2013年02月15日

岸田國士戯曲賞2013発表記念!?(ウソ)〜KERA vs 蜷川幸雄『祈りと怪物』〜


KERA戯曲はありやなしや?


たぬき:今日は、今年の岸田國士戯曲賞が発表になったことで少々(?)湧いている演劇界にちなんで、その選考委員でもあるKERAが書き下ろし、お正月をまたいでの演出家対決が話題になった、Bunkamuraの『祈りと怪物』の話をしたいと思います! そもそも戯曲として大した出来ではなかったと考えているので、まずそこから話すとしましょうか。
ぽわん:世間的には評価の高いKERA戯曲だけど、たぬきさんには今ひとつだったんだっけ。
たぬき:そうだね。わたしが見たのはKERA演出版だけだけど、戯曲として評価できないのは、商業演劇ということで分かりやすさを重視したせいか、プロットが相当通俗に堕していたのと、群像劇としてメインキャスト全員にストーリーを持たせようとしたせいか、あちこちに無理が出たということの2点だね。
ぽわん:分かりやすさ自体は、別に我々が日ごろ否定するものではないと思うんだけど、今回に関して否定せざるを得ないのはなぜ?
たぬき:筋立ては、端的に言って「三人姉妹」と「カラマーゾフの兄弟」と「オイディプス王」が、アルトマン的な階級闘争風味で綯い交ぜにされているんだけど、どれもほんとにただの借り物なんだよね。チェーホフの寂寞感もドストエフスキーの業の深さもなければ、ギリシャ悲劇の言葉の強さもない。膨らむ一方のストーリーラインを回収するので精一杯で、むろん原作に対する批評性とか現代性なんかは全然感じなかった。
ぽわん:でも、だからって作品の価値がないとは言い切れないよね。そのプロットに、もっと根本的な問題があったと言いたいのかな?
たぬき:うん。KERAって元々、引くだけ引いた伏線にうっちゃりをかけるのが上手だけど、それが不条理に傾き過ぎるのは商業演劇では許されないのか、今回はラストに向けて、見せ場とか死に場所を、小さい役から順番に配分していくだけで、要するにクライマックスらしい盛り上がりが全くなかった。今回の舞台作りは、映画で言うところのカットバック手法に近い訳だけど、映画だと、異なる場所で起きていることをカットつなぎで一瞬に接合することができるのに対し、芝居だとセットを回したり人間をはけさせたりする手間がかかるから、どうしてもテンポがノロくなっちゃう。セットを抽象でやれば少しは捗るだろうけど、KERAのこの手の芝居はいつも具象だね。やっぱり具象のリアルな手触りが欲しいのかな。
ぽわん:KERA演出版は、演劇としてはすごくスピーディーな展開だったと思うけど、もっと根本的な意味で、生身の演劇でやる時点で映像と比べてテンポがノロい、と言いたいんだね?
たぬき:そうそう。これは演劇に持ち込まれる「映画的手法」の限界。音楽ほかでその辺は糊塗してたつもりかもしれないけど、少なくともわたしことたぬきには、かったるかった。
ぽわん:けど、ちょっと待って。第一に、不条理なかたちでこの芝居が終わるのは、KERAの意図に基づくものだと思う。第二に、これを演劇における映画的手法の限界として片付けるのは早計かもしれないよ。だってそれなら、細かい伏線をすべて拾えばよかったとも言えるわけでしょ? まあ人数が多いから無理でしょってことになるんだろうけど。第一の話をするなら、KERAはこの作品では、伏線を回収しきるのではなく、細かく展開させておきながら、最後は人間にはどうしようもない大きな力(それこそギリシャ悲劇にも通じるような)によってすべての展開が無に帰す、みたいなのをやりたかったんだよ。
