剰な女っておもしれー」っていう興味があるみたいだから。
たぬき:今回テキストレジってあんまりやってないと思うけど(ブランチがするオウムの話はさすがにカットしてたけどね)、それゆえ、松尾が内心冗長だなと思ってるかもしれない下りが冗長なまま残ってる。星座の話とか文学の話とか。ああいう場面って単なる性格描写じゃなくて、舞台にちょっと不気味な歪みみたいなものが出る筈なんだけど、そういうのはなかったなあ。
ぽわん:もともと戯曲をそのままやればそこが歪みになるはずのところを、松尾ワールドとして別の歪みをいっぱい作っちゃったせいで、かえって浮いた感じかなあ?
たぬき:あと、彼女がミッチに彼の結婚相手がゲイだったと打ち明けるくだりだけど、話が佳境に入る前に、相手の性格がsomething differentだったとか、"a nervousness, a softness and tenderness which wasn't like a man's"があったとか言うくだりがあるじゃない?このあたりが何の言い淀みもなく、また逆に変な流暢さもなく流れてて、単なる普通の喋りだったのは不満だったなあ。
ぽわん:松尾はいかにも新劇チックな繊細な表現、にしたくなかったんじゃないかな? だから彼の描く「意味深」は底が知れているんだとも思うケド。で、さっきも言ったことだけど、今回のブランチに関して言うと、彼女のヤバさというか痛さというか、そういうものが、観客がおののくようなものではなく、もっと別な身近な想像で埋められるものになっていたと思う。つまり、「あー夫がゲイだったらショックよね」という共感はあるけれど、今とは比べられない当時のゲイに対する不認知ゆえの恐怖や、ガラスのようなブランチの心の深遠をのぞくような気持ちにはなりにくかった。これは彼の個性だから、一概に否定するわけじゃないけど、
たぬき:さっき松尾スズキとブランチには共通点があるって言ったけど、同時にそこには相違点もあって、松尾ワールドの人物たちがある意味図太く不条理な感じに病んでるのに対し、ブランチはやっぱり不健康にというか文学的に病んでるんだよね。これは時代とか資質の違いでいいとか悪いの問題じゃないんだけど、さっきぽわんさんも言った「周囲の俳優の問題」さえクリアすれば、松尾ワールドとしての完成度はぐんと高まったのではと思う。


問題はキャスティング? 演出?

ぽわん:では具体的に聞くけど、ほかの出演者についてはどうだった?
たぬき:スタンリーの池内博之は変にニヒルで、暴力的な癇癪持ちには全然見えなかった。下品な役のはずなのに、ある意味いちばん上品な芝居やってたというか。
ぽわん:うーん、今回、松尾はステレオタイプを崩して、ブランチを過剰に強く、スタンリーをちょい間抜けにしたかったんじゃないかな。池内博之のスタンリーがどういう理由でキャスティングされたのかわからないけど、二枚目なんだけどどこかおっとりとしてる彼の個性を引き出した印象。
たぬき:松尾演出なら本来スタンリーが持っているエグさがもっと出せたかもしれないのに、もったいないね。とはいえステラの鈴木砂羽よりはずっとマシ。彼女、口跡は悪いし仕草にも台詞にも気持ちが全然乗らないし、挙句の果てに、妊婦なのにドタドタ走ったり身体をぶつけたり。余談になるけど、この芝居を観た帰りにたまたまある店で妊婦とその夫を見かけたんだ。妊婦はひたすらお腹を外界から守ろうと気を使っていて、夫に対してさえ近くに寄られることを警戒していた。そんなもんだよ。だからきっと、松尾演出のことだから、生まれた子が不具になるっていう伏線なのかと思ったら、そんなこともなかった。
ぽわん:確かに、それだと流れちゃうよーってとこ、いっぱいあったね。まあ、そういうところのリアルには、松尾は興味ないんだと思う。確かにそういうオチになったら松尾らしかったけど、今回は大きな冒険はせず、小ネタで遊んだ感じだからねえ。
たぬき:オクイシュージは、T・ウィリアムズと松尾ワールドの仲介者としてよく頑張った。「こんなダメ男に愛の希望を託さないといけないほど、ブランチは落ちぶれたのだなあ」って感じだけど(笑)。
ぽわん:そうだね、あのメンバーの中でマシっていうのもあまりぴんと来なかったよ(笑)。唯一の独身だからってとこかな。今回、松尾自身も大人計画的エグさではないものを、求めてキャスティングしたのか、キャストを観てこういう方向にしたのか・・・どうなんだろうねえ。
たぬき:キャスティングにはパルコ側の意向が相当入ってると思うけど、松尾自身にも「秋山さえいればあとはどうとでもなる」的な計算はあったんじゃないのかね。


