2011年02月05日

読売演劇大賞にもの申す


『ザ・キャラクター』大賞受賞の違和感

たぬき:さて、今年の読売演劇大賞が発表になったね。ぽわんさんは『ザ・キャラクター』の大賞受賞を予想してたんだって?
ぽわん:うん。演劇界として盛り上げよう・評価しようっていう空気がむんむんしてたんだもん。
たぬき:しかしその『ザ・キャラクター』、空前絶後の駄作だったね。ぽわんさんも観終わった後で怒ってたみたいだけど?
ぽわん:全然面白くなかったんだよね。オウム/地下鉄サリン事件を今扱うことが無駄だとは思わないけど、それが、援用する神話だとか書だとかのモチーフと結びついて、さらに豊かなイメージを作っていくんじゃなければ、演劇として見る意味がない。自分で事件を検証するのと変わらないじゃん。かといって、あの事件のことをよく知らない若い世代が、この芝居を見ることで、一連の事件についての理解が促されるかというと、これまた疑問だよ。
たぬき:まったくだね。わたしことたぬきが『ザ・キャラクター』を駄作だと言い切る理由は簡単で、「なぜ書道教室がサリンを撒くに至ったのか」というプロセスの解明、つまりオウム真理教事件に対する考察が一切なかったからなんだ。教祖への盲信だの集団内での足の引っ張り合いだのといった一般論、あるいは「幻」が「幼」かったからだのといった小手先で目くらましできるような問題じゃないからね、「なぜオウムはサリンを撒くに至ったのか」ということは。ほら、ブレヒトの『アルトゥロ・ウィの興隆』とかイヨネスコの『犀』っていうのは、劇作家それぞれによる「なぜファシズムは起きてしまったのか」という問題に対する考察な訳じゃない? オウム事件を題材にするのなら、一般論にも言葉遊びにも「逃げ」ちゃいけない。じゃないと(もう一つの下敷きである)ギリシャ神話同様に、「遠い昔に起きた出来事」を構造として借りただけになってしまう。『ザ・キャラクター』は、ギリシャ神話とかオウム事件とかに筋だけ乗っかりつつ、登場人物たちが何の効力も無いアフォリズムだの言葉遊びだのをぶちまけているだけだったもん。
ぽわん:野田は、その言葉遊びの意外な効果っていうのを作るのが得意な人だったと思うんだけど、もう観ている側の想像力を喚起しないんだよね。才能が枯渇したのかな。
たぬき:そうだね。アングラ・小劇場以降の劇作家は、こういう言い方をするとミもフタもないけど基礎が出来てないというか、基礎を作ること自体を否定してしまったから、自分のモチーフが枯渇した後は出がらしになるしかないさ。まあ、昔から「劇作家10年説」ってのがあって、劇作家という職業はどんなに頑張っても10年で才能が枯渇することになってるらしいけど。


選考過程は公表しないの?