たぬき:でも、たとえば生瀬勝久がやってたドン・ガラスの最後は、いかにも類型的な零落って感じで、ギリシャ悲劇的な運命の力みたいなのは全然感じなかったよ。で、不条理の話に戻ると、伏線は昔よりずーっと律儀に拾ってるわけで、その分不条理さは薄味になってる。そのことが芝居を逆につまらなくしているし、その律儀さが裏目というかプロット上の無理につながってるのね。具体的にはメインキャストとアンサンブルの間ぐらいの役、エレミヤ(KERA版だと峯村リエ)とペラーヨ(同じく池田成志)。どちらも人間関係の継ぎ目として都合良く使われ過ぎてて、ストーリーラインへの登場の仕方、登場してからのアクションの方向性、プロット上で役割を果たした後での消え方、どれもミエミエなんだよね。池田はまだマシな消し方をしてもらえてたけど、峯村にはそれほどの見せ場もなかったね。
ぽわん:確かにあの奥様は唐突に消えちゃったと思う。つまり今回は、KERA戯曲としては不条理よりも丁寧な群像劇的要素が増えているにも関わらず、不条理的な大きな力で解決しようとしたところに、問題があるということかな?
たぬき:群像劇の複数プロットを一気に回収する不条理系の大技と言えば、それこそアルトマンの映画『ショート・カッツ』の地震とか、それを引き継いだ『マグノリア』のカエルみたいな例があるけど、ああいうのは演劇には応用できないんだよね。ドラマにはアクションの収斂点が要るんだけど、ああした地震とかカエルとかはカットバックが可能だから効く訳で、芝居でアクションの収斂点を作るためには、どうしても一箇所に大勢の人間を集める必要がある。登場人物がめいめい勝手なこと言ってるだけだと思われがちなチェーホフだって、劇中で一度はメインキャスト全員が揃う場面を作るよ。
ぽわん:ただ、チェーホフはこの『祈りと怪物』ほど大きな役の数が多くないよ。それにしてももうちょっと多くの人が一同に会するほうがよかった、という感じかな?
たぬき:そうだね。いくつかあるグループごとの場面が順繰りに流れていくだけで、見る側の気分としてはひたすら単調なんだよ。その代わりではないにせよ、コロスが大勢出てくる場面はあったけど、あれは目先が変わるというより、リアリズムだったら一工夫が要るけどああやったら簡単に解決できる、ただの便利な状況説明にすぎないから。ギリシャ悲劇ということでは、オイディプスもどきなネタが出てくる、ラスト1つ前の場面だけど、そもそも丸山智己の役ってあからさまに“置きに”行かされていて、あの場面以外でほとんどアクションに絡まないあの役が、ドラマツルギーの収斂点になれるはずがない。
ぽわん:確かに、あのオイディプスモチーフの使い方には、ギリシャ劇がもとだよ!というちょっとした目配せ以上の効果を感じなかったねえ。
たぬき:KERAの劇作術って、もともと本格喜劇というよりファルスに近い。「直線的に行動するけど追い込まれて逆上する役」とか「ストーリーを混乱させてアヤを作るためだけに居る役」とか「捌き役」とか、キャラクターの類型ごとに担う役目が最初から決まってることが多いし、今回で言えば被差別民とか疫病の流行とかの外的シチュエーションも、キャラクターとは無関係かあるいは皮相な次元で設定されがち。かつて井上ひさしがKERAの岸田戯曲賞受賞に反対したのも、 http://www.hakusuisha.co.jp/kishida/review43.php 要するにその辺が理由だと思う。手練れの井上には、KERAの手の内が透けて見えすぎたんだろうよ。
ぽわん:その井上ひさしだって、キャラクターは類型的だけどねえ?
たぬき:えーとね、井上の場合は、シチュエーションに応じてキャラクターが変化していくんだよ。往々にして戦後民主主義礼賛と反天皇制一辺倒とは言え。そこが相互作用していくのが喜劇ってやつなんだけど、この芝居では演劇的な変化や成長がないんだよね。
ぽわん:役を駒にして芝居を進めていくのが劇作家なんだろうけど、それが透けて見え過ぎた感じは確かにあったね。


