2013年05月17日

続・小谷野敦『猿之助三代』のびっくりな内容

ぽわん:たぬきさん渾身の、2013年5月14日付けの拙ブログ記事
小谷野敦『猿之助三代』のびっくりな内容その1
小谷野敦『猿之助三代』のびっくりな内容その2」を受けて、
小谷野敦氏のウェブサイト上に、いくつかの訂正ならびに反論が掲載されたね。
たぬき:うん。
 でね、もちろん彼の迅速な対応には敬意を表するんだけど、同時に疑問も生まれたんだよね。訂正は一部にとどまっているんだけど、だったら以下に要約した箇所は訂正に値しないと彼が考えた理由は何なんだろう?ってね。
ぽわん:ほほう。たぬきさんもしつこいね。
たぬき:しつこいって言うか、そのhttp://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20130515に載った反論がなかなか面白くて、再反論したくなったというのがきっかけ。で、要約はそのついでに作ってみたんだ。ほら、小谷野氏って他人の著作の間違い指摘に血道を上げるみたいなとこがあるじゃない?
ぽわん:そうなの? 例えば?
たぬき:ほら、我々の記事をきっかけに思い出したらしい、橋本治『浄瑠璃を読もう』の間違いの指摘とか。
 だからね、たまには逆に、他人が小谷野氏の著作の間違い指摘にしばし情熱を傾けてもいいんじゃないの、みたいな(笑)。あ、勘違いしてほしくないんだけど、「これだけ数え上げたんだから全部正誤表に載せろ」みたいなことが言いたい訳じゃなくて、ほんと単純に、彼が訂正に値しないと考えたのは不思議でね。具体的には、以下のとおり。

----

a) 成田屋は成田山の檀家じゃないです
b) 「仮名手本忠臣蔵」が初演されたのは元禄赤穂事件の同時代じゃないです
c) 福地櫻痴は「鏡獅子」の作者として現在も有名です
d) 三代目寿海の襲名披露興行の「桐一葉」@歌舞伎座は父子で出てないです
e) 歌舞伎の台本を書いた戦後作家は三島だけじゃないです

※この件に関し、 2013年5月17日付のhttp://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20130515に「池波正太郎が戯曲を書いているという点だが、それなら筒井康隆だって書いている。私が言いたかったのは、純文学の戦後作家が戯曲を書かなくなったということである」とあるけれど、そもそも『猿之助三代』の本文では「戯曲」じゃなくって「歌舞伎の台本」の話をしてるんですけど。池波正太郎を例にあげたのはそのせいなんだけどなあ。あとは中島梓と夢枕獏あたりかな、「戯曲」じゃなくて「歌舞伎の台本」に限った話だと。
f) 菊五郎劇団は、そう明白には名乗っていない時期も六代目一門としての結束は固かったし、あと少なくとも「菊五郎劇団音楽部」の名称はずっとありました
g) 「大人になったら猿之助、功なり名遂げた隠居名が段四郎」というのにはいろいろ無理があります
h) (毛谷村六助)は(毛谷村)か(毛谷村六助住家)のどっちかじゃないと変です
i) 歌舞伎でもよく上演された近松の作として、「国性爺合戦」以外の時代物をすべて差し置いて改作の「心中天網島」が入るのはおかしいです
j) 「曾根崎心中」の初演は当たったという資料が残ってます
k) 「義経千本桜」は義経と頼朝の和解じゃなくて佐藤忠信の敵討ちで終わるのでは?

