2012年06月08日

豪華ならいいの??〜宮本亜門演出『サロメ』をめぐって〜

亜門演出は●×△天国?!

ぽわん:新国立劇場演劇部門2011-12シーズンのおそらく目玉であろう、宮本亜門演出の『サロメ』。たぬきさんの感想はどうだった?
たぬき:とにかく贅沢だったね。水を張った大掛かりな装置で血のりも多用して、人気作家・平野啓一郎の書き下ろし新訳だし、音楽は内橋和久の生演奏。キャスティングは山口馬木也とか植本潤とか「え?この人の出番、たったこれだけ? お隣の小劇場なら主役張ってもおかしくないのに・・・」みたいな豪華さだったし、麻実れいの紫色のドレスと奥田瑛二の赤いガウンが妙にヨウジヤマモトっぽいなと思ったら、実際あそこの衣装デザインだったし。
ぽわん:デザイナーに「具体名を出しちゃって恐縮なんですけど、ヨウジっぽいイメージで」なんて耳打ちしたりせずに(笑)ちゃんとお金を使っているという意味では、本物志向だよね。そのこと自体はいいことだと思う!
たぬき:ところが、そこで大きな矛盾なのが、他ならない亜門演出こそ本物志向とは正反対の、海外作家のコピー・パクリだって事なんだよね。相手が日本人だとパクリがバレちゃうから本人を呼んじゃえ!ってことなのか・・・
ぽわん:亜門がパクるっていうのはよく聞く話だよね。
たぬき:うん、二期会で演出したオペラ『椿姫』は、ヴィリー・デッカーの有名なプロダクションの焼き直しも同然だったと評判だよね。人物処理で言えば、デッカー演出の最大の特徴である、出ずっぱりの死の象徴=グランヴィル医師こそ居なかったけれど、「ヴィオレッタ&アルフレードvs.その他大勢」っていう絵面を作るのも、1幕のラストでアルフレードを舞台に戻しちゃうのも(声しか聞こえないのが普通。だってアルフレードはもう退出してて、バルコニー下方から声だけが聞こえてくるというのが台本の指定だもの)、2幕冒頭で本来は居ないはずのヴィオレッタを舞台に出してアルフレードとイチャイチャさせるのも、まんまデッカー演出。
ぽわん:まあ世の中にどれくらい、パクらない演出家がいるのかわからないけど、某『金閣寺』が某マルターラー演出の作品群のパクりっていうのはいろいろなひとが言っていることだね。言葉で類似を形容するのは簡単ではないんだけど、むき出しの床に大きく四角い独特の空間の囲み方。とくに『金閣寺』の後ろにドアがある感じとか、『ムルクス!』と、そっくりだよ。
たぬき:マルターラーってオペラの演出もやるよね。亜門って、オペラ演出に野心というかコンプレックスがあるのかな? 今回の『サロメ』でも「天井に45°の巨大な鏡」っていうのは、もともとオペラ演出家ギュンター・クレーマーの専売特許みたいなもの。デッカーとクレーマーと言えば、オペラ評論家の加藤浩子も、さっき言った亜門演出の『椿姫』に関し、「舞台上に、右上がりで大きく傾斜をつけた装置は、なんだかウィリー・デッカーのよう(新国の「軍人たち」を思い出しました)。会場であった某記者いわく、「デッカーとクレーマーをまぜたよう」。色彩感覚も、ドイツの亜流のようでした。」(加藤浩子の La bella vita(美しき人生))と指摘しているね。
ぽわん:色彩感覚がドイツ風なのは今回の『サロメ』にも言えることだねえ。それだけなら大した問題じゃないけど。
たぬき:まあ、いわゆるユーロトラッシュの連中も、お互いパクりパクられという感は否めないけれど(笑)、極東で人知れず一方的にパクってるというのは如何にもみっともないねえ。
ぽわん:え、つまりパクられるくらいのものを作れということ? そうしたらパクってもいいってこと??(笑)
たぬき:ふふふ、そこまで求めるのは酷だろうから(笑)パクり方、かなあ。例えば白井晃の舞台だって、ルパージュの影響をモロに感じるけれど、実際に彼はルパージュと共同作業したことだってあるし、少なくとも「僕はこういうのが好きなんです、こういう美学を追求してるんです」というのが伝わってくる。亜門の場合、とにかくあちこちから頂戴するばかりで、オリジナリティはもちろん対象への愛情も感じないよねえ。