演出対決という企画の成果は

ぽわん:今回の『祈りと怪物』の話題は、KERA書き下ろしの戯曲を、12月にKERA演出、翌年1月に蜷川演出と、2ヶ月連続で違う演出で見ることができるところにあったわけだけど、たぬきさんは後半は見なかったんだよね。
たぬき:うん。ぽわんさんは両方見たんだよね。演出はどうだった?
ぽわん:そうだねえ。KERA演出版は、自分が書いたからよくわかっていて、テンポよく進んでいたと思う。出演者の魅力も引き出していたし。ただ、戯曲への違和感とか疑問とかがない分、戯曲への批評精神といったら大げさだけど、引っ掛かりなくただ楽しませることに徹した演出になっていた気がする。まあ、こちらも先に見たのがKERA版だから、ストーリーを追っていて演出にそんなにじっくり着目できなかった可能性は否定できないけど。これに対して蜷川版の時には演出としてる余裕があったからねえ。・・・と、その前に、KERA演出版のみ見たたぬきさんはどう思った?
たぬき:大道具・小道具の過不足ない活用法は、さすがにご当人ならではという感じだった。あと、元から上手い人はしっかりノセて、ヘタな人もそれなりにちゃんとしてるように見せる、いつもながらのKERAの丁寧な手つきが見えたね。
ぽわん:そうだね。一方、蜷川のは演出家の自己主張といったらあれだけど、KERA戯曲と向き合い、演出家としてどう腕を振るうかということを忘れない舞台だったなあ。文明開化の時代を思わせる和洋折衷の衣裳に三味線でババンと始まった時には、心躍ったよ。ああいう意表をつくスタートはやっぱりうまい。視覚的なツカミや賑やかしに演出家生命を賭けてきただけのことはあるね。コロスをラップ調にするのはアイデアとしては悪くないけど、若者文化を新しがるおじいちゃんっぽいとも感じたけれど、まあ実際そうなんだからしかたないのかな・・・? 人物の配置や美術もKERA版とは正反対に近いくらい違っていて、比較されることをわかった上で、常道的なやり方、ステレオタイプな見せ方はかなり意識して排したんだろうなあと思ったよ。まあ意識的でないステレオタイプな演出なんて、どんな作品でも見たくないに決まってるけど(笑)。
たぬき:しかし、蜷川のライヴァル設定癖ってほとんど病理的だねえ。本来勝ち負けのない藝術の世界で、無理やり勝者になりたがってるというか。
ぽわん:まあそれくらいの気概をもって臨むこと自体はいいんだけどね(笑)。ただ、そういう、演出家として勝負する、みたいな姿勢ばかりで、肝心の演出としての効果、つまり作品に隠されたものを取り出し、照射し、意味を与えるということができていたかというと・・・うーん、遠慮がちに言っても、いいとこあり、だめなとこあり、だなあ。
たぬき:具体的には?
ぽわん:あちこち、(KERA演出版がただ軽快に通り過ぎていったところに)山場を作ってはいたけれど、それによって新たなものが見えるといった効果より、変に湿った芝居になったり流れが滞ったりするといった弊害が目立ちがちだった。それは、KERA戯曲との相性の問題でもあるのかもしれないなあ。蜷川は、井上ひさしでもそうだったけど、喜劇のテンポを作るのが苦手みたいだから。
たぬき:本人は強がってるけど、蜷川はやっぱり軽快な喜劇に適性ないよねえ。いつも肩に力が入ってて、「軽さ」みたいなのが出せないから。
ぽわん:蜷川はどちらかというとコマ割りよりも一枚絵の人だしね。ちなみにさっき、KERAの芝居は喜劇ではなくファルスっていうたぬきさんの意見があったけど、蜷川に喜劇が苦手で、だけどファルスができるとしたら、それはKERAみたいなスピーディーなものではなく、醜悪で大仰な類のものだと思う。あ、この定義自体には優劣はつけてないよ、もちろん。単に違うものだと言いたいだけ。あと、さっき言った、劇にフォーカスを当てることとつながるのかもしれないけど、役者の演技が感情過多になって、台詞回しがたどたどしくなったりもしていたなあ。もともと舞台向きじゃない映像系の人は置いておくとしても、中嶋朋子みたいないい女優もそんな感じになってた。あと、たとえば、字幕を設置してト書きを表示した辺りは、「俺はこんなに細かい戯曲の指定にちゃんと真っ向から答えたんだぞ」っていうアピールかもしれないけど、正直、「だから?」って感じ。そんなアピールしなくても、ちゃんとした舞台が目の前に展開されていれば十分なはずだから。
たぬき:蜷川は死ぬまで説明的な演出に固執するだろうけど、やっぱりそれは彼の自己顕示欲と無関係ではないのかねえ。で、ぽわんさんは実際どっちに軍配を上げるの?
ぽわん:うーむ。違和感なく面白く見られたのはKERA演出だけど、作者でもあるわけだからねえ。なんだかんだ言っても、解釈を施そうとした蜷川の姿勢そのものは買いたいねえ。まあ、最後の最後にフォローするわけでもないんだけど、これだけの企画で脚本が書けるKERAは貴重な人材だし、演出対決に闘志を燃やす蜷川も立派だとは思ってるの。ベストな公演だったとは言わないけど、けちをつける楽しみすら提供してくれないしょうもない公演もある中、楽しませてもらったよ! 今回、岸田國士戯曲賞を穫った人々もこういう企画が実現できるようになるかな?
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2013年01月01日

十八代目中村勘三郎がやったこと、できなかったこと

ぽわん:昨年の演劇界のニュースといえば、十八代目中村勘三郎の訃報だねえ。
たぬき:歌舞伎界の希望の星だったからねえ。我々ぽわん&たぬきも落涙したものだ。
ぽわん:演劇には冷たいマスコミだけど、さすがに今回ばかりは連日、大々的に取り上げていたね。でも、勘三郎の良いところばかり扱われているから、ひねくれ者の我々は敢えてその「功罪」の「罪」の部分も考えるとしようかねえ。
たぬき:世を去った人が理想化されるのはお定まりとは言え、我々ぐらいは、ねえ。実際、彼の演劇活動すべてが絶賛に値するものでなかったのは事実。十八代目中村勘三郎なる人物を過度に美化するのは間違ってると思うんだ。


歌舞伎のメインストリームではなかった!?