※この件に関し、2013年5月17日付のhttp://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20130515に「『義経千本桜』の最後は、頼朝の使者である河越太郎が、頼朝義経の不和は法皇だか朝方だかの陰謀だったと言うのだから、これは兄弟の和解である」とあるんだけど、この文は「千本桜」五段目の説明として極めて不正確、というかすごく歪んでる。
 「堀川御所の段」とは違い、ここでの河越太郎は頼朝の使者じゃなくて後白河院の使者(だって後白河院の綸命を持ってるんだもの)。原文をくだけた現代語に直すと、彼はふんじばった藤原朝方を連れて「ご無沙汰です義経公。初音の鼓に事よせて「義経よ頼朝を追討せよ」との院宣はこいつ藤原朝方の企みと知れました。こやつの処置は義経に任せるとの、後白河院からの綸命を持参しております」なんだけど、なんとここが氏の言う「河越太郎が、頼朝義経の不和は法皇だか朝方だかの陰謀だったと言う」にあたる部分なのだ! 綸命を出した張本人が「陰謀はわたくし後白河院か藤原朝方のどっちかが仕掛けました」なんて言うはずない!
 でね、実は五段目って、鎌倉勢と義経のふりをした佐藤忠信が一戦交えるという場面から始まる。仮に河越太郎が綸命を承ったのが鎌倉だったとして、その時点で綸命の内容が頼朝にも伝わっていたとするならば、こんな場面は存在しないはずだし、河越太郎自身「誤解が解けたので頼朝公はあなたを許しますよ」とかなんとか言わないのは不自然なので、河越太郎は京都に到着するまで綸命の内容を知らず、そんでもってなにしろ綸命なんだから藤原朝方をふんじばり次第吉野へ直行したはず。まあ手紙や使者ぐらいは鎌倉に送る余裕はあったかもしれないけど、つまるところ、五段目で河越太郎が吉野へ到着して一声発した時点で鎌倉にいる頼朝が義経を許す気になっている可能性はゼロ。 …っていう憶測は単に小谷野氏の短絡ぶりを指摘する傍証にしかすぎなくて、こっからが本題。「和解の暗示」論者に言わせれば、五段目のポイントは、「どこにも明言されていないにもかかわらず(←ここ重要)、あちこちに仕込まれた記号から、「頼朝と義経の和解」の主題がおぼろげに浮かび上がっている」ということ。
 もちろんこれ、表舞台では殺し殺されの派手な対決模様が進行してる裏で微かに感じ取れるタイプの主題であって、言い換えれば「和解の暗示」はどこまで行っても「暗示」だし、そこにとどめる事こそが作者たちの狙いなんだよね。だから小谷野氏みたいに、表舞台の殺し殺されも暗示の一言も置いてきぼりにしていきなり「和解で終わる」って断言しちゃったらそれこそ狙いが分かってないというか読めてないというかひょっとするとどっかで読みかじったか聞きかじったのをそのまま書いただけじゃないのって感じだし、それ以前に「義経千本桜」が戯曲であるという大原則を忘れて、「頼朝と義経の和解で終わるから、びっくりである」などと、あたかも舞台上に頼朝と義経が出てきて握手しちゃうよ大仰天、みたいに読めちゃう言い回しを用いることは、いろんな意味で間違ってるんだよ。
l) クラシック音楽界における古楽器演奏や編成のスリム化は一時の流行じゃないです(藝術的な成功不成功は主観にせよ、継続してるのは事実)
m) 人形浄瑠璃では昔から一段を複数の太夫で語り分けてます

※2013年5月17日付のhttp://d.hatena.jp/jun-jun1965/20130515では、著名な浄瑠璃サイト「音曲の司」中の一節から、「太夫の人数が増え続け、一興行で多くの太夫を出演させるために、また太夫の格や顔を維持するために、一段を更に細分して上演されるようになった。」を引用して反証(?)にしてるね。でもさ、『猿之助三代』では分担に藝術的理由を見出していないのに対し、「音曲の司」で基準の1つとして取り上げられた「格」という概念自体、とっても藝術的なものなんじゃないの? まあ、分担制のスタートは、太夫のそれにせよ作者のそれにせよ、質的(藝術的)・量的増大という興隆期ならではの現象が生んだものだという意味のことは、以前も鳥越文蔵を引用して言ったんだけどね。
 いずれにせよ、「音曲の司」とか鳥越文蔵が言ってるのは、太夫が増えると同時に戯曲もどんどん長くなっていった、言うなればパイの大きさもそれを食べる人数もどんどん拡大していった時代。それに引き換え『猿之助三代』の該当箇所、「太夫が多くなり過ぎたため、一人で全部語ると何も仕事のない太夫ができてしまうので、無理に分けた」っていう言い方だと、パイの大きさは変わらないのに食べる人数だけが増えたって感じだよね。やっぱり変だなあ…。
n) 四の切、澤瀉屋以外で宙乗り狐六法をやるのは当代海老蔵だけです
o) 猿之助は73年以降身内の襲名披露にしか出ない訳じゃないです

