2012年07月08日

大阪市長・橋下徹の文楽批判は文化の否定そのもの

大阪が文楽に補助金を出すのは無駄遣い?!

ぽわん:このところ(2012年7月8日現在)、文楽に対する大阪からの補助金の話題が沸騰しているねえ。おおまかな流れは、犬丸治の「橋下徹と大阪「文楽」問題を憂う」 http://homepage3.nifty.com/inumaru/newpage2012.06.26.html が詳しいので参照してほしいんだけど。
たぬき:景気が悪くなると真っ先に削られるのが文化予算だよね。こういうことに抵抗して井上ひさしも平田オリザも「演劇は生活のインフラ」みたいなことを一生懸命言ってたけど、橋下徹的なルサンチマンに同調する人間には、文化人が弄するレトリックの詐欺にしか思えないんだろう。
ぽわん:橋下的ルサンチマンって?
たぬき:自分が了解不能な存在に対する、度を超した憎悪の念とでも言えばいいのかな?
ぽわん:橋下改革って、文化予算に限らずとにかく競争原理の導入一本槍だよね。協会がどうの集客がどうのと言いつつ、そこが改善するか否かよりも、文楽と小劇場と同じスタートラインで、自分の主導下で競争させようとしているような感じもあるね。でも、小劇場と文楽のどっちが良いとか決めるのは土台無理な話。そもそも芸術って、たとえ同一ジャンルにせよ比較できるもんじゃないよ。そういうのが明快なスポーツでさえ、例えば陸上競技で短距離走者と長距離走者とどっちが速いかなんて、決められる?
たぬき:質と量の問題って、科学公式みたいに変換できないからね。橋下が引き合いに出す落語はほぼ身一つでできる点が文楽と違うよね。量と言えば、「そもそも経済的に自立できないようでは文化の名に値しない、その証拠に浮世絵もアニメも世界で人気」みたいなことを言う人もいるけれど、浮世絵もアニメもランゲージ・バリアーを突破しやすかったのと同時に(アニメは吹き替えによるオリジナリティ損失率が実写に比べて格段に低いから)、複製による大量流通が可能だから出来たことなんだよね。
ぽわん:その代わり、舞台芸術には複製芸術には逆立ちしても不可能な何かがあって、文楽には長い時をかけて練り上げられた、一度絶えたら二度と戻らない伝統の力としか言いようの無いものがある。我々はそれを、個々人の修練によって目の前で更新されていく瞬間に立ち会うことができるんだよね。つまり、伝統芸能には、二重の意味で複製不可能性があると言える。一つには、その場にしか現前化しない生の芸術であること。もう一つには、それでいて時間の蓄積の結果であるということ。一つ目には小劇場の演劇も当てはまるけど、二つ目の理由で、伝統芸能が助成の上で尊重されるのは自然な流れ。京劇なんて文化大革命で死に絶えちゃったよね・・・
たぬき:本来文化予算の交渉って「そちらも大変だと思うんですがこちらの財政も厳しいので」みたいに丸腰が似合うジャンルなのに、とにかく相手イコール敵としか見なせない弁護士根性からか、文楽自体を徹底的に誹謗することで、「減額=改革=良い事」みたいなイメージを、文楽の魅力を知らない人々に植え付けちゃったんだよね。
ぽわん:植え付けの効果は絶大だよね。文楽協会はまったく反論しないし。要するに橋下は、協会を批判しつつ、その協会のダメさを利用して自分の意見を広めている。即座にきちんと反論するような集団だったら、ここまで言いたい放題できなかったからね。
たぬき:橋下は文楽批判の放言を繰り返すことで、文楽を改革アピールのスケープゴートにしたいだけ。私たぬきが文楽の関係者なら、自分たちが誇りを持って取り組んでいるものを、政争の具として誹謗されたり命令されたりするのには耐えられないよ。