秋山ブランチでの理想の布陣とは−−

ぽわん:さて、なんだかんだ言って上演のたびに盛り上がる『欲望〜』だけど、結局、今回の上演の価値・意義はどこにあったと思う?
たぬき:それはもう、いま日本でブランチを演じられる数少ない女優である秋山の演技が見られた、ってことに尽きるね。ぽわんさんもそうじゃないの?
ぽわん:私は、新劇のひとが今満足にできない以上、秋山という希有な女優を使って上演したことには意味があったと思う。ちなみに、新劇で満足にできないっていうのは、実力ゆえなのか、それともこれまでの伝説が偉大過ぎるからなのか、わからない。とにかくあまり上演されないからね。まあこちらにも責任はあって、「このひとなら!」って思わないと観に行きたくないなあ(笑)。その意味で、秋山は「このひとなら!」って多くの人に思わせることのできる女優だね。
たぬき:それでも、完売はおろか空席がかなりあったのがびっくりだね。松尾ブランドをもってしても、秋山では客は呼べないんだなあ。ちょっとがっかり。
ぽわん:震災のあとだからっていうのも、まだあるのかもしれないよ。ところで、松尾の遊びの中途半端さは、この戯曲をあまりいじらず、ある意味真っ向勝負で上演したいという意図が働いたからなのかな。まあ真っ向勝負かどうかは意見が分かれるかもしれないけど。
たぬき:いや、相当真っ向勝負だったと思うよ。テキストレジをほとんどやってないのがその証拠。だからこそ、プロデュース公演じゃなくて大人計画、それが無理なら日本総合悲劇協会でやってほしかったな。大人にも日総悲にも出たことあるしね、秋山は(笑)。
ぽわん:だけど松尾本人も「アメリカ白人自身が書いたアメリカ白人の愚かさを、黄色人種が死に物狂いで演じるというこっけいさ」ってツイッターで書いてるくらいで、王道的にはしたくなかったんじゃないかな。その意味で、たぬきさんが求める秋山菜津子ブランチでの理想的な上演は、全然別の布陣でこそ実現するのかも。実現性も考えると、栗山民也演出で、どうでしょう?
たぬき:栗山演出の、三好十郎作『胎内』での秋山は良かったからね、それこそ演技の足し算と引き算のバランスが見事で。でもさすがに、少なくともこの先10年は実現はしないでしょ、本人にいくらそんなつもりがなくても、松尾演出に不満があったんで別の演出を受けることにしました、ってことになっちゃうから(笑)。
ぽわん:じゃあ欲張って、10年後には、わおって思うような演出家、あるいはブランチ女優が出て来ていることを祈るよ!
posted by powantanuki at 22:23 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月21日