※2013年5月17日付のhttp://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20130515では「2000年くらいになると緩和される」とあるんだけど、91年の段階ですでに当代藤十郎の鴈治郎襲名披露口上に列座してるみたいですよ。まあいずれにせよ、『猿之助三代』本文において、「…年の誰々襲名公演まで」とか、あるいは「何年間ほど」などの期間を限定する表現がない以上、間違いは間違いです。
p) 七十すぎた女形が若い女を演じる例は以前からあります
q)「金鶏」の猿之助はちゃんと演出してます
r)「金鶏」の衣裳は歌舞伎の衣裳方が担当した訳じゃないです


----

ぽわん:なるほどねえ。たぬきさんも執拗だなとは思うけど、小谷野氏の訂正http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20130515は徐々に、あるいは一挙に増えるのかなあ?
たぬき:さあ、どうかな? 尚、「その2」のほうの「良弁杉由来」に関し、「2013年5月17日追記:小谷野氏ご当人の発言として「「良弁杉由来」を額田六福作と勘違いしたのは、サイニイで検索したからではなくて、まさにそこに出ている国立劇場公演を観に行って、「冬木心中」の方の作者である「額田六福」と「良弁杉」が頭の中で結びついてしまったからである。」とのコメントを頂戴しました。」の一文を追加いたしました。
posted by powantanuki at 23:03 | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月14日