ぽわん:勘三郎は歌舞伎で、立役と女方と両方やったけど、マルチプレーヤーというわけではなかったね。時代物の重い役はニンじゃなかったし、色悪とかつっころばしとかも違ったし。
たぬき:向き不向きははっきりあったと思う。彼のガラに似合う役柄は案外限定されていた。『忠臣蔵』ならまず勘平。これは間違いなく日本一、つまり世界一!
ぽわん:立役では判官がギリギリかな? 由良之助はいつか観てみたかったけどねえ。女方ではお石と戸無瀬をやったけれど。
たぬき:襲名興行での『一條大蔵譚』は、「オマエ、作り阿呆ライフを楽しみすぎだろ!」みたいな感じだった。『盛綱陣屋』の盛綱に至っては、はっきり良くなかった。少なくともあの時は、彼の限界を見たと感じたよ。
ぽわん:再び演じて、その印象を覆してくれたらよかったんだけど、その機会はなかったね。同じ「うまい歌舞伎俳優」ながら、ニンにない役でも知的に構築して自分のものにする仁左衛門とは違って、勘三郎の上手さは、魅力を見せることにある。その魅力とは何より、彼そのものの魅力だから、その魅力とそぐわないものがあったのはしかたのないことかもしれないね。
たぬき:うん。役に自分を適合させて作り込むのが上手い仁左衛門とは違ったね。かといって、ひたすら我流に持ち込んで「俺ワールド」を作る海老蔵とも違ったけど。勘三郎が仁左衛門や玉三郎と仲が良かったのは、芝居が大好きという共通点は持ちつつ、お互いのニンの違いがはっきりしてて、出来る事出来ない事がはっきりしてたからかもね。玉三郎とやった『籠釣瓶』は、まったく相容れない次郎左衛門と八ツ橋が、うっかり知り合ったばっかりに生まれた悲劇という感じで面白かった(笑)。
ぽわん:語弊があるかもしれないけど、この人達は皆、人気歌舞伎俳優だけど、厳密に言うと皆どこか、歌舞伎のメインストリームから外れていたのかもしれないね。
たぬき:そうだね。 歌舞伎には大きく分けて吉右衛門劇団系と菊五郎劇団系があるわけだけど、中村屋は吉右衛門系から逸脱して独自の道を探っていった。好きでやっていたことだとは思うけど、結果として、中村屋は自分たちだけで客を呼ばなければなかったということはあると思う。
ぽわん:それが発展して結実したのが、コクーン歌舞伎や平成中村座での活動ということになるのかな。メインストリームでなかったが故に自分でメインストリームを切り拓いていこうとしたのかもね。


観客を愛し愛されるあまり・・・

たぬき:客席に媚びるクセがあったのも、勘三郎の特徴だね。正直「そういう媚び方はしてほしくない」という瞬間はいくつもあった。
ぽわん:お約束〜なおふざけとか、予定調和的だったり、あるいは劇全体のバランスを崩していたりしたよね。そこもファンには愛されたんだけどね。
たぬき:主役を食ってしまっていたりとかね。10年前の「源氏店」の蝙蝠安なんて、仁左衛門の与三郎に玉三郎のお富という鉄壁コンビなのに、蝙蝠安の勘三郎の一挙手一投足に目が行っちゃうんだからね。あれはやっちゃいけないよ(笑)。
ぽわん:良くも悪くも、引き立て役として縁の下に回るということができなかったね。何を演じていても観客は常に彼を観てしまうし、本人も観られる自分を痛烈に意識して演じていた。
たぬき:それで思い出したけど、踊りの出端で、客席をねめ回すのは、ひどく嫌な感じがすることもあった。それは、岳父芝翫とは似ているようでまったく別のものだったよ。芝翫のねめ回しは「いいですか六代目直伝の私の踊りを皆さんよく観ておかないと損ですよ」なのに対して「僕勘三郎! みんなに会えて嬉しいよ! 今日は僕の踊りを楽しんでね!」という感じ。「いやそれって舞踊にはいらない愛嬌だよ…」と思ったものだ。
ぽわん:(苦笑)でも、そんなドヤ顔がまた可愛かったんだけどね・・・!
たぬき:踊りで言うなら、坂東三津五郎と組んだときの名コンビぶりは言うまでもないけれど、そこでも二人の違いは際立っていたね。坂東流の家元である三津五郎が楷書の踊りなのに対して、勘三郎は草書。彼の個性が何より味わいになっていた。二人が名コンビになっていたのは、有り体に言って、二人ともに身長の低さと引き換えに手に入れたキレの良さがあったということだよね。
たぬき:芝居での三津五郎の口跡がいつも明晰なのに対し、勘三郎はたまにモシャモシャした言い回しになっていたのも対照的。ヒとシが逆になる江戸言葉の使いこなしは見事だったけど。
ぽわん:江戸言葉は意識して使うようにしてたんだよね。だから、言葉に対する意識は高かったとも言える一方で、芝居によっては、微妙なニュアンスよりも、役者・勘三郎としてのセルフイメージのほうが勝ることもあったね。本人にはそのつもりはなかったかもしれないけど。
たぬき:愛されるというのは怖いことで、その人気が彼を支えたのは間違いないけど、もしかしたら、演技を高める上での障壁にもなっていた可能性はあるね。確かに、世話物ではともするとブチこわしになりかねない逸脱の危険を孕んでいた。『身替座禅』とか『棒しばり』とかの松羽目物でも、やり過ぎだと思うときは多々あったね。