きちんとした演技が見たい

ぽわん:じゃあ俳優というか、その舞台での在り方みたいなのはどうだった?
たぬき:そうねえ。今回、亜門は作品のバックグラウンドに関する座学をみっちりやったみたいだけど、その割に見えてくるものがなかったね。
ぽわん:あーでもああいうのは、俳優の共通認識を作るためのものだから、別に勉強したことがそのまま舞台に出なくてもいいんじゃないの?
たぬき:それはそうなんだけど、あの舞台を見ると、ほかにやることもっとあったじゃんって思っちゃうんだよ。たとえば今回のサロメで言えば、妖艶なファム・ファタルじゃなくて、無垢ゆえの残酷さを持つ少女という解釈はいいんだけど、多部未華子は、それを全くもって浅薄なレベルでしか表現できていない。
ぽわん:もっている資質に設定をあてはめた、以上の表現には達していなかったかもねえ。それは演出というより俳優本人の力量じゃなくて?
たぬき:うーん、演技プランを演出家と俳優がシェアすると考えれば両方かな。純粋さという名のアイドル芝居的ステレオタイプを表面的に繰り出すばかりで(こういうのがいちばん安直なんだよ)、深いレベルでの身体表現がおろそかだし、むろん台詞術も拙い。そういうサロメ像を意図したとしても、全編あの調子じゃ、もたないよ。それから例の「7つのヴェールの踊り」だけど、あんなショボい踊りを見せられちゃった日には、私たぬきがヘロデ王ならその場でサロメの首を刎ねてるね(笑)。
ぽわん:とほほ・・・。実を言うと多部未華子はいいものを持っていると思うんだけど、ちょっと今回の舞台はハードルが高過ぎたのかもねえ。あ、でも、演出的に言うと、銀橋みたいなのを使って、その上でサロメとヨカナーン(成河)の対話場面を作ったのは悪くないアイデアだったよ。
たぬき:あの対話がもっと心境の変化とかがわかる内容だったらねえ。
ぽわん:今回の『サロメ』は全体的に、対話というより登場人物が勝手に存在するという感じだったね。それは多分意図的で、あの作品ではアリなのかもしれないけど。
たぬき:奥田瑛二のヘロデ王は、例のナルシスト芝居のアクを抜くので精一杯という感じで、ドラマの人物になっていない。映像での仕事が多い俳優だからか、端的に言って舞台の位置取りとか台詞の振り方がなってないし、何しろ相当残忍な事をやってきた王なんだから、前半はくどいくらいに信心深さと死への恐怖を出しておかないと、後でなんでヨカナーンの首を欲しがるサロメをあれだけ嫌悪するのか、整合性が取れなくなるんだけどねえ。まあ、相手が舞台女優の麻実れいだから分が悪いのはしょうがないんだけど。
ぽわん:その意味で、麻実れいの美しさ、妖艶さは的確だったよねえ。娘と違って派手なんだけど女王の品格や余裕もあったし、サロメやヘロディアスに比べて台詞の量が少ないということもあったかもしれないけど、台詞運びも落ち着いてた。
たぬき:私見で言えば、麻実れいさまが踊ってくれたほうが、私はご褒美を弾んだよ。
ぽわん:でも、それじゃあ物語が変わっちゃいますから!


今、舞台と演出に求めたいもの

ぽわん:ともかくね、宮本亜門は、台詞の言い回しとか対話とか俳優としての佇まいとか、そういう演劇の根幹をなすべき部分の力量あるいは配慮が足りない気がするの。ダンサー出身だから、とはあまり言いたくないんだけど。それでもかまわない作品ならまだしも、やっぱりずっしりした台詞劇だと、つらいよね。
たぬき:これは正直な話、見た目のインパクト優先の舞台ばっかり褒める評論家がいちばんいけないと思うね。だって、それだと端的に言って役者が上手くならないんだよ。「時分の花の人+ほぼ天分だけでやっていけてる一握りの人」の組み合わせばかり見せられるのは、もうたくさんだ。
ぽわん:けどそれは作り手(制作とか演出とか)のせいでもあるんじゃないの。
たぬき:まあね。例えば蜷川とかつかさんとか(前も言ったけど、私たぬき、この人ばっかりはどうしても"さん付け"になっちゃうんだよね)は見た目のインパクト追求派と言っていいだろうけど、彼らはある意味で役者を使いつぶして来たよね。
ぽわん:おお! つぶしちゃいましたかね??
たぬき:実際に俳優としてつぶしたとまでは言わないけど、罵倒とか口立てとか、あの手この手を使って、なんとか時分の花を舞台でも咲かせようとしたわけだよね。でも、どちらも結局のところ、「熱演」というインパクトに落ち着いてしまう。それって、下手な役者を下手に見せないための当座凌ぎに過ぎなくて、演技者の成長には実はそんなに結びついていない気がするんだ。例えば1月の『下谷万年町物語』。藤原竜也を除けばいかにも能力に限界のある主役級の若い俳優たちを、蜷川がいかにボロが出ない形で格好をつけることに腐心していたことか。皮肉でも何でもなく感心しちゃったよ。
ぽわん:頭のいい俳優なら、そういう経験からも学んで自分で成長していくだろうけどね。まあ、集客力と演技力を併せ持った俳優が少ない以上、そこは今の日本では、演出家の力量として求められる、重要な条件だね。
たぬき:鵜山仁や栗山民也は、下手な役者を上手くすることが出来る演出家だよね。ぽわんさんは栗山のほうが好みかな?
ぽわん:栗山も視覚性重視だし、時々パクったりもするようだけど、強みはそれだけで終わらないこと。ちゃんと、主役を立たせつつ、アンサンブルも作って、全体としてのきめ細やかな演技を作ることができるんだよね。ここを若い演出家は見習ってほしいよ。あと、これは演出だけじゃなく劇作もやっているから、どういう力量なのか上がった舞台だけでは判断しにくいけど、ケラリーノ・サンドロヴィッチも、タレント使ってもけっこう違和感ないことが多いかな。鵜山は・・・プロダクションによるかな。
たぬき:鵜山っていかにもインパクト追求から遠いから、世間の評価は決して高くないんだけど、この人は生まれついての演出家だと思う。グランドデザインの立て方、役者の動かし方、個々のキャラクターのふくらませ方、どれもすごく的確で、見てて気持ちいい。特に、後者2つは役者が上手くなれるポイントだと思うな。
ぽわん:うわ、すごく褒めてる! じゃあそのうち、鵜山演出のたぬきさんの分析をうかがう機会を設けましょうかね。
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2012年04月03日