小谷野敦『猿之助三代』のびっくりな内容その1

新書の杜撰さは、どこまで許されるか


ぽわん:今日はたぬきさんがご立腹のようだね。わたくしは聞き役に徹しますよ。
たぬき:いや、立腹というかね、小谷野敦の『猿之助三代』にびっくりしたんだよ。
 氏の著作にありがちな「うわー皮相な解釈」とか「これって邪推以外の何物でもなし」みたいなのに辟易したっていうのもあるんだけど、そういう浅薄な主観こそ彼の著作のファンには好まれるらしいねえ。著者と読者の品格が釣り合ってるのかな? まあそういうのは基本的にスルーして、今回はいっぱいある間違いをひたすら指摘していこうと思うよ。ぽわんさんには長々と付き合わせることになるけどごめんね。
ぽわん:事実誤認が相当たくさんあるんだってね、この本。
たぬき:うん。実は出版直後に「十五代目中村歌右衛門」という、私たぬきなら筆を折りたくなるくらいの初歩的ミスで有名になったらしい(例えばhttp://theater-angel2.blog.so-net.ne.jp/2011-06-21)。それを含む著者自筆の正誤表がhttp://homepage2.nifty.com/akoyano/teisei.html#ennosukeだけど、それでは済まなかったんだねえ。まずはP17に、 成田屋は「成田山新勝寺の檀家である」とある。確かに縁は深いけど、正式な檀家だったことはないはず。成田屋はずっと芝の常照院の檀家で、九代目以降は神道に改宗したんだし。
 次。P38に、「同時代の事件を描くにも、「仮名手本忠臣蔵」のように『太平記』の中の逸話に仮託したり」とあるけれど、「仮名手本忠臣蔵」が初演されたのは、元禄赤穂事件の"同時代"ではない。知っての通りこの演目、四十七士にちなみ、事件から"47年目"として売り出したんだからね。
ぽわん:今から見れば同時代だけど、当時47年の開きは大きいからねえ。こういうのは、誰でもやりがちな、だからこそ気をつけなければいけないことだねえ。
たぬき:どんどん行くね。P38に「福地櫻痴も、今ではあまり知られない作者になっている」とあるけど、もちろんそんなことなくて、新歌舞伎十八番「春興鏡獅子」の作詞者として有名。「「鏡獅子」は有名だけどその作者は有名じゃないだろ」という反論が想像できなくもないけど、それなら初代二代の竹田出雲も三代目河竹新七も"あまり知られない"ということになり、歌舞伎作者は近松と南北と默阿彌以外全員"あまり知られない"ということになってしまうねえ。
ぽわん:著者にとっては、そうなんじゃないの?(笑)
たぬき:P60には「しかし荷風は、劇評はしても、戯曲を書くことはなかった」とあるけれど無論そんな訳なくて、現行のひとつ前の旧荷風全集・第12巻は、まるごと戯曲とシナリオ梗概だけでできてる。困ったもんだねえ。
ぽわん:ええと、これも著者にとってはそうだったとか?(戯曲を書いたとは見なさねえー、みたいな・笑)
たぬき:そこもか!(笑) P131の「九郎右衛門」は「九朗右衛門」ね。著者の正誤表から漏れてるよ。次、P132-3に「二十六年(中略)五月には寿美蔵が三代寿海(一八八六−一九七一)を襲名し、歌舞伎座での披露興行では、昼の「桐一葉」に父子で出て」とあるけど、これはいろいろと間違い。寿美蔵が寿海を襲名したのは二十六年五月じゃなくて二十四年二月。そんでもって東京での披露興行の「桐一葉」には、父は出てても子は出てない。夜の「黒塚」には共に出てるけどね。
 それから、P134に 「歌舞伎の台本を書いた戦後作家は三島だけであろう」とあるけれど、大劇場の劇作家をいっぱい輩出した長谷川伸の新鷹会系列が忘れられてる。池波正太郎・平岩弓枝あたりは書いてるよ。後者が書いたのが純粋な歌舞伎脚本かと言われれば微妙だけど、前者が書いたのはそう言って差し支えない。彼は安部公房とは1歳、三島と2歳違いだし。
 P141に「たまたま七代目菊五郎の周辺に人が集まったので、今でも「菊五郎劇団」と言っているだけらしく」とあるけれど、六代目死後、当代襲名までの名跡空白期間も、少なくとも囃子方や長唄連中はずっと「菊五郎劇団音楽部」を標榜してたし、役者たちの「六代目が残したものを守る」という結束もまた固かった。当代襲名時にたまたま人が集まった訳じゃないよ。P150には「大人になったら猿之助、功なり名遂げた隠居名が段四郎」とあるけれど、"助"が付く名跡は、本来は文字通り座頭を"助ける"立場にある役者のものだし、同じ意味で"郎"が付く名跡が隠居名であるはずがない。そもそも歴史の浅い澤瀉屋の名跡に法則性を見いだそうとしても無理があるんだよね。