新作出演&プロデュース

たぬき:勘三郎は『浅草パラダイス』シリーズとかの現代劇もやったね。面白くなかったとは言わないけど、『浅草パラダイス』は、歌舞伎の世話物では逸脱を好き放題楽しんでいた勘三郎が、まったく別種の天才・藤山直美の天衣無縫のアドリブに、なす術も無く振り回され敗れ去る姿がいちばんの見ものだった。
ぽわん:敗れ去っていたのか〜(笑)。
たぬき:ごめんなさい勘弁してください〜みたいになる感じが面白かったよ(笑)。『浅草パラダイス』の面白さって、藤山直美が勘三郎なり柄本明なりの役者をどれだけ本気で振り回すかにかかってたところがあったから。
ぽわん:『桜姫』の現代版では、ごろつきの役だったけど、似合っていないところをがんばっていたという感じかな。まあ普段はやらないような役どころをがんばる勘三郎を観るのも楽しくはあったけどね。そもそも、あの企画自体、勘三郎なしでは実現しなかっただろうし。
たぬき:そうだね。多くの場合は出演もしつつ、そういうプロデューサー的な役割を果たしたからね。彼が歌舞伎の枠をはみ出た活動をして、本業たる歌舞伎に、観客とクリエイターを連れて来たことは間違いない。
ぽわん:野田秀樹、串田和美、渡辺えり、宮藤官九郎といった作家の新作を上演したのは大きかったね。すべてが成功したわけではないけど。というより、新作では『野田版 研辰の討たれ』以外はいまひとつだったけど。
たぬき:『野田版 研辰の討たれ』ですら、再演時での色褪せ加減といったらなかった。
ぽわん:えー、わたしは再演でも楽しかったけどなあ。
たぬき:傑作って何度見ても発見のあるものだけど、あの再演では既視感こそあれ新しい発見なんて何も無かったからね。
ぽわん:まあ一度観て十分に伝わったせいもあってか、新たなものは確かにそんなになかったかもしれない。それだけわかりやすいというのも、いいことだと思うけどね。それより『野田版 鼠小僧』や『野田版 愛陀姫』の、期待はずれだったこと!
たぬき:箸にも棒にもかからない駄作だったね。まあ、古典が確立してる世界で、新作というのは失敗覚悟でやるものだから、やる価値はあったと思うけどね。
ぽわん:それより、わたしは勘三郎が、新作にすぐ洋楽を入れたがったりミュージカル風のものを入れたりしたところに、西洋コンプレックスにも近い価値観を感じていたかな。あと、彼にとっての海外というのは欧米だったし、それでいて、海外公演の観客の多くは現地の日本人とかわざわざ日本から出向いたお客さんが多かったというし、そういう意味でもちょっと「お山の大将」だったねえ。
たぬき:それはしょうがないよ。応援したい日本人もいっぱいいただろうし、オペラとは違って、演目も人材もユニヴァーサルじゃないんだから、要するに他国の人間にとっては民俗芸能でしかないわけだし。勘三郎自身はイスラム圏とかでもやりたかったらしいけど(これは唐十郎の影響かな)、赤字前提でノーギャラに近い公演を打つことはマネージメント側が許さない。だから、ペイするためには、スポンサーがついたり高いチケット代でも公演が打てる国に行くしか無いんだよね。こと新作に関しては、彼に批評的な意味でのクレヴァーさが欠けてたのは事実で、じゃないと串田和美とあれほどつるんだりはしないと思う。周囲はイエスマンばっかりだったんだろうけど、批評的な視点と役者的な資質を兼ね備えた人なんてそうはいないからね。
ぽわん:勘三郎がやったことの意義は大きいし、あんな人物はもう現れないような存在であることは間違いない。その一方で、ある種世代的な限界もあったとも思う。もし次の世代に彼の志を受け継ぐ人がいるならば、また違うグローバルな視点でやってほしいとも思うね。
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2012年07月08日

大阪市長・橋下徹の文楽批判は文化の否定そのもの

大阪が文楽に補助金を出すのは無駄遣い?!