演劇界の裸の王様!? 長塚圭史演出『ガラスの動物園』のどこがダメか

ローラは聾唖(ろうあ)じゃない

ぽわん:以前、『欲望という名の電車』を扱ったこともあったけど、我々は何を隠そうテネシー・ウィリアムズをこよなく愛する猫なんだよね。生誕100年の去年から日本でも上演が続いているけど、今年に入ってからは、長塚圭史の演出する『ガラスの動物園』上演が話題だったね。我々も観たわけだけど・・・
たぬき:これがまた困った代物でね。我々は「南部の雰囲気が感じられなくてはウィリアムズ作品とは言えない」みたいなことを言うほど心が狭くはない、というかコンヴィチュニーが好きなことからも分かる通り、新解釈自体は歓迎するタイプなんだけど、とにかく何もかもダメだったねえ。
ぽわん:まあ順を追って考えていくとしようか。まず、SIS COMPANYらしい豪華な顔ぶれが一つの話題だったと思うんだけど、各役者さんの演技はどうだった? わたしはまず、深津絵里のローラの演技が辛かったな。喋るのが終始、不自由なんだもの。言うまでもないけど聾唖者がどうこうじゃなく、事実として、ローラは聾唖者じゃないから。だよね?
たぬき:そうだね。極端な芝居をさせればそれだけ舞台にインパクトを与えられるという短絡的な発想はいただけない。ローラって、引っ込み思案で、端から見たらいわゆるパニック障害というやつかもしれないけど、少なくともウィングフィールド家の人間にとっては普通なところのある少女だと思えないと、芝居が成立しない。でないとアマンダが本気でローラの結婚相手を探したりはしないし、家を出たトムにとってのトラウマになったりはしない。
ぽわん:あんな状態で娘の結婚を考える時点で、アマンダが頭おかしい!みたいになっちゃうよね。そんな母の暴走を止められなかったトム、みたいな。わー、なんか違う劇みたい。さっき、「聾唖」って言っちゃったけど、あのローラの演技にはつまり、緩急があまりなかった。メンタルの事情じゃなくて第一義的に不自由、という印象があったんだよ。もちろん、そこからさらに酷くなる瞬間もあったけど、演技のベースがそんなだから効果が今ひとつ。興奮のあまり蓄音機をがちゃがちゃ操作する場面なんて、いつ「ウォ、ウォーター!」って叫ぶかと固唾を飲んで見守っちゃったよ。パンフレットなどは読んでないんだけど、演出の長塚はローラのモデル(作者の姉)がロボトミー手術を受けたということを引きずられ過ぎたんじゃないかねえ。
たぬき:うん。立石凉子のアマンダもいまいちだったね。あれじゃ気のいい煙草屋のオバサンだよ。ローラの母がただの苦労人なら娘があんなふうに育たないわけで、彼女にもある意味で歪みがある。その辺が分かってないね。
ぽわん:そう、アマンダは、一面的に、普通のオバサンなのでもエキセントリックなのでもないから、まさに歪み。立石はその複雑さを表現できていなかったと思う。まず、かつて美人だったとは信じ難いし、(南部女性の)誇り高い女というより頭のイカれた勘違い女っていう雰囲気だったし。客席が彼女の演技を受けて「わー、お母さんも苦労が多いね」とか「こんなお母さんだと大変だね」とか、そういう感じで沸いていたのにも違和感があったよ。前者と後者では正反対だけど、どちらにしても妙に庶民的で、この劇を今、どこにでもある家庭劇にしてしまっていたねえ。あ、それって長塚演出の意図だったのかなあ? 
たぬき:『ガラスの動物園』というかウィリアムズ戯曲の危ういところは、話の筋自体は通俗劇というかメロドラマと言っても差し支えないところ。だから、ウィリアムズ戯曲の美点である、エゴイズムと表裏一体になったリリシズムを丁寧に掬い上げられなかった時点で、ただの通俗劇に堕してしまう。
ぽわん:今回、「わ、このアマンダ/ローラっておかしくね?」感を助長させていて残念だったのが、鈴木浩介のジムの、受けの演技。あの家庭に入って戸惑う/アマンダの勢いに気圧されるっていうのはまあ間違いではないけど、客席に、ジムに対して「わかる、わかる」っていう同情的な笑いが生まれていたのは違うと思う。あれだと“健康で普通の人であるジムが、頭のおかしい家庭に入っちゃった”みたいな印象。でも、これは声を大にして言いたいけど、本当は、ジムだって複雑な人間なんだよ! ジムは、末は大統領かと思われるくらいの高校生のスターだった。でも、その後、失速して、トムと工場で働いている。これはすごく重要なポイントだと思うんだよね。若いころに一度絶頂期を味わった人間はそれが忘れられない。そこからどうにか這い上がろうと、話し方を学んだりして自分を鼓舞している。その哀れさ・惨めさ・痛さみたいなものが、今回のジムの鈴木からはまるで感じられなかったなあ。
たぬき:それこそ、ある種のセミナーを受けて人格がフラットになっちゃった人、みたいな感じだよね。
ぽわん:え? それってやばいセミナーってこと?? 別にそうは思わなかったなあ。ただ、演技が平板というだけ。それ以上でも以下でもなく。
たぬき:いやね、なんであんなにフラットな芝居をやらせるんだろうと考えると、ひょっとするとその手のサブテキスト強調系演出がやりたかったのかと思って(笑)。
ぽわん:ほほう、その線で何か読み取れた?
たぬき:いや、何にも・・・。この手の“プランの欠如”が今回の欠点の一つだったと思う。
ぽわん:もちろん、実際にはプランはあったんだろうけど、十全な効果を伴って伝えられなかったってことだよね。だから、なぜローラにキスするのか、その感情の流れも演技から見えてこなかった。そもそも、ローラ、トム、アマンダに比べて、キャスティング的にも軽視されがちなジムだけど、この役、もっと重視されるべきだよ!
たぬき:ローラとジムがダンスするうちに、ジムがガラスのユニコーンにぶつかっちゃって角が取れて、そこからキスに至るまでの流れって本来ものすごくいい場面なんだけど、キスする直前までずーっと2人を棒立ちの向かい合わせにしたまんま台詞言わせてたから、なんでキスに至るかさっぱり分からないんだよね。それにしても我々が見た日はヒドかったねえ。ジムがユニコーンにわざとぶつかる感アリアリだったのには目をつぶってやってもいいけど、一度ぶつかってもユニコーンは落ちなくて、わざわざもう一度足で蹴って倒してた。あれが意図的な演出でないことを祈りたいね。
ぽわん:まあ毎日演じているんだから、たまにはミスもするよ。毎日ああだったらちょっとどうかと思うけど。