 次は小さいやつをいくつか。P153 「三人吉三」に「きちざ」ってルビがふってあるけど、当然「きちさ」が正しい。P173「彦山権現誓助剣(毛谷村六助)」は変。(毛谷村)か(毛谷村六助住家)のどちらかじゃないと。あとP177に「近松作品で、一貫して歌舞伎でもよく上演されたのは「国性爺合戦」であり、せいぜい「心中天網島」である」とあるけれど、「吃又」も「俊寛」も「嫗山姥」も絶えず上演されてたよ。和事は改作の度合いが高いから近松の上演とは言いがたい面もあると思うんだけど、なんで次に挙げてるのが「心中天網島」なんだろ?そもそも江戸時代には近松の本領は時代物にありとされてたんだしねえ。
 続いて「「曾根崎心中」は近松の世話もの、心中ものの第一作だが、当時大ヒットした、などと書いている人がいたら、その著者は信用しないほうがいい」とあるけど、「今昔操年代記」とか「浄瑠璃譜」とかに見える「曾根崎心中」は当たったという記述を真っ向から否定するには何か深い訳があるんだろうから、その論拠が知りたいねえ。ちなみに「今昔操年代記」の該当ページはhttp://kateibunko.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/katei-jpeg/big/katei3/0905/09050017.jpgで、「浄瑠璃譜」はhttp://kateibunko.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/katei-jpeg/big/katei4/0921/09210004.jpgね。
ぽわん:ルビとか歴史的な事実とかについては、出版社の校閲の人達、何してたんだ、という気持ちにもなるねえ。
たぬき:いわゆる新書ブームによる粗製濫造の弊害なんだろうねえ、こういう杜撰な本が出回ってしまうのは。
ぽわん:自己弁護するわけじゃないけど、われわれのブログのような、無償でインターネットで書いているものと違って、本は完成形で出すものだ、という認識が、そもそも著者にはないんだろうねえ。でも、ネット上の記事とは違って、本って学生が教材的に使ったりすると思うんだけど、まあそれも著者にとっては「鵜呑みにするほうがバカ」ってことになるのかな?
たぬき:「web上で正誤表を公開している自分は正直」という論理があるらしいね、彼の中に。PCのアプリケーションで言えば、発売後に発覚した不具合にパッチを当てる、みたいなことなのかもしれないけど、すべてがデータから成り立ってるアプリケーションと紙である書籍とでは、初版で求められる完成度には雲泥の差があると思うけど。
 次いでP179 に「「義経千本桜」など、義経と頼朝の和解で終わるのだから、びっくりである」って書いてあるけど、そんな事ないよ! 佐藤忠信が兄の仇・平教経を討って終わるんだよー。そもそも「義経千本桜」全幕で一度も舞台に登場しない頼朝が、どうやって義経と和解できるのよ!!
ぽわん:ここ、わたしも今見てみたけど、「歌舞伎役者ですら、本行の全体の筋を知らないことがあって」とあるよ。もしかして歌舞伎役者が勘違いした話とか? だとしても日本語が変な気がするけど。
たぬき:えーとね、五段目に、頼朝と義経の不和は藤原朝方が仕組んだものだったことが判明するっていうくだりがあるんだけど、そこを取り出して「五段目において義経と頼朝の和解が"暗示"されている」みたいな、「千本桜」全体の流れから見れば少々偏頗な論があるのは事実なんだよね。それを鵜呑みにして、というか勝手に拡大解釈して「義経と頼朝の和解で終わる」になったのかなあ。だとすれば、明記してほしいね。「千本桜」を通読したことのない人に、それこそ鵜呑みにされちゃうよ。(その2に続く)
posted by powantanuki at 21:09 | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小谷野敦『猿之助三代』のびっくりな内容その2