たぬき:あと、最優秀演出家賞の蜷川幸雄にも異を唱えておきたい。ここ数年の彼の演出は悪い意味での出たとこ勝負というか、グランドデザインを欠いていて、部分部分のヴィジュアル的な工夫とか個々の役者を面白がるぐらいしか楽しみがない。だから、キャスティングと演目を耳にした瞬間に、どの程度の舞台成果が上がるか予想できてしまう。そして「これは面白くなりそうだ」と思える組み合わせは、割合で言ったら2割程度なんじゃないかね。彼の舞台を観るたびに思うんだけど、壮年期の蜷川が今の自分の仕事を見たら口を極めて罵るか、少なくとも引退勧告を突きつけるね。かつて自分自身が年長者を罵ったように。
ぽわん:かといって、蜷川がいない演劇界が活況を呈するかというと、不安なところもあるなあ。それに、若手の劇団さいたまネクスト・シアター『美しきものの伝説』はけっこう良かったよ。この公演には高齢者演劇集団のさいたまゴールド・シアターの人たちも出て来たんだけど、ネクストとゴールドの両輪を動かすことができるのは蜷川でこそだし、そこを評価したっていう面もあるのかな。
たぬき:ところで、ぽわんさんは多部未華子とチョウソンハを、最優秀女優・男優賞に期待してたんだって?
ぽわん:期待してたっていうか、単純にすごく健闘してたから。でも周りに大物がいっぱいいて、若手は不利だったかなあ。まあ、浅野和之も麻実れいもいい俳優だけどね。今回、「順番」とか「権威」とかをあまり感じなかったのは、小野寺修二の最優秀スタッフ賞かな。まあでも、改めてメンツを見るに、比較したり順位をつけたりするのって難しいね。だからこそ、受賞理由が知りたいかも。文学みたいに、選考委員の選評がほしかったな。
たぬき:それ気持ちは分かるんだけど、例えば今回の選考委員=小田島恒志、七字英輔、島次郎、永井愛、みなもとごろう、矢野誠一、渡辺保の中で、劇評が専門なのは七字、矢野、みなもと、渡辺保だけ。残りの人たちは、これまで一緒に仕事したり、これからすることになるかもしれない人に対して、公の場でああだこうだ言うのは差し障りがあるんじゃないの。岸田戯曲賞は選評が出るけど、曲がりなりにも文学賞だから、選考委員と候補者は同業者にしてライヴァルだ。公の場で相手を堂々と批判するぐらいはできるさ。
ぽわん:ふうん。じゃあ一人でできる文学に比べて、大勢が関わる演劇だと、選考過程をオープンにするには差し障りがあるってこと? 
たぬき:まあそういうこと。しかしよく考えたら小田島恒志は、自分の親父に芸術栄誉賞をやって自分が翻訳した作品の出演者(浅野和之)とステージング(小野寺修二)に賞をあげた訳になるんだな。身内にあげるなんてひど過ぎないか?
ぽわん:小田島以外の選考委員が推薦したのかもしれないよ。ほらあ! だから過程をオープンにしたほうがいいじゃん!!

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(以下が読売演劇大賞の内容。YOMIURI ONLINEより)


「第18回読売演劇大賞」決まる(2010年度)



大 賞・最優秀作品賞    「ザ・キャラクター」(NODA・MAP)
最優秀男優賞          浅 野  和 之
シス・カンパニー「叔母との旅」のヘンリー・プリング、トゥーリィ、オトゥール役などの演技
最優秀女優賞           麻 実  れ い 
幹の会+リリック「冬のライオン」のエレノア・オヴ・アキテーヌ役、tpt「おそるべき親たち」のイヴォンヌ役の演技
最優秀演出家賞          蜷 川  幸 雄
埼玉県芸術文化振興財団/ホリプロ「ヘンリー六世」、さいたまネクスト・シアター「美しきものの伝説」の演出
最優秀スタッフ賞        小 野 寺  修 二
シス・カンパニー「叔母との旅」のステージング、パルコ「ハーパー・リーガン」の振付
杉 村 春 子 賞          多 部  未 華 子
東京芸術劇場「農業少女」の百子役の演技
芸 術 栄 誉 賞          小 田 島  雄 志
選考委員特別賞        熊 倉  一 雄
テアトル・エコー「日本人のへそ」の演出

◇優秀作品賞
「叔母との旅」(シス・カンパニー)
「Pal Joey」(Quaras)
「摂州合邦辻」(松竹・日生劇場)
「美しきものの伝説」(さいたまネクスト・シアター)
◇優秀男優賞
尾上 菊之助(松竹・日生劇場「摂州合邦辻」)
上川 隆也(埼玉県芸術文化振興財団/ホリプロ「ヘンリー六世」)
チョウソンハ(シーエイティプロデュース「BLUE/ORANGE」、世田谷パブリックシアター+コンプリシテ「春琴」)
橋爪 功(NODA・MAP「ザ・キャラクター」)
◇優秀女優賞
阿知波 悟美(東宝「キャンディード」)
大竹 しのぶ(埼玉県芸術文化振興財団/ホリプロ「ヘンリー六世」)
銀 粉 蝶(二兎社「かたりの椅子」、世田谷パブリックシアター「ガラスの葉」)
多部 未華子(東京芸術劇場「農業少女」)
◇優秀演出家賞
鈴木 裕美(自転車キンクリートSTORE「富士見町アパートメント」、tpt「この雨 ふりやむとき」)
瀬 久男(幹の会+リリック「冬のライオン」、Pカンパニー「夏の砂の上」、文学座アトリエの会「カラムとセフィーの物語」)
前川 知大(イキウメ「プランクトンの踊り場」、同「図書館的人生Vol.3食べもの連鎖」)
◇優秀スタッフ賞
小川 幾雄(ヴィレッヂ・劇団、本谷有希子「甘え」、NODA・MAP「ザ・キャラクター」、シス・カンパニー「叔母との旅」、同「K2」の照明)
沢田 祐二(こまつ座「シャンハイムーン」、新国立劇場「やけたトタン屋根の上の猫」の照明)
土岐 研一(イキウメ「プランクトンの踊り場」、同「図書館的人生Vol.3食べもの連鎖」の美術)
乘峯 雅寛(文学座アトリエの会「トロイアの女たち」、同「カラムとセフィーの物語」、同「ダーウィンの城」の美術)