ぽわん:このところ(2012年7月8日現在)、文楽に対する大阪からの補助金の話題が沸騰しているねえ。おおまかな流れは、犬丸治の「橋下徹と大阪「文楽」問題を憂う」 http://homepage3.nifty.com/inumaru/newpage2012.06.26.html が詳しいので参照してほしいんだけど。
たぬき:景気が悪くなると真っ先に削られるのが文化予算だよね。こういうことに抵抗して井上ひさしも平田オリザも「演劇は生活のインフラ」みたいなことを一生懸命言ってたけど、橋下徹的なルサンチマンに同調する人間には、文化人が弄するレトリックの詐欺にしか思えないんだろう。
ぽわん:橋下的ルサンチマンって?
たぬき:自分が了解不能な存在に対する、度を超した憎悪の念とでも言えばいいのかな?
ぽわん:橋下改革って、文化予算に限らずとにかく競争原理の導入一本槍だよね。協会がどうの集客がどうのと言いつつ、そこが改善するか否かよりも、文楽と小劇場と同じスタートラインで、自分の主導下で競争させようとしているような感じもあるね。でも、小劇場と文楽のどっちが良いとか決めるのは土台無理な話。そもそも芸術って、たとえ同一ジャンルにせよ比較できるもんじゃないよ。そういうのが明快なスポーツでさえ、例えば陸上競技で短距離走者と長距離走者とどっちが速いかなんて、決められる?
たぬき:質と量の問題って、科学公式みたいに変換できないからね。橋下が引き合いに出す落語はほぼ身一つでできる点が文楽と違うよね。量と言えば、「そもそも経済的に自立できないようでは文化の名に値しない、その証拠に浮世絵もアニメも世界で人気」みたいなことを言う人もいるけれど、浮世絵もアニメもランゲージ・バリアーを突破しやすかったのと同時に(アニメは吹き替えによるオリジナリティ損失率が実写に比べて格段に低いから)、複製による大量流通が可能だから出来たことなんだよね。
ぽわん:その代わり、舞台芸術には複製芸術には逆立ちしても不可能な何かがあって、文楽には長い時をかけて練り上げられた、一度絶えたら二度と戻らない伝統の力としか言いようの無いものがある。我々はそれを、個々人の修練によって目の前で更新されていく瞬間に立ち会うことができるんだよね。つまり、伝統芸能には、二重の意味で複製不可能性があると言える。一つには、その場にしか現前化しない生の芸術であること。もう一つには、それでいて時間の蓄積の結果であるということ。一つ目には小劇場の演劇も当てはまるけど、二つ目の理由で、伝統芸能が助成の上で尊重されるのは自然な流れ。京劇なんて文化大革命で死に絶えちゃったよね・・・
たぬき:本来文化予算の交渉って「そちらも大変だと思うんですがこちらの財政も厳しいので」みたいに丸腰が似合うジャンルなのに、とにかく相手イコール敵としか見なせない弁護士根性からか、文楽自体を徹底的に誹謗することで、「減額=改革=良い事」みたいなイメージを、文楽の魅力を知らない人々に植え付けちゃったんだよね。
ぽわん:植え付けの効果は絶大だよね。文楽協会はまったく反論しないし。要するに橋下は、協会を批判しつつ、その協会のダメさを利用して自分の意見を広めている。即座にきちんと反論するような集団だったら、ここまで言いたい放題できなかったからね。
たぬき:橋下は文楽批判の放言を繰り返すことで、文楽を改革アピールのスケープゴートにしたいだけ。私たぬきが文楽の関係者なら、自分たちが誇りを持って取り組んでいるものを、政争の具として誹謗されたり命令されたりするのには耐えられないよ。
ぽわん:橋下が批判する公益財団法人文楽協会がなぜこんなにダメダメかというと、確かに彼が言う通り、大阪市とかからの天下りが多くて、文楽についての知識や能力がある人達の組織じゃないから。そもそも国・府・市・NHKが補助金を出し合って作られて、そのときから天下りがいたのかな? で、国立劇場ができたタイミングでなくなるはずが、なぜか実権が弱まったかたちで残っちゃったんだってね。だから文楽協会が改革されるべきだというのは当事者含めてみんな思っているんじゃないかという気がするけど、それが文楽そのものの否定と結びつけて論じられているところがね・・・。けど文楽協会は大阪市の外郭団体でも何でもなくて、主務官庁は文部科学省。なのに、まるで市のものみたいにえばって改革迫って、いくらなんでも度が過ぎているよねえ。
たぬき:まったくだよ。腹に据えかねるとはまさにこのこと。とは言え、一応フェアに、相手の公式文書を読んでみようと、その徹底した頭の悪さに何度も辟易しながらも、 http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html を読んでみたよ。
ぽわん:どういう頭の悪さが感じられた?
たぬき:第一に、文楽協会内部の単なる人事問題と、芸能としての文楽が思いっきり混同されてること。天下りOBの問題とか、送ってた側が勝手に引き上げればいいだけの話。文楽を実際にやっている人達=技芸員だって、興行の素人を送り込まれて困ってたと思うよ。
 第二に、橋下が「人間国宝だからと言っても税で、その人の収入を維持するのはおかしいというのが僕の感覚です。 人間国宝であろうとなんであろうと、鑑賞料で賄えない文化であれば、それは保存の意味。」(ここで切れてるのは原文ママ。「意味がない」と言いたかったのかな?)「芸事は、芸で鑑賞料を賄えるかどうかが全て」と書き、参与の民俗学者・橋本裕之も「国税・地方税を投入する根拠はあくまでも文化財。文化振興に国税・地方税を投入する根拠は薄弱。そもそも文楽は興行である。これは伝統芸能全般にあてはまる」 (ワークグループ文書「伝統芸能のグレートリセット―制度設計に向けて―」 http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/cmsfiles/contents/0000174/174249/tenpu1.pdf ) とか書いてるけど、文楽は興行であると同時に国の重要無形文化財であって、ここに、彼の言葉をそのまま使えば「国税・地方税を投入する根拠」が発生する。要するに二人とも、「政府及び地方公共団体は、文化財がわが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり、且つ、将来の文化の向上発展の基礎をなすものであることを認識し、その保存が適切に行われるように、周到の注意をもつてこの法律の趣旨の徹底に努めなければならない」という、文化財保護法第一章第三条「政府及び地方公共団体の任務」に真っ向から反対する、異端の説を述べてることになる。
ぽわん:わ、長い説明だったね(笑)。つまり、興行価値を文化財保護の観点より優先してしまうと「適切な保存」が難しくなるってことかな? 美術館が、たとえ集客を犠牲にしても、損傷しやすい国宝や重文の展示に極めてデリケートなのと同じだよね?
たぬき:そうそう。橋下と橋本裕之の主張が正統となるためには、まず文部科学大臣に掛け合って、文楽を重要無形文化財の指定から解除してもらうところから始めないといけないんだよ。えーと、さっき一部引用した、橋本裕之による「伝統芸能のグレートリセット―制度設計に向けて―」には、かなりの問題点があるので、もうしばらく付き合ってね。