アイデアは思いつきの段階を超えるべし

ぽわん:さて、作者の分身と言われるトムを演じた瑛太はどうだった?
たぬき:意に添わない労働に明け暮れる若者の鬱屈した感じがなかったね。顔にも芝居にも陰影がないから、単に甘やかされてDVに走るイマドキの若者にしか見えなかった。
ぽわん:えー! DVというほど暴力的ではなかったよ。でも、瑛太というキャスティングの時点で予想できたことながら、これまた一本調子だったね。『ガラスの動物園』って時系列的にちょっと難しいところがあって、過去にこの作品を読んだり観たりしたことのある人なら、あの悔恨に満ちた痛切なラストの言葉を想わずには観られない。そこから逆算した「回想」「追憶」としての劇を、トムを通してどう描くかが、一つのポイントだと思うんだけど、瑛太の、というか、長塚の、というか、この『ガラス〜』にはその視点が足りないように感じられた。強いて言えば、ダンサーを使ったのは、その辺りを考えたとも言えるとは思うんだけど・・・
たぬき:そう。ウィリアムズ本人が言うように、『ガラスの動物園』は'memory play'。8人のダンサーはおそらく記憶のおぞましさみたいなもののメタファーなんだろうけど、その割には道具を動かしたりしてるだけなんだ(笑)。だって元々が舞台転換ゼロ、一杯道具の室内劇なんだから、机だの椅子だのを動かしても全然効果的じゃないんだよね。
ぽわん:演劇におけるダンサーの使用っていうと「うへぇ」って感じのセンスのないのも多いんだけど(陳腐なショーダンスっぽかったり、見た目がダサかったり)、今回は白塗り含めて、あの白い装置にうまく溶け込んでいて、振付も独創的で悪くなかったとは思う。でもって椅子やテーブルをダンサーが動かすこと自体が、もっとダンス的なイメージで徹底的に行われていたら、「ほほう」と感心したかもしれないけど、場所の変化がない室内劇だからせめて工夫してみました、の域を出なかったかねえ。でも、たぬきさんが言っているのは、きっともっと根本的な話だね?
たぬき:うん。おそらく、オリジナルの上演台本では映像で処理するように指定されてるいろんな要素を、映像の代わりに人間でやってみるというのが根本の発想だったんだろうし、「芝居の内容に付きすぎるとダサくなる」っていう懸念からあのくらいの距離感になったと思うんだけど、効果的とは言えなかったね。その程度なら、最初から出さなきゃいいじゃんと思っちゃう。
ぽわん:トムの心理・記憶をダンサーたちに担わせるという意図と、転換をさせるということが、いまひとつつながっていなかったと言えるかな。転換と言えば、途中でいきなり、ダンサーたちによって、椅子や蓄音機などを舞台前面に一列に並べ始められたのはちょっとびっくりした。それをやるなとは言わないけど、この工夫も、アマンダらがいる奥の部屋と、ジムがアマンダと話す前の部屋っていう空間分けをしたかった以上のものがなかったかしらねえ? 
たぬき:前が居間兼ローラの寝室、後ろが食堂っていうのがオリジナル脚本の指定だから、途中までオリジナルの指定を破って、クライマックスで戻しただけだね。でもさ、そもそも、指定を破ってまで、コクーンの奥行きの広さをうまいこと使ってたかというと全然そんなことなくて、基本的に芝居が行われる前舞台とそれ以外のオマケ的行動が行われる後方って感じに分断されてたよね。役者の声が届かないから奥で芝居させなかったのかもしれないけど。
ぽわん:舞台奥の、タイプライターが置かれた机の辺りが比較的孤立気味だったのは、要するに回想を意識したんだと思う。照明や何かで極端化したりはしなかったけど。
たぬき:その辺の意味づけも中途半端だったかなあ。あざといことやりたい野心はイヤっていうくらい感じるんだけど、それがセノグラフィーとしてまったく未完成。少なくとも道具は抽象度の高いものにすべきだったよねえ。
ぽわん:食事に際しての食器は無対象、でも蓄音機や電話はあったね。その意図を、たぬきさんはどう取った?
たぬき:うん。戯曲では、食事に関しては無対象が指定されてる訳だけど、今回は1場面のコーヒーカップだけ実物で、その場面のお砂糖とかはもう無対象。その場面以外の食べ物とか飲み物は無対象。意味ありげなつもりなんだろうけど、場当たり的な思いつきにしか見えなかったなあ。あとほら、アマンダが食堂に飲み物を取りにいくとき、左右に3つずつ並んだ計6個のドアのうち、上手側一番奥のドアから出て行って上手側いちばん手前のドアから戻ってくるっていう、ある種の違和感を狙った演出がされてたけど、それって「これはmemory playです。記憶の世界は歪みます」みたいな目配せだったのかなあ。
ぽわん:ちょっと記憶が曖昧だけど、トムが出て行く時にも複数のドアが開いたり閉まったりしてたよね。「閉塞状況」とか、「人生における選択/道」とかを表したかったのかな?
たぬき:そういうのって、演出家のプランとして筋を通さないといけないんだよね。いろいろ変なことやってるんだけど、肝心の芝居が一本調子だなんてシャレにもならない(笑)。コンヴィチュニーの時に使った言葉をもう一度使うと、グランドデザインとディテールの統一ってやつ。じゃないと、「そりゃあドアの向こうは台所じゃなくて単なる袖なんだからどこから出てどこから戻ろうと自由だろうさ、演助の数さえ揃えればいくらでも同時にドアは開くさ」みたいな気になっちゃうんだよね。
ぽわん:演助って・・・。今更ながら、すれっからしだね、たぬきさん(笑)。
たぬき:ふふふ。例えばまあ「閉塞状況」ないし「人生の選択」がコンセプトだとすると、家を出たトムは、閉塞状況から抜けられたのか、行った先も閉塞状況だったのか、その選択は正しかったのかということを役者も小道具も大道具を駆使して分からせないといけない。これは余談になるけど、蜷川幸雄はその辺分かりやすすぎるほどビジュアルで分からせる訳で、あのくらいの気持ちでいないといけないよね。
ぽわん:まあ、蜷川だと、シンボル、シンボルと、さぞかし鬱陶しくなっただろうな〜。