大絶賛が気持ち悪い!? 柴幸男 ままごと『わが星』

『わが星』・・・なぜ評価されたのか

ぽわん:
今、話題の柴幸男『わが星』。私もたぬきさんも初演は観てなくて、今回の再演を観たんだけど、ぜんっぜん感心しないってことで意見が一致したんだよね。で、じゃあ褒めている人たちはどう評価しているのかをまず検証してみたいの。
たぬき:将を射んと欲すればまず馬を射よ、って奴かな?
ぽわん:そうかも(笑)。まず、2010年の岸田國士戯曲賞。選考理由を読んでみると(全文はこちら)、けっこういろんなものが見えて来る。まず、岩松了は「無常観すら感じさせるその筆致は、A・キアロスタミの映画を観るよう」と褒めてもいる一方で、「ちまちました家庭劇もどきが横行してきた演劇シーンに、ひとつの爆破装置を仕掛けたという意味でも評価できる」というふうに、最近流行の小さな物語を、その小ささから出発して宇宙的な次元へ広げたことを評価したいという感じが見て取れるね。野田秀樹は独特の言い方で褒めつつ「積み上げられた悲しみではなくて、ただ寂しさ」としており、現段階では評価するけど今後については保留、みたいな感じで言い淀んでる。宮沢章夫は「この数年の潮流から、また異なるテイストを携え、ある切断を本作品がもっとも顕著な姿で表現」「世界を、人類を肯定する前向きなメッセージはへたをすれば陳腐なものになった」のに「ヒップホップの方法論を持ちこみ、□□□(クチロロ)というブレイクビーツ・ユニットの音楽も果敢にとりこんだ「建設的」なアプローチは、いわゆる現代口語演劇を再構築した」と、手法を褒めている感じ。
たぬき:キアロスタミと似てるのは、素人を使うのが好き、反復が好きってくらいでなーんの共通点もないと思うけどね。野田は他より光るものがあるから(つまり比較の問題で)推すってだけみたいだね。宮沢章夫は本質が読めないただの新し物好きだ。
ぽわん:宮沢章夫は自分が新し物好きの少数派だと思ってたのにみんなが推してびっくり、みたいなことを書いてるね。続きだけど、永井愛は宇宙規模と個人規模を重ねる立体構造を褒めつつ、「人物の会話は平板で物足りない。これが意識的なことなのか、このような描き方しかできないのかという疑問は最後まで私を迷わせた」と言っているし、坂手洋二は「失礼を承知で言えば、他の候補作との関係では、一種の消去法で一番まともに見えたというのが本当」とけっこうはっきり言っちゃってるし、鴻上尚史に至っては「ソーントン・ワイルダーの『わが町』の感動をかなりの部分、借りているのではないかと感じて、乗り切れませんでした」と告白しているね。
たぬき:歴史は、おおむね否定派のほうが正しかったことを証明するんじゃないかね。鴻上の意見にうなずく人も多そうだ。
ぽわん:つまり、みんな諸手を上げてっていうより、いろいろな趨勢やら何やらを考えた上で選んでいる印象なんだけどどう?
たぬき:新人賞って、岸田戯曲賞に限らず豊作の年なら複数出すし、不作の年も最低一人は出してあげましょう、ってのが最近の主流みたいね。今このために過去の受賞者を一通りチェックしたけど、皆さんまあ受賞後もそこそこの成功を収めているようでご同慶の至りだ。とはいえその後メジャーになる後押しになった受賞者もいれば、「今更受賞? しかもこんな出来の悪い作品に?」ってのもあっていろいろだねえ。
ぽわん:『わが星』の時は上演を観たんじゃなくて戯曲だけ読んだ審査員が多かったみたいだね。


ほんとに生と死をみつめている??