「文化財保護だけは、国が主で自治体は従」の怪

たぬき:えーと、「文楽協会に対する国の補助金は、文楽がどうにもならない状況にあったさい、国が重要無形文化財である文楽を保存するため、緊急措置として設けたものである。(参考資料:「重要無形文化財伝承事業費国庫補助 要項」)以降、半世紀以上にわたって再検討されないまま自明視されてきたが、そもそもきわめて不自然かつ不均衡な措置である。大阪府市の補助金もその内容に準じる」とあるんだけど、これはいろいろと間違い。
ぽわん:たとえば?
たぬき:そもそも、今から半世紀前に文楽協会は存在していない(設立は1963年)ので、まず「半世紀以上」か「文楽協会」のどちらかかは絶対に嘘なんだけど、とりあえず国・府・市からの補助金は半世紀以上前から出てるのは事実なので、二つの仮定で考えてみるよ。
 【その一】後者の「文楽協会」が「文楽」の書き間違いであるとする。その場合、文楽協会設立前の1953年度から始まった助成金の交付は、彼が言うように「文楽がどうにもならない状況にあった」からじゃなくて、単に戦後の文化政策の転換によるもの。重要無形文化財の指定と助成金交付に先立つ、豊竹古靱太夫の文楽界初の芸術院会員(1946年)ならびに掾号受領と天覧(1947年)に象徴されてるように、敗戦後、それまで大阪の一郷土芸能であった文楽は、一躍国民的文化財として認められた訳。つまり、分裂(1948-63年)はすれど敗戦後の文楽は基本的にリスペクトされてたというか、言い方を変えれば2団体に分かれてもなんとかなってた訳で、「どうにもならない状況」という表現は的外れ。そもそも文楽って、戦前からずーっと苦労しっぱなしだったんだから。
 【その二】後者の「文楽協会」のほうが合ってるけど、前者の「半世紀以上」が「半世紀弱」の間違い、つまり、"松竹が"「どうにもならない状況にあった」ために成立した、文楽協会以後の補助金の話だと仮定してみよう。残念ながら、そうだとしても補助金が"緊急措置"というのは完全に間違い。松竹が手放してからの文楽は、手間のかかる割にお客さんの入りが悪い通し上演とか、学究的な資料集の発行とか、補助金なしには絶対にできないことばかりやってきた。こうした努力は、文楽が「わが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり、且つ、将来の文化の向上発展の基礎をなすものであることを認識し、その保存が適切に行われるように、周到の注意をもつてこの法律の趣旨の徹底に努めなければならない」という文化財保護法の精神に基づくことは言うまでもない。
ぽわん:つまり、ざっくりまとめると、文楽は、興行であると同時に文化財であるのだから、国も地方自治体も一体になって大事にしなければいけないってことかな? 確かに、皆が古い美術品や資料を鑑賞して楽しむわけじゃないのに、そこに大きな税金を投入することに、人々から文句が出たりはしないねえ。ただ、今回問題なのは、国からの補助はともかく、地方自治体に過ぎない大阪からの補助金の話だと思うんだけど。
たぬき:さっきも引用したとおり、本来文化財保護の任務を帯びるのは「政府及び地方公共団体」。あたかも国が主で自治体が従みたいに思われていて、現に池末浩規参与は「大阪市としては「文化財保護」に与する必要はなく」と勝手に言い切り、橋下は更に独断を進めて「文楽を守る役割は結局国にある」「自治体の役割は振興」とか言い出してる。そんな役割分担、勝手に決められる訳ないじゃない。
ぽわん:国が主で自治体が従というのは、他ならぬ橋下市長にとって心外のはずじゃないのかしらねえ!