見抜く観客だって、いる

ぽわん:結局、長塚演出は、工夫が効果につながらず、結果として表面的に色々やってみただけ、という感じがするねえ。恐らく今回、敢えて現代的な感覚でというのが、起用したSIS COMPANYや長塚の趣旨だったんだろうけど、現代的=表層的ならいい、というわけじゃないからねえ。これ、ほかの“現代的”とされている小劇場芝居にも言いたいことなんだけど・・・。
たぬき:「こういうのがリアルでしょ、クールでしょ」みたいなのが現代的だとするなら、ほんと勘弁してほしいね。ヒューマニズムに基づく近代劇であるウィリアムズ戯曲でどうしてもスーパーフラットな世界を作りたいのなら、戯曲に書かれたヒューマニズムの記号を全部つぶしていって、それを別の何かに置き換えるというものすごく面倒な作業がいる。そこまで行けたら感心するんだけどねえ。
ぽわん:さっき、たぬきさんが「セノグラフィーとしてまったく未完成」って言ったよね。これは本当にその通り。あの舞台はお金もかかっていたんだろうし、装置ほかビジュアル的には一見綺麗。写真だったら「素敵な舞台」って思うかもしれない。でも演劇というのは動くものだからね。その動かし方を含めた視覚性という意味では、残念だけどうまくいってなかった。
たぬき:コクーンの長塚演出と言えば、市川海老蔵と宮沢りえの『ドラクル』も無駄にお金がかかってたけど大して意味がなかったね。アンタ盆を2つ作って回したいだけでしょみたいな装置に、最後は照明で目つぶししてる間にドラキュラが脱出するっていうやつで。
ぽわん:『タンゴ』も、串田和美の美術は挑戦状みたいな、かなり取り組み甲斐のあるものだったけど、舞台全体がそのインパクトに負けていて、前衛の真似事みたいになっていたなあ。美術をはじめ思い切ったビジュアルのものが多くて、面白いんだけど、使いこなせてない。これは長塚演出での外部公演全般に言える気がする。結局、演劇界で嘱望されていて、ある程度資金を使うこともできる環境にいるわけだけれど、十全に答えられていないんだよね。というわけで最後にちょっと、演劇界の星、長塚圭史の可能性について考えてみましょう。劇作家として袋小路にある気もする長塚だけど、さて、では、演出家としてどうなのか? 何が長所で、どこに改良の余地があるか?
たぬき:そうだね。彼の本来の劇作家としての長所はもちろん、話を転がすというか大風呂敷を広げる上手さ。ただし広げた大風呂敷を畳むのが絶望的にヘタで(=予定調和か投げっぱなしのどっちか)、正しい畳み方さえ覚えれば順調だったのに、変に内的世界みたいなのを描くようになったよね。
ぽわん:いや、風呂敷を広げるのも、若さの割には、というだけで、わたしはそんなに才気を感じていなかったな。男の子がわーわーやってる、その勢いを買われたってことだと思う。小さなところで楽しくやっていたところから、一定程度のサイズがある劇場で、しかも今回みたいな名作戯曲を調理するにあたって、どう機能し得るかっていうこと。
たぬき:演出家としては、古典にどうしても我流の解釈をしたいのなら、プランを徹底して貫いてほしいよ。我々みたいな、すれっからしも納得するようにね。
ぽわん:まあ今更だけど演劇ってやっぱり難しいもので、観劇歴をある程度重ねると、良いものや、いまひとつなものもわかってくるけど、若いころから作り手であり続けてきた長塚には、それを知るだけの時間や実行する技量を育む余裕がなかったんじゃないか。経験において無駄をはぶくのが、伝承とか継承とかだと思うけど、日本には演出家の養成機関はないし、いまや新劇の劇団の影響力は見る影がない有様だし。彼をはじめ、今の演劇界の才能たちには、演出とはどういうものか、近代劇とはどんなものであるか、きちんと学ぶ機会がなかった。アンチ〜として意識することすらなかった。でも、こういうこと言うと煙たがられるんだろうけど、やっぱり土台なくして成長なしというか、飛躍に限界があるんだよね。その意味では、長塚も可哀想ではある。でも、そういう舞台を見せられる観客も可哀想だよね! そして、もし長塚がそのことに気づいていないんだとしたら、誰かが言ってあげなくちゃいけない。だから、こんな場所ではあるけど、我々も敢えてうるさく言ってるわけだけど。
たぬき:そうだね。「綺麗だったー」「俳優さん素敵だったー」で終わるひともいるけど、浅慮な手の内を見抜いてしまう観客だって結構多いんだということは、肝に銘じてほしいね。
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2011年12月29日