ぽわん:で、ここからが本題。今回の再演も、読売新聞は「2010年代の新たな段階に進んだ演劇が、ここにある。(塩崎淳一郎)」って感じで大絶賛。
たぬき:新聞記者なんて、常にこれが最新流行だ!って騒がないと飯の食い上げだからね。
ぽわん:でもどこが新たな段階なんだろう? 正直、ぜんっぜんイメージできないけど、たぬきさんわかる?
たぬき:幼児退行っぷりがいよいよ舞台表現としての限界に近づいた、ぐらいかね正直。
ぽわん:反復の効果についても指摘されているみたいだけど、その反復が意味をなさない・広がらないんだよねえ。世界観にしたって、宇宙規模と個人規模を組み合わせる発想自体、下敷きにしているソーントン・ワイルダーの『わが町』がやっていることなので、新しくない。神話的世界/現実世界、具象/抽象がないまぜになっている世界はわたし基本的に好きだけど(『わが町』も好きだし)、『わが星』は数ある名作戯曲のあとに生み出した現代の戯曲なのに踏み込みが浅い。しかも、それが全部、ちいちゃん(ちい=地球)という女の子の「ままごと」になっているのがズルイ!
たぬき:「ままごと」って、文字通り炊事とか食事の真似事のことなんだよ。そのくせこの作品では人間の食欲さえちゃんと描けてない。三大欲求のうち、この作者がなんとか書けるのは睡眠欲ぐらいで、性欲なんてもちろん書けやしないと思うね。そのくせボーイ・ミーツ・ガール物語には頼るんだから情けない。ちなみにこの『わが星』って作品がボーイ・ミーツ・ガールでオチを付けることに、天文部のエピソードが最初に出て来た時点で気づかなかった人は、顔を洗って出直したほうがいいよ。
ぽわん:そうそう、そういうセンチメンタリズムの強さもちょっといやだったな。かつての劇作家にもセンチメンタルな人はいたけど、ダイレクトに出すことには抵抗を感じて隠していたり(でもほの見えちゃうところが良かったり)、もう少しひねって見せたりしてたと思う。でもこれはすっごく、そのまんま。しかもさらさら〜っと軽くて、まさに幼い感じなの。例えば、前述のちいちゃんが月ちゃんとままごとをするっていう形で人生の四季がスピーディーに描かれるけど、泣いている人の多くは、自分の幼少期の思い出や、人生で果たせなかったことを考えたんじゃないかと私は感じた。まあ、そのひねりのないところが、多くの人の共感を呼ぶのかなとは思うものの…
たぬき:本来イノセンスって、人生に傷ついた人間が最後に辛うじてすがるものなんだけど、最近は傷つくのが嫌なガキどもが最初っからイノセンスに閉じこもってるって感じがする。「セカイ系(念のため書いておくと、個人の危機がなぜか世界の危機と同一化するというエヴァンゲリオン以後の風潮ね)」が流した害毒だよ。
ぽわん:すっごく内向きなんだよね。『わが町』は町を描くことがそのまま宇宙につながっているわけだけど、『わが星』の場合は、私たちの星/家を慈しんでいますうううっていう印象。
たぬき:いい年した男女がお手々つないで円になって(=閉じて)ダンスだからね。大体、あのおゆうぎ会そのまんまの振付は何なんだろうね。どうしてあんなので金取ろうなんて思えるんだろ。
ぽわん:でもまあ、内向きな世界なんだから、急に“巧い”ダンスを披露されてもちょっと違和感。
たぬき:そうかなあ。役者以前に人間として恥ずかしくないのかね。「おかあさんといっしょ」じゃあるまいし。それに、だいたい平田オリザの影響下にある演出家って、揃いも揃って女優にカマトト芝居させるんだよね。気持ち悪いったらありゃしない。
ぽわん:ううむ、そこに関しては私は特に賛同しないかな。だいたい、『わが星』は幼児の世界なので、ある意味徹底されているんじゃないかな。幼児の目を通して生と死をとらえたという・・・。『わが星』が支持される理由の一つに、生命讃歌があると思う。「人生はいつか消えてしまうからこそ、愛おしい」みたいなところを、柴幸男はすごく身近なレベルで書いたんだよね。ただ、残念なのは死を本当に直視しているようには見えなかったこと。
たぬき:私たぬきが人生で最初に死を意識した幼稚園児の時、その心象風景は卒塔婆とサンドストームが入り混じったようなとても怖い光景だった。とてもじゃないけど「人は死んだら星になる」みたいなファンタジーの介入する余地はなかったよ。『わが星』が奇麗事に終始してるのは言うまでもないけど、この作品が人生の本質を突いてるという意見には断固として反対しないわけにはいかない。
ぽわん:言えてるなー。少なくとも、この作品を絶賛しているひとや泣いたと言ってはばからないひとは、これが奇麗事だってことは認めるべきだね。