ぽわん:橋下が批判する公益財団法人文楽協会がなぜこんなにダメダメかというと、確かに彼が言う通り、大阪市とかからの天下りが多くて、文楽についての知識や能力がある人達の組織じゃないから。そもそも国・府・市・NHKが補助金を出し合って作られて、そのときから天下りがいたのかな? で、国立劇場ができたタイミングでなくなるはずが、なぜか実権が弱まったかたちで残っちゃったんだってね。だから文楽協会が改革されるべきだというのは当事者含めてみんな思っているんじゃないかという気がするけど、それが文楽そのものの否定と結びつけて論じられているところがね・・・。けど文楽協会は大阪市の外郭団体でも何でもなくて、主務官庁は文部科学省。なのに、まるで市のものみたいにえばって改革迫って、いくらなんでも度が過ぎているよねえ。
たぬき:まったくだよ。腹に据えかねるとはまさにこのこと。とは言え、一応フェアに、相手の公式文書を読んでみようと、その徹底した頭の悪さに何度も辟易しながらも、 http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html を読んでみたよ。
ぽわん:どういう頭の悪さが感じられた?
たぬき:第一に、文楽協会内部の単なる人事問題と、芸能としての文楽が思いっきり混同されてること。天下りOBの問題とか、送ってた側が勝手に引き上げればいいだけの話。文楽を実際にやっている人達=技芸員だって、興行の素人を送り込まれて困ってたと思うよ。
 第二に、橋下が「人間国宝だからと言っても税で、その人の収入を維持するのはおかしいというのが僕の感覚です。 人間国宝であろうとなんであろうと、鑑賞料で賄えない文化であれば、それは保存の意味。」(ここで切れてるのは原文ママ。「意味がない」と言いたかったのかな?)「芸事は、芸で鑑賞料を賄えるかどうかが全て」と書き、参与の民俗学者・橋本裕之も「国税・地方税を投入する根拠はあくまでも文化財。文化振興に国税・地方税を投入する根拠は薄弱。そもそも文楽は興行である。これは伝統芸能全般にあてはまる」 (ワークグループ文書「伝統芸能のグレートリセット―制度設計に向けて―」 http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/cmsfiles/contents/0000174/174249/tenpu1.pdf ) とか書いてるけど、文楽は興行であると同時に国の重要無形文化財であって、ここに、彼の言葉をそのまま使えば「国税・地方税を投入する根拠」が発生する。要するに二人とも、「政府及び地方公共団体は、文化財がわが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり、且つ、将来の文化の向上発展の基礎をなすものであることを認識し、その保存が適切に行われるように、周到の注意をもつてこの法律の趣旨の徹底に努めなければならない」という、文化財保護法第一章第三条「政府及び地方公共団体の任務」に真っ向から反対する、異端の説を述べてることになる。
ぽわん:わ、長い説明だったね(笑)。つまり、興行価値を文化財保護の観点より優先してしまうと「適切な保存」が難しくなるってことかな? 美術館が、たとえ集客を犠牲にしても、損傷しやすい国宝や重文の展示に極めてデリケートなのと同じだよね?
たぬき:そうそう。橋下と橋本裕之の主張が正統となるためには、まず文部科学大臣に掛け合って、文楽を重要無形文化財の指定から解除してもらうところから始めないといけないんだよ。えーと、さっき一部引用した、橋本裕之による「伝統芸能のグレートリセット―制度設計に向けて―」には、かなりの問題点があるので、もうしばらく付き合ってね。