斎藤憐の死をきっかけに社会劇の今後を考える


社会劇の旗手だった斎藤憐

ぽわん:なんともはや、おひさしぶりですねえ、たぬきさん。
たぬき:なんでこんなにご無沙汰しちゃったかというと、あれは蝉時雨の頃・・・奥多摩にあるという伝説の地・マタタビ山を目指した我々2匹。野犬やキツネの攻撃に耐えながら、嗅覚だけを頼りに道なき道を登って行くと、そこには・・・
ぽわん:実在したんだねえ、マタタビ山・・・ 花の他にはマタタビばかり・・・
たぬき:マタタビ酒、マタタビ布団、マタタビ御殿・・・ 狂乱の日々を送る間に、気がつけば体の芯まで冷え込む季節に。
ぽわん:まだ冬毛にもなってなかった我々は、凍えながら東京へ戻ったのでした。とほほ。まあ、わたしは最後のほう、ちょこっと抜け出して東京の劇場に行ったりもしたんだけど、すぐ戻ってはマタタビ三昧の毎日だったからねえ。
たぬき:前置きは以上として、さてさて久しぶりの現場復帰は、ちょっと時機を逸してしまった感はあるけど、骨太な社会劇や歴史劇が書ける最後の劇作家とも言える斎藤憐について考えてみたいね。彼が亡くなったことは、やっぱり日本の演劇界にとって大きな損失だったと思うんだよ。
ぽわん:時流に乗っているかと言えば明らかに違うけれど、わたしたちが生きているのはまだ20世紀の影響を色濃く残した21世紀なわけで、その20世紀の諸問題をじっくりと提示した硬派だものね。井上ひさしとは違うかたちで、ダイレクトに社会を表現した。扱っている題材が明確な分、広がりっていうか幅っていうか、そういうものはなかったかもしれないけれど、演劇が社会的に何かを訴える手段であった時代もあったんだよねえ。そういう社会的で硬派な劇作家って、以前はたくさんいたね?
たぬき:戦後に限っても、木下順二を筆頭に、三好十郎、秋元松代、宮本研、福田善之・・・ 福田は健在だけど、みんな死んじゃった。「まだ坂手洋二が居るじゃない」という人もいるかもしれないけど、坂手はやっぱり山崎哲の元で学んだ人で、斎藤憐的な硬派とはちょっと違うんだよ。
ぽわん:つまり?
たぬき:要するに近代劇の枠をはみ出ているというか、アングラ的なロジック無視の飛び道具が多用されるんだよ。もちろん斎藤憐の作品にだってリアリズムを逸脱した幻想的シーンは出てくるんだけど、それは1作品の中で多くて2場面程度。そのくらいに抑えておくことがかえって効果的だって知ってた訳だよね。
ぽわん:あー、そうだねえ。わたしぽわんがマタタビ山から戻って観た『たったひとりの戦争』も、むりやり飛躍させ過ぎていて、観ていても気持ちがついていかなかったもんなあ。題材に取り組む姿勢には感心しつつ、盛り沢山過ぎるし、無理に似合わないラップやら携帯小説やらの流行(?)を取り入れて寒かったし(ぐちぐち・・・)。劇作上の飛躍って実はわたし、好きなんだけど、センス・説得力がものすごく問われるんだよね。確かに斎藤憐の書くものはもっと地に足がついている感じ。とはいえ、例外的にある種の飛躍があって生まれたのが、他ならぬ傑作『上海バンスキング』だったという気もするけどね。あれは志向の違う串田和美とのマッチングがうまく働いた例だねえ。
たぬき:うん。まあ『上海バンスキング』って、音楽を抜きにして単純に戯曲として読めば、「制度=抑圧からの脱走」と、にもかかわらず「幻と消えた自由」という、よくある左翼系ウェルメイド・プレイ。むろん以後の斎藤作品にも、音楽劇・ストレートプレイを問わず、音楽が物語を紡ぐ糸になっている作品は多いんだけど、それはやっぱり、ばらばらなものを束ねる「糸」であって、おもちゃ箱ひっくり返し志向の串田とはベクトルが正反対だからね。
ぽわん:あれはあれで絶妙だったよねえ、しみじみ。
たぬき:ともあれ斎藤憐の偉いところは、空間と時間の凝縮を旨とする近代劇の枠に敢えてとどまったこと。実際、三単一の法則が有する観客を引きつける力というのは、本当に馬鹿にならない。音楽の力とか幻想性とかは、あくまでその凝集性を助け、彩るものだったんだね。
ぽわん:うんうん。
たぬき:もちろん彼だって、初期の作品ではいろいろ実験的な試みをやってたんだけど、井上ひさし同様、年を取るごとにやっぱり堅固な劇構造ってやつの偉大さに気づいたんじゃないかなあ。ぽわんさんが言うとおり、枠組みを取り払った飛躍系芝居を成功させるのは、羅針盤なしで大海を渡るようなもんで、ほんとにリスクが大きい。当たればデカいけど正直確率は低いし、そもそも相当の才覚が要るよね。