事実にこだわらない読み物のための「事実」!?


たぬき:さてさて「1」の続きですよー。ぽわんさん、もうちょっと付き合ってね。
 今回は基本的に事実誤認しか言及しないことにしてたけど、P184-5の 「復活上演や通し上演は、ちょうどクラシック音楽における、十八世紀の古楽器での演奏や、小編成での演奏が、アルノンクールのモーツァルトのような例外を除いて成功、継続しない」は、あまりにトホホ度が高いので触れておこうかな。日本を含め世界中どこでも古楽器演奏は相変わらず継続して盛り上がってるし、モダンオケでさえ、古典派を演奏するときは弦楽器の数を思いきり削って演奏するのが普通になってる。演奏はもちろん録音だって、かつてのメジャーレーベルが過去の音源をまとめて投げ売りするばかりの中、新譜としてはいちばん勢いのあるジャンルだよー、と指摘しておこうかな。それが藝術的に成功しているか否かは、例えば近年の録音で言えばミンコフスキのハイドンやシューベルト、ブリュッヘン2度目のベートーヴェン交響曲全集あたりを聞いても「不成功」と感じるのなら、ああそうですかとしか言いようが無いね。私たぬきはどれもすばらしいと思ったけれど。
 P186。「義経千本桜 河連法眼館(四の切)」に言及しつつ「人形浄瑠璃を観に行くと分かるが、一つの段が、途中で、太夫と三味線が交替するので、「序」「中」「切」という風に分けるのだが、これはだいたい、太夫が多くなり過ぎたため、一人で全部語ると何も仕事のない太夫ができてしまうので、無理に分けたもので、別に藝術的理由で分けているのではない。」とあるんだけど、ここはなかなか傑作だねえ。江戸時代からずーっと、一つの段の端場と切場で太夫が交替するのは当たり前。そもそもここで話題になっている「四の切」からして、初演時すでに竹本錦太夫→竹本政太夫→竹本島太夫の3人で語り分けたんだよね。だのに小谷野氏曰く「一人で全部語ると何も仕事のない太夫ができてしまうので、無理に分けたもので、別に藝術的理由で分けているのではない」か、はあ…
ぽわん:ええと、これはきっと思うところあって書いているんだろうと考えると、もっときちんと根拠を挙げてほしかったところだねえ。
たぬき:うん、古浄瑠璃はどうやら一人で語られてたらしい。もしそれと比較してるのだとするなら、一段を語り分けるようになったのは、「藝術的理由」以外の何物でもないよ。鳥越文蔵の言葉を借りると、いわゆる三大名作が完成した所以は「太夫・三味線弾き・人形遣いの人たちに人材が揃っていたということになる。名人・上手が沢山いると、それぞれの幕が充実する。いきおい各幕が長くなる。一人の単独作では、全体を統括することがむずかしくなり、分担執筆すなわち合作となっていった。作者にも名作者が何人もいたために合作制が考え出され、演技者と協調して操り浄瑠璃全体を隆盛に導いたのであろうが、鶏と卵と同様、どちらが先かは判然としない」のだからね(引用はhttp://www.keenecenter.org/sen/bunzo_torigoe_japanese_text.pdfから)。
 次は比較的小ネタ。P187に「猿之助がやるようになってから、宙乗り狐六法ばかりになって」とあるけど、澤瀉屋以外で宙乗り狐六法をやるのは、当代猿翁に教わった当代海老蔵だけ。P201。「猿之助はこの後(たぬき注:1973年の当代菊五郎の襲名後)、自分の仲間以外の襲名披露には出なくなる」ってあるけどそんな訳がなく、81年の現歌六・現時蔵・当代又五郎の歌昇襲名@歌舞伎座は当時の"仲間"と言えなくもないけれど、当代藤十郎の鴈治郎襲名@91年12月南座、当代松緑の襲名@02年10月御園座の口上に列座してるよ。P202 の「劇評家に何が起こったか」は「劇評家に何が起ったか」。P205に「いったい、六十、七十になって、女形が若い女を演じるなどということがあったのか」とあるけれど、当然ながらいっぱいあった。還暦過ぎても娘役なんて当たり前で、七代目宗十郎とか先代梅玉あたりは七十過ぎても若い女の役をやってたし。次のP210、「バレエのジャン=ルイ・バロー」には思わず吹き出してしまった。フランス映画か西洋演劇のどっちかに関心があるなら、絶対こんな間違いしない。小谷野氏は本人の言う事を当てにしないそうだけど、彼の自伝のタイトルを信用するなら「私は演劇人である Je suis un homme de théâtre」ですよー。