文楽は無形文化財の動態保護の進化形

たぬき:今回の騒動で市長やその周辺の人達が分かってないのは、無形文化財においては「現状維持」自体がものすごく大変だということ。今でさえレパートリーのマンネリ化とか芸の正統な継承とかが危惧されているのに、これ以上の退化を招いてどうするんだよ。
ぽわん:文楽は興行という形態でやっているから、客の入りが悪いだの何だのと数字で言われちゃうけど、美術館や博物館に眠る(中には展示すら滅多にされないものもある)品々に比べたら、稼いでいるかもしれないよねえ。
たぬき:そうそう。さっきちょっと言ったけど、文化財を保護する最上の手段は、絵画なんかだと金輪際展示なんかせずに、温度・湿度を厳重に管理した真っ暗な部屋にしまっとくこと。展示すること自体が最大の劣化原因だからね。それとは対照的に、人間の手になる無形文化財は常に上演されてないと死んでしまう。それも形骸化と俗化という二つの罠から逃れながらね。散文的に言い換えるなら、決して原点を忘れることなく、かといって時流から取り残されるでもなく無論おもねるでもなく、みたいな健全な新陳代謝かな。育成が正常に機能していれば、良い意味での現在性は保たれるはずだけど。
ぽわん:最近では文化財的な建物なども「動態保存」するよね。文楽はあれの先駆的な意味合いとも考えられるわけだよね。
たぬき:前述の大阪市のHPにもある通り、橋下は三谷幸喜が作る文楽を、見もしないうちからえらく持ち上げてるけど、古典芸能にとっての新作とは、新しい観客を呼ぶための機会であると同時に、芸が形骸化しないための活性剤であって、どちらにしても古典へのフィードバックありきのもの。だから我々は、橋下一派が考える"稼げる文楽"が、文楽の形骸化・俗化を招かないよう、それこそ「保存が適切に行われるように、周到の注意をもつて」見守らなければならない。歌舞伎を例に挙げると、最初は新作の楽しさとか世話物の分かりやすさから入るかもしれないけど、結局は時代物こそその神髄だと気づく訳じゃない?そういうのって、たぶん橋下には理解できないんだろうけど。
ぽわん:7/8のツイッターでは、杉本文楽のドキュメンタリーも楽しんだと書いているね。だけど、あれはお金かかり過ぎて黒字にはなってない、つまり稼げてないはず。それに、彼が少なくとも口では大事だと言っている「庶民」には楽しめないチケット代だったよね。会場もセレブであふれていて。
たぬき:何らかのかたちで工夫して、鑑賞の機会を増やすことは大切だけど、それは基本的に営業サイドが知恵を絞ることで、芸そのものが安易な受けに堕すことだけは絶対にやっちゃいけない。例えば、イヤホンガイドを英語だけじゃなくて韓国語・中国語にまで増やすことで、文楽のバックグラウンドである儒教道徳(とそれとの相克)を共有している、東アジア文化圏の団体客へのアピールを強めるとか、そういう工夫はアリかもね。
ぽわん:こういうご時世なので、興行としてどう成立させていくかも考えないといけないものね。ただし、興行だ!と言い切って文化財保護をやめるのは間違っている。となると“二元の道”を模索するのがいいのかなあ。
たぬき:顧客獲得という点からすると、7/8の橋下のツイート「古典文楽も、文楽の技術を継承するためには必要なのであろう。しかしエンターテイメントである以上、新規のファンも増やさなければならない。二本立てでいいじゃないか。」は一見正しそうだけど、「文楽がエンターテイメントになっていない。高尚な芸術として保護の対象になってしまっていることが問題の本質だ」というのは間違い。少なくともいま劇場に熱心に通っている人間は存在しているのだから。
ぽわん:いっぱい批判を受けて「古典も」って書くようになったみたいだけど、興味ない感じが伝わるよ。わかりやすいひとだね(笑)。それはともかく、大阪の文楽劇場の入場率が5割とはいっても、それは劇場が大きいからであって、大阪だけで年間で9万人以上動員してるんだよね。もちろんもっと増えたほうがいいけど、新規のファンにおもねる余り、この9万人を失うことになったら本末転倒だよ。
たぬき:まったくだ。既存のファンの中には、文楽がもはや古典としての品格を失ってしまう危険を憂いている人はいても(ちょうど世代交代の時期だからね)、これ以上の娯楽性を望んでいる人はあまりいないと思うんだよ。現在でさえ動員力優先の演目や配役に不満が出てるというのに、これ以上新規開拓ばかりだったらコアファンを失いかねない、というかそれ以前に無形文化財としての意義すら疑われてしまう。
ぽわん:同じ7/8のツイートに、「文楽はエンターテイメントに戻るべきだ。技芸員の技術は世界に誇れる。文楽に今必要なのは、演出・プロデュースだ」「歌舞伎のように現代に合わせた演出のものもやれば、古典もやるように二本立てにするべきだ」ともあるね。
たぬき:けど、新作とか新演出って時間もお金も手間もすごくかかるもんだからそれこそ財源が要るし、従来のファンと新規のファン、両方を楽しませるとなると相当ハードルは高い。古典の良さが理解できない反動で、彼は新作とか新演出に対して楽観の度が過ぎると思うよ。要するに、いろいろと見る目がないってことだ。
ぽわん:とどのつまり、文楽の問題というのは、時間、技芸、作品などケースバイケースで、細やかに忍耐強く考えていかなければならないことなんだよね。それを橋下みたいに現場への理解もなく礼儀も敬意もないまま、YESかNOかの二者択一で判断しようとするのが、どだい無理な話。でも考えてみれば、ホントはこれって他の事柄を含む、政治全体に言えることだよね? というわけで、文楽の問題から見えてきたのは、橋下の政治家としての限界でもあるのでした!
posted by powantanuki at 22:34 | TrackBack(0) | 演劇論ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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