「文化財保護だけは、国が主で自治体は従」の怪

たぬき:えーと、「文楽協会に対する国の補助金は、文楽がどうにもならない状況にあったさい、国が重要無形文化財である文楽を保存するため、緊急措置として設けたものである。(参考資料:「重要無形文化財伝承事業費国庫補助 要項」)以降、半世紀以上にわたって再検討されないまま自明視されてきたが、そもそもきわめて不自然かつ不均衡な措置である。大阪府市の補助金もその内容に準じる」とあるんだけど、これはいろいろと間違い。
ぽわん:たとえば?
たぬき:そもそも、今から半世紀前に文楽協会は存在していない(設立は1963年)ので、まず「半世紀以上」か「文楽協会」のどちらかかは絶対に嘘なんだけど、とりあえず国・府・市からの補助金は半世紀以上前から出てるのは事実なので、二つの仮定で考えてみるよ。
 【その一】後者の「文楽協会」が「文楽」の書き間違いであるとする。その場合、文楽協会設立前の1953年度から始まった助成金の交付は、彼が言うように「文楽がどうにもならない状況にあった」からじゃなくて、単に戦後の文化政策の転換によるもの。重要無形文化財の指定と助成金交付に先立つ、豊竹古靱太夫の文楽界初の芸術院会員(1946年)ならびに掾号受領と天覧(1947年)に象徴されてるように、敗戦後、それまで大阪の一郷土芸能であった文楽は、一躍国民的文化財として認められた訳。つまり、分裂(1948-63年)はすれど敗戦後の文楽は基本的にリスペクトされてたというか、言い方を変えれば2団体に分かれてもなんとかなってた訳で、「どうにもならない状況」という表現は的外れ。そもそも文楽って、戦前からずーっと苦労しっぱなしだったんだから。
 【その二】後者の「文楽協会」のほうが合ってるけど、前者の「半世紀以上」が「半世紀弱」の間違い、つまり、"松竹が"「どうにもならない状況にあった」ために成立した、文楽協会以後の補助金の話だと仮定してみよう。残念ながら、そうだとしても補助金が"緊急措置"というのは完全に間違い。松竹が手放してからの文楽は、手間のかかる割にお客さんの入りが悪い通し上演とか、学究的な資料集の発行とか、補助金なしには絶対にできないことばかりやってきた。こうした努力は、文楽が「わが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり、且つ、将来の文化の向上発展の基礎をなすものであることを認識し、その保存が適切に行われるように、周到の注意をもつてこの法律の趣旨の徹底に努めなければならない」という文化財保護法の精神に基づくことは言うまでもない。
ぽわん:つまり、ざっくりまとめると、文楽は、興行であると同時に文化財であるのだから、国も地方自治体も一体になって大事にしなければいけないってことかな? 確かに、皆が古い美術品や資料を鑑賞して楽しむわけじゃないのに、そこに大きな税金を投入することに、人々から文句が出たりはしないねえ。ただ、今回問題なのは、国からの補助はともかく、地方自治体に過ぎない大阪からの補助金の話だと思うんだけど。
たぬき:さっきも引用したとおり、本来文化財保護の任務を帯びるのは「政府及び地方公共団体」。あたかも国が主で自治体が従みたいに思われていて、現に池末浩規参与は「大阪市としては「文化財保護」に与する必要はなく」と勝手に言い切り、橋下は更に独断を進めて「文楽を守る役割は結局国にある」「自治体の役割は振興」とか言い出してる。そんな役割分担、勝手に決められる訳ないじゃない。
ぽわん:国が主で自治体が従というのは、他ならぬ橋下市長にとって心外のはずじゃないのかしらねえ!