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2011年01月30日

演劇は誰のもの? 〜『わが町』『浮標』再演をきっかけに考える〜

グローバリズムとローカリズムのさじ加減

ぽわん:ちょっと大上段にかまえ過ぎたタイトルだけど、何が話したいかっていうとね、最近、近代の名作の再演が増えてるじゃない。『わが町』とか『浮標』とか。あれって、演劇界的にはすごくいいことだと思うんだけど、観に来る人にはどういう人を想定しているんだろう?ってふと思って。
たぬき:いわゆる「古典だから見に来る」演劇ファンは2割ぐらいで、残りは「誰々の演出だから」「誰々が出るから」じゃないのかなあ。そういう残りの8割が、それをきっかけに古典に興味を持ってくれれば…ということなんだろうけどね。
ぽわん:でもさあ、一口に古典って言っても、例えばシェイクスピアなんかは大昔の作品だし、そうでなくてもドレスを着るような「赤毛もの」(古い?)とかなら、観客も自分との距離ができて今の自分と細かいところを引き比べたりしないかもしれないけど、『わが町』みたいな、もちろん過去の時代の作品だけど、今風にリアルに上演されがちなものって、「今の話」だと誤解されないかとふと不安になるんだよね。『わが町』ってほのぼのするけど、一方で、すごく保守的な町の物語でもあるし。
たぬき:そうだね。『わが町』は手法の斬新さで有名だけど、その手法によって描写される中身は、当時つまり1930年代のアメリカの日常なんだよね。「新しい革袋に古い酒」というか。ただね、若い2人のすれ違いとか産後の肥立ちが悪いとかっていうのはいくらでもドラマティックに出来る題材なんだけど、当時はそうした出来事を「淡々と語る」こと自体が新しかったんだ。モダニスト作家、ガートルード・スタインのThe Makings of Americansっていう小説が元ネタなんだけど。
ぽわん:実際、こないだ新国立劇場で上演された宮田慶子版は、小堺一機に過度なおふざけをさせず、敢えてストイックな抑えめの演技をさせてたなあ。
たぬき:それはモダニズム戯曲の解釈としてはすごく正しい。はしゃいでる『わが町』なんて意味がない。白地図みたいな戯曲だから演ろうと思えば簡単なんだろうけど。
ぽわん:なるほどね。…話がそれたけど、とにかく、そういう、少し前の作品を、時代性を強調せずに上演するっていうのは、面白くもあるけど、複雑な気分でもあるな。新しく見せても、作品に通底する考え方やセリフは微妙に昔の価値観だったりするよね。もちろん、それがその芝居の価値のすべてではないからこそ上演されるわけだけど。
たぬき:なんで複雑な気分になるの?
ぽわん:つまりね、例えば『わが町』が感動的な話なのはよくわかるんだけど、しんみりしたり涙したりしている若い観客を見ると、一方で、「その芝居はすごく昔の価値観に基づいていて、たとえばフェミニズムとかゲイ&レズビアンカルチャーとかが入っていない保守的な世界だよ、結婚して女は主婦になって男は外で働いて、子供作って死ぬ、みたいな物語が当たり前に展開するけど、それがすべてじゃないっていうことも、わかってるよね?」って確認したくなる(笑)。今って社会が保守的になっているだけに。…枝葉末節かな?
たぬき:確かに、歌舞伎の時代物を観て「主君の恩に報いるために我が子を犠牲にするなんて封建的!」とか「『女がゆえの浅はかさ』って台詞ふざけないで!」とか怒る人は今更いないけど、近代劇だとそこまで作り事として突き放した見方はできないかもね。とはいえ3幕の墓場のシーンって、誰もが人生というものをある感慨とともに振り返らざるを得ない名場面だよ。それは、時代物に封建道徳を超えた感動があるのと同じじゃないかな。
ぽわん:うん。それはもちろん、わかってるんだけどね。
たぬき:ちなみに、さっき言ったガートルード・スタインって、レズビアンでゲイリブのはしりみたいな人なんだ。だからきっとヨーロッパ系の演出家なんかだと、舞台監督役に彼女を思わせる女優を配して別の女優とイチャイチャさせるとか、墓場の場面でレズビアンのカップルを出すとか、そういう目配せをするかもしれないね。日本でそういうのやっても好事家のスノビズムをくすぐるだけだろうけど。