ぽわん:タイトルすら当てにしないということになると、カオスだねえ…。
たぬき:あと、P211 「吉祥寺に前進座劇場が開幕し」とあるけど、「開場し」だよね…
 P214には「(金鶏が)日本では演出と報道されたが、のち再演された際のものを見ると、「衣裳・舞台装置」で、猿之助がオペラの「演出」までするわけはないから、これが正しいだろう」とあるけれど、現猿翁はちゃんと演出してるよー。たとえ楽譜が読めなくても、「オペラの演出」ってやつにはいろんな方向からのアプローチがあるからね。
 もっと可笑しいことがあってね。小谷野氏の文章は「しかし、音楽的にはさほどではないオペラが、猿之助というより、猿之助と歌舞伎衣裳方の力で作ったものが、視覚的に優れた効果を挙げていたことは確かだ」と続くんだけど、この「金鶏」、衣裳は毛利臣男(+桜井久美)なんだけど、毛利臣男も桜井久美もそれまで歌舞伎の衣裳を担当したことはなくて、逆に「金鶏」をきっかけにスーパー歌舞伎の衣裳を担当していく訳だから、小谷野氏が言うように「歌舞伎衣裳方の力」で作られた訳ではないんだよね。とほほ…
 次もちょっとアレなやつ。P215に「「良弁杉由来」をやっているが、これは額田六福(一八九〇ー一九四八)作の、本来つまらない芝居」とあるけれど、これはCiNiiか何かで「良弁杉由来」を入れて検索かけたんじゃない限りやらかさない、超初歩的ミス(http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB03835745/かな?)。「良弁杉由来」はもともと文楽の新作で、作曲が三味線弾きの二代目豊沢団平、作詞は某文士が書いた長々した奴を団平の奥さん・加古千賀が補綴したもの。額田六福の手は入ってないと思うよ、だって彼は明治20年の初演時には生まれてないんだから!!! 「2013年5月17日追記:小谷野氏ご当人の発言として「「良弁杉由来」を額田六福作と勘違いしたのは、サイニイで検索したからではなくて、まさにそこに出ている国立劇場公演を観に行って、「冬木心中」の方の作者である「額田六福」と「良弁杉」が頭の中で結びついてしまったからである。」とのコメントを頂戴しました。」
 P219の「新派の水谷良恵」は当然ながら水谷良重、P226の「九六年(中略)十月、国立劇場で南北の「四天王楓江戸粧」を復活通し上演したのが、猿之助最後の復活狂言になった」とあるけれどこれも間違いで、2003年の歌舞伎座「四谷怪談忠臣蔵」と、同年に国立劇場でやった「競伊勢物語」も復活通し狂言。前者は「双絵草紙忠臣蔵」の圧縮版だけどね。
 さてさて、さっき例に挙げた著者自筆の正誤表http://homepage2.nifty.com/akoyano/teisei.html#ennosuke、現在のところ11項目だけど、われわれのエントリーの後で、増えるのかな? それともそのままかな?
ぽわん:でもさあ、素朴な疑問なんだけど、どうしてこんなに間違えるのに、こういうデータ系(?)の本を書くのかなあ? そこを重視していないのだとしたら、もっと違う書き方をすればいいのに。 
たぬき:本人とか関係者には基本的に取材しないで作ったらしいからね。そのせいで、上演データとか、先代猿翁の追悼本『猿翁』とか、現猿翁が前名時代に書いた『猿之助修羅舞台』の引き写し率がものすごく高い。この本より『猿翁』や『猿之助修羅舞台』を読んだほうがずっと面白いよ。だんだんこの本の存在意義が分からなくなってきた…
ぽわん:この本って、一見、事実をもとにしているように見せかけて、事実にこだわらない読み物なのかな?? としたら、それがわかるような本の出し方をしてほしいよね、昔流行った「超訳」じゃないけど。…結局、我々(というより、たぬきさん)は、彼の正誤表に多大な貢献をする、ことになるのかなあ??
posted by powantanuki at 21:06 | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。