現在進行形の社会劇とは

たぬき:と、ここまで斎藤憐礼賛の言葉を連ねてきたわたくし、たぬきだけど、実のところ、彼が終生抱き続けた制度的なものへの生理的な反感と、それと表裏一体となった完全なる自由の希求ってやつは、さすがに耐用年数が切れてしまったとも感じているんだ。これは無論、彼の演劇人生が60年安保の敗北と軌を一にして始まったという個人史的な事情に端を発している訳だけど。
ぽわん:つまり、そんな斎藤憐と、まだ今後生きて行かなければならない作家は違う、と?
たぬき:うん。要するに「制度=悪」という概念そのものが古びてしまってるんじゃないの? 最近は「制度自体をアプリオリに悪とみなすこと自体が往々にして最悪のシステムを形成する」みたいな考えが主流でしょ?
ぽわん:そうだね。制度自体に圧倒的な強度がないというか、真っ向からぶつかっていくような「体制」自体が見えないもんね。見えないだけで存在しているのかもしれないけれど。そこへいくと、坂手は仮想敵(?)を設定して闘うところが、ちょっとドン・キホーテ的でもあり、やっぱり古風だと言わざるを得ないね。本人ももちろんわかってやっているわけだけど。
たぬき:ただ、坂手が昔からやってる沖縄とか紛争地帯をネタにした芝居って、正直「助成つきで安全地帯から題材を搾取するだけの植民地主義的演劇」みたいなレッテルを貼られる危険性があるとは思うんだ。もちろん本人がいちばん自覚してると思うけど、一旦始めるとやめられないんだねえ。
ぽわん:長年続けていると、書き手にとって身近な問題から、一歩も二歩も手を伸ばさなくてはならなくなるからね。戦場ルポライターがどんどん危険地域に行くのと同じかな? つまり、意味のあることだとも言ってるわけなんだけど、わたしは。
たぬき:もちろんわたくし、たぬきもアクティヴィストとしての坂手は大したもんだと思ってる。ただ、ひとつの事件に関してデマも真実もいっしょくたになって膨大に流れてしまうこのネット時代に、ああいうアプローチがどこまで有効なのか疑問を抱かずにはいられないねえ。彼は一本の芝居に「隠された真実」と「変にファンタスティックなユートピア」と同時に詰め込むのが好きだけど、それってネット上のコミュニティの似姿でしかない気も…。
ぽわん:じゃあ21世紀になって考えられる社会的表現ってなんだろう? そもそも、すべての演劇が、言ってしまえば社会性をもっているとも言えるわけだけど、ここはひとつ、斎藤憐的な狭義の社会劇について考えようよ。
たぬき:えーと、彼はもっぱら歴史劇という形で社会問題にアプローチした劇作家だから、まずその線で考えてみよう。鄭義信とか青木豪とかの自伝ベースの芝居は、昭和という時代を笑いあり涙ありで描いたという点では、井上ひさし=斎藤憐ラインにつながるようにも見える。けどやっぱり違う、というかどこか食い足りない。それはつまり、井上戯曲で言えば「諸悪の根源は天皇制だ!!」斎藤戯曲なら「制度は抑圧だ、自由万歳!!」に相当する、切実な叫びがないからなんだよね。やっぱり、共感するしないとは全く無関係に、観客って何らかの強烈なメッセージを受け取りたい訳。家族愛とか人間讃歌で終始されても物足りないんだよ。
ぽわん:まあ、鄭にしても青木にしても愛や讃歌だけじゃないと思うけど、悪や批判も個人史的な感じで、普遍的な広がりがない感じだからね。
たぬき:うん。例えば、バブル経済とその崩壊なんかも、いい加減劇作家個人の体験の延長線上なんかじゃなくて、もっと深い、あるいは広いパースペクティヴを持った歴史劇として取り上げるべきなんじゃない? だって、東京裁判の速記録を元に構成された木下順二の「審判」第一部が上演されたのが、裁判終結から数えて22年後。もうすぐ終わろうとしてる今年2011年も、プラザ合意から26年、総量規制から数えてすら早21年なんだからね。
ぽわん:考えてみたら、わたしたちの寿命なんてとっくに尽きてるねえ。
たぬき:いや、そこはほら、マタタビの威力で・・・。