何がツボか。どんな影響を与えるか。

ぽわん:今話した『わが町』では、現代的に見せることで、保守的な内容も現代のものとして受容されないかっていう心配があったんだけど、逆の心配もある。たとえば『浮標』は戦争が絡むお話だけど、それを普遍的に上演した長塚圭史演出では、少しその辺りが弱かったっていう声もあるんだよね。
たぬき:古典をやるのなら、「ここは落としてはいけない」というツボがあると思うんだよね。化政文化の頽廃がない南北、社会意識の欠けたイプセンなんてありえないでしょ? で、長塚にとって、三好十郎のツボは「熱く情熱をたぎらせる男」で、そこに体当たりで挑んで突破することを目指したと思うんだよね。『胎内』のときもそれは感じたんだけど。ただ、ツボってのは本質的に、コンセプチュアルなものでないといけないのかもね。ほら、つか芝居でさえ熱演すりゃいいってもんでもないでしょ? 彼のツボは、やっぱり「差別される者の栄光」とかかもしれないし。いわゆるサブテキストとかバックグラウンドを掘り下げることは、その「ツボ」を探る上では、今でも有益だと思う。長塚って結構下調べする方だって聞いたことあるけど、それを手放すのが早いのかな?
ぽわん:いや、名作から時代感みたいなものを取り除いて普遍的/抽象的な演出で見せるっていうのが、最近の長塚演出のコンセプトのような気がするから、意図的なんじゃないかな。昨年、シアターコクーンで上演した『タンゴ』もその路線だったし。ともあれ、『浮標』を初めて観る人にとっては感動的だったみたいで、評判はいい。一方、過去に別の演出での『浮標』を観た人には、「演出はともかく、やっぱり戯曲がいいことを再確認した」っていう意見が多い。戯曲の良さを含めて感動が伝わったっていうのはすごくいいことだから否定するつもりはないけど、それは公演の良さというより戯曲の良さに起因する感動なんじゃないかなあとも思うんだよね…。
たぬき:三好十郎って、長塚だけじゃなくて鐘下辰男も栗山民也も一時好んで演ったけど、要するにみんな戯曲のパワーに惹かれてるんだよね。鐘下だと、戯曲自体が彼好みの限界状況そのものだし、栗山だと、舞台とは役者と役者のエネルギーの投げ掛け合いだという彼の演出論にうってつけだし。三好みたいな人が居なくなったのは、文学者の戯曲離れとともに、作・演出を兼ねる演劇人が増えたせいで、戯曲のポテンシャルだけで引っ張れるホンを書ける人、簡単に言えば専業の劇作家が絶滅しちゃったせいじゃないかな。
ぽわん:あと、演劇の発信側は、観客に影響を与えたいと思うんだけど、それがどんな影響なのかは操作しきれないよね。『わが町』で「ああ、これこそ人生だよね。私もいつかお嫁さんになるんだあ」なんて思ってほしくないし、逆に『浮標』では戦争のことをもう少し考えてほしいなんて思ったりするわけで、要は受け手がどのくらい自立しているかっていったら大げさかなあ。
たぬき:演出家の鈴木裕美が「演劇が社会に対して何らかのメッセージを発する必要はあると思いますか」みたいな質問を受けて、「私に出来ることは、いわゆる悪役の側にもしっかり存在理由を見つけてあげること」といったようなことを言ってたことがある。これはとても誠実な言葉で、本来舞台とは1つのメッセージが押し付けられる場所ではなくて、案外多くの視点が並べられてもいるんだ。それを読み解くのは観客の咀嚼力にかかっているんだろうけれど。
ぽわん:観客の咀嚼力を刺激するために、視点を多く提示することが大事ってことなのかな? 演劇が誰のものか、というのは、簡単には出せない結論だと思うので、引き続き考えて行こう!
posted by powantanuki at 22:34 | TrackBack(0) | 演劇論ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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