「右へならえ」で褒める風潮への違和感

ぽわん:それにしても本当に、『わが星』への評価は大絶賛だね。なんか、ネット上でも好評ばかりで、けなしにくい雰囲気じゃない? みんなが同じように「感動した!」って言っているのは、まあ本心からなんだろうけど、影響受け過ぎ? 付和雷同というか全体主義みたいで気持ち悪ーい。中には『わが星』は『わが町』よりスケールが大きいなんて意見も見たけど、冗談じゃないな。「町」と「星」だからそっちのほうが大きいなんて言うべきじゃないよね。神は細部に宿るんだよー!? まあそれはともかく、ワイルダーの『わが町』には、多様な人間や多彩な価値観が描かれているし、登場人物に血が通っている。にもかかわらずそれが宇宙規模に結びつく点にすごさがあるんだよ。一方、『わが星』の登場人物はぜんぶ、作者が言いたいことのシンボル、記号でしかなくて、つるんとしている。まあこれについては、作者も自覚しているだろうし、『わが町』とのスケールなんてことを言った第三者を批判してるだけなんだけどね。
たぬき:『わが星』が『わが町』よりスケールが大きいって感じた人にとっては、たぶん子供銀行の一億円札とか百兆ジンバブエ・ドルとかのほうが日本銀行の一万円札より価値が高いんだよ。そっちのほうが数字が大きいってだけで。信頼性とか考えないんだよ。
ぽわん:辛辣ですね、たぬきさん。
たぬき:物事に正直なだけだよ(笑)。
ぽわん:ちなみに、私の友達(ねこじゃないひと)二人が口を揃えて「幼稚な文系男子の夢物語」みたいなことを言ってたけど、文系男子のたぬきさんはその指摘をどう思う?
たぬき:まあ確かに、柴幸男が相対性原理のことをなーんにも知らないってのはよく分かるけど(笑)。
ぽわん:相当、ナイーブな作品だもんねえ。でも不思議なのは、若者だけじゃなく、いい年したおっちゃんも褒めてるってことだね。佐々木敦とかいとうせいこうとか。まあどっちも演劇のプロじゃないけど。
たぬき:ただの新しがり屋どもは後年恥をかくことになるだろうね。賞味期限の極めて短い表現って要するに一発屋のお笑い藝人と同じという事実から目を背けてほしくないよ。いわゆる助成演劇は賞味期限の引き延ばしに寄与してるみたいだけど。そういえば、この作品を岸田國士戯曲賞に推した一人である宮沢章夫は再演で初めて生の舞台を観て、なんとも歯切れの悪いtweetを残したね。「ある種類の人にとって受け入れがたいものも感じ」とか「僕も、いやなものを感じたかもしれない」とか。ただ、それに続く「しかし、すーっと私のなかに入って来たのは、演出する柴君の資質と、だからこそ生まれる表現を肯定できたからだ。」というのは自己撞着。「肯定できた」っていう言い回し自体が己の中での葛藤を表してる訳で、それと「すーっと私のなかに入って来た」という表現は矛盾している。
ぽわん:迷いながら自分を説得している印象だよね。
たぬき:なんで彼がそういう言い方をしてるかと言うと、「ある種類の人にとって受け入れがたいものも感じ」と彼が書く時、宮沢自身の中に確実に「ある種類の人」が存在してるからだ。そしてその存在を抹消しなければならないのは、それを認めてしまうと、その作品に賞を与えた自分を否定する、つまり「私は戯曲から実際の舞台成果を想像できない無能な人間です」と告白してしまうのと同義だからだ。
ぽわん:そう考えると、“自分は納得していないけど、今後に期待!”っていうようなことを書いた鴻上尚史が一番真っ当? わー、鴻上に共感する日が来るなんて思わなかったなあ(笑)。
posted by powantanuki at 03:13 | TrackBack(1) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。