「何を書くか」と「どう書くか」の関係

たぬき:歴史劇じゃなくて、現代を直接扱う場合なんだけど、坂手的な告発劇の衝撃度が落ちてきてるとするなら、やっぱり永井愛とか渡辺えりみたいに、身近な怒りに端を発しつつもそれを1本の娯楽劇に仕立てるってやつがいちばん、社会的な訴えかけとして有効、ってことになるのかな。「制度=悪」という斎藤憐的大風呂敷じゃなくて、「考えれば考えるほどコレって問題だよね」みたいな、やや射程距離の短いタイプ。
ぽわん:それをたとえば、今の若い世代がやるとしたらどうなるかな? 今年のフェスティバル/トーキョーの公募アワードを受賞した捩子ぴじんなんかは、コンビニでアルバイトする自分というものを描いたけど、まんま過ぎて演劇としてどうか?という議論も。もちろん例外もあるけど、今評価されている作家のおおまかな傾向として、外はどうでもいいから自分の世界だけをひたすら構築したいっていうタイプと、ひねりがなさ過ぎと言われるくらいにそのままずばりなタイプと、分かれている気もする。若い作家の力量からすると、なかなか歴史的な文脈も踏まえ、政治的な批判や社会への鋭い眼差しも感じさせつつ、フィクションとして豊かなものを作るっていうのは、端的に言って難しいのだろうけれども。
たぬき:年齢は少しいっちゃうけど、松田正隆なんかは堂々たる前衛仕立てで健在だし、確かに若い人のドキュメンタリー風味の今様報告劇みたいなのは増えてきたねえ。でもさ、根本的には社会劇って、マスに届いてはじめて機能する訳で、そういう意味でも、斎藤憐が自負してたウェルメイドな職人芸アプローチってやっぱり大事じゃない?
ぽわん:それが今の作家の多くにとって、難しかったり興味がなかったりするから、少ないってことかなあ。最近では岡崎藝術座が移民や国家について扱ってたね。内容にはちょっと不満が残るというか、もっと問題の所在をしっかりえぐってほしかったし、身体や空間の可能性を探求してほしかった・・・と、不満も残るけど、引き続き進めていってほしい方向性ではあるかなあ。
たぬき:うん。「掘り下げろ」は、いくら強調してもしすぎることはないね。とにかく資料集めと読み込み、あと、取材には手間をかけないと。それで思い出したけど、平田オリザも下調べの重要性については強調するところだよ。でもここだけの話、「何を書くかは問題とされない。いかに書くかだけが問題とされる」という、彼が切ってみせた大見得の悪影響って大きかったと思うんだ。あのせいで「何を書くか」がひどく軽視されてしまった。そもそも、社会劇って「何を書くか」ありきじゃない?
ぽわん:内容と形式の問題っていうのはどの芸術ジャンルにも言えることだね。でもさっきも言ったように、「何を書くか」だけだと、そのまんま過ぎるんだよ。「何を書くか」と「どう書くか」。さじ加減が難しいけど、わたしとしては両方にこだわりたいかな。
たぬき:要するに、「言いたいことは何か」と「それがどのくらい表現として完成されているか」の両方を問うという、至極当たり前の話だよね。
ぽわん:そう。若い創作志望者は往々にして「意余って力足りず」状態だけど、だからと言ってこちらとしては大目に見る訳にはいかない。仮に彼らの修練が不足していたのなら、観客の貴重な時間とお金を使わせてしまった以上、批判されても甘んじて受けて次に行かなければならないね。なんでこんな言わずもがなのことを言うかというと、今の若い作家って、批判されるとムキになって、しかもブログやツイッターやインタビューで「むかつく」とか言うから、批判しにくいんだよね。
たぬき:確かに、作品上でもツイッター上でも、「オレはこういうことが言いたいんだー分かってくれー」みたいな感じの人が増えてきたねえ。それだけじゃ作品としては無価値なのに。
ぽわん:もともと作家もそういうことを言いたくて、ブログやツイッターがいいツールになったということかもしれないけど、できれば作品で、ダイレクトにではなく観客それぞれの問題意識に照らし合わせて考えられるような感じで豊かに語ってほしいね。
たぬき:我々こそご意見無用の言いたい放題状態だけどね…。
ぽわん:批判的な意見が言いにくい空気だから、わたしたちだって過激化しちゃうんだよね。でもだから、わたしたちみたいな意見も、虫がいい言い方かもしれないけど、作り手側もポジティブに参考にしてほしいんだよね。むかつくだろうけどさ(笑)。ってことで強引だけど、来年の演劇シーンが、たくさんの意見でより豊かになることを祈ってます!
posted by powantanuki at 01:25 | TrackBack(0) | 演劇論ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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