文楽は無形文化財の動態保護の進化形

たぬき:今回の騒動で市長やその周辺の人達が分かってないのは、無形文化財においては「現状維持」自体がものすごく大変だということ。今でさえレパートリーのマンネリ化とか芸の正統な継承とかが危惧されているのに、これ以上の退化を招いてどうするんだよ。
ぽわん:文楽は興行という形態でやっているから、客の入りが悪いだの何だのと数字で言われちゃうけど、美術館や博物館に眠る(中には展示すら滅多にされないものもある)品々に比べたら、稼いでいるかもしれないよねえ。
たぬき:そうそう。さっきちょっと言ったけど、文化財を保護する最上の手段は、絵画なんかだと金輪際展示なんかせずに、温度・湿度を厳重に管理した真っ暗な部屋にしまっとくこと。展示すること自体が最大の劣化原因だからね。それとは対照的に、人間の手になる無形文化財は常に上演されてないと死んでしまう。それも形骸化と俗化という二つの罠から逃れながらね。散文的に言い換えるなら、決して原点を忘れることなく、かといって時流から取り残されるでもなく無論おもねるでもなく、みたいな健全な新陳代謝かな。育成が正常に機能していれば、良い意味での現在性は保たれるはずだけど。
ぽわん:最近では文化財的な建物なども「動態保存」するよね。文楽はあれの先駆的な意味合いとも考えられるわけだよね。
たぬき:前述の大阪市のHPにもある通り、橋下は三谷幸喜が作る文楽を、見もしないうちからえらく持ち上げてるけど、古典芸能にとっての新作とは、新しい観客を呼ぶための機会であると同時に、芸が形骸化しないための活性剤であって、どちらにしても古典へのフィードバックありきのもの。だから我々は、橋下一派が考える"稼げる文楽"が、文楽の形骸化・俗化を招かないよう、それこそ「保存が適切に行われるように、周到の注意をもつて」見守らなければならない。歌舞伎を例に挙げると、最初は新作の楽しさとか世話物の分かりやすさから入るかもしれないけど、結局は時代物こそその神髄だと気づく訳じゃない?そういうのって、たぶん橋下には理解できないんだろうけど。
ぽわん:7/8のツイッターでは、杉本文楽のドキュメンタリーも楽しんだと書いているね。だけど、あれはお金かかり過ぎて黒字にはなってない、つまり稼げてないはず。それに、彼が少なくとも口では大事だと言っている「庶民」には楽しめないチケット代だったよね。会場もセレブであふれていて。
たぬき:何らかのかたちで工夫して、鑑賞の機会を増やすことは大切だけど、それは基本的に営業サイドが知恵を絞ることで、芸そのものが安易な受けに堕すことだけは絶対にやっちゃいけない。例えば、イヤホンガイドを英語だけじゃなくて韓国語・中国語にまで増やすことで、文楽のバックグラウンドである儒教道徳(とそれとの相克)を共有している、東アジア文化圏の団体客へのアピールを強めるとか、そういう工夫はアリかもね。
ぽわん:こういうご時世なので、興行としてどう成立させていくかも考えないといけないものね。ただし、興行だ!と言い切って文化財保護をやめるのは間違っている。となると“二元の道”を模索するのがいいのかなあ。
たぬき:顧客獲得という点からすると、7/8の橋下のツイート「古典文楽も、文楽の技術を継承するためには必要なのであろう。しかしエンターテイメントである以上、新規のファンも増やさなければならない。二本立てでいいじゃないか。」は一見正しそうだけど、「文楽がエンターテイメントになっていない。高尚な芸術として保護の対象になってしまっていることが問題の本質だ」というのは間違い。少なくともいま劇場に熱心に通っている人間は存在しているのだから。
ぽわん:いっぱい批判を受けて「古典も」って書くようになったみたいだけど、興味ない感じが伝わるよ。わかりやすいひとだね(笑)。それはともかく、大阪の文楽劇場の入場率が5割とはいっても、それは劇場が大きいからであって、大阪だけで年間で9万人以上動員してるんだよね。もちろんもっと増えたほうがいいけど、新規のファンにおもねる余り、この9万人を失うことになったら本末転倒だよ。
たぬき:まったくだ。既存のファンの中には、文楽がもはや古典としての品格を失ってしまう危険を憂いている人はいても(ちょうど世代交代の時期だからね)、これ以上の娯楽性を望んでいる人はあまりいないと思うんだよ。現在でさえ動員力優先の演目や配役に不満が出てるというのに、これ以上新規開拓ばかりだったらコアファンを失いかねない、というかそれ以前に無形文化財としての意義すら疑われてしまう。
ぽわん:同じ7/8のツイートに、「文楽はエンターテイメントに戻るべきだ。技芸員の技術は世界に誇れる。文楽に今必要なのは、演出・プロデュースだ」「歌舞伎のように現代に合わせた演出のものもやれば、古典もやるように二本立てにするべきだ」ともあるね。
たぬき:けど、新作とか新演出って時間もお金も手間もすごくかかるもんだからそれこそ財源が要るし、従来のファンと新規のファン、両方を楽しませるとなると相当ハードルは高い。古典の良さが理解できない反動で、彼は新作とか新演出に対して楽観の度が過ぎると思うよ。要するに、いろいろと見る目がないってことだ。
ぽわん:とどのつまり、文楽の問題というのは、時間、技芸、作品などケースバイケースで、細やかに忍耐強く考えていかなければならないことなんだよね。それを橋下みたいに現場への理解もなく礼儀も敬意もないまま、YESかNOかの二者択一で判断しようとするのが、どだい無理な話。でも考えてみれば、ホントはこれって他の事柄を含む、政治全体に言えることだよね? というわけで、文楽の問題から見えてきたのは、橋下の政治家としての限界でもあるのでした!
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2011年12月29日

斎藤憐の死をきっかけに社会劇の今後を考える


社会劇の旗手だった斎藤憐

ぽわん:なんともはや、おひさしぶりですねえ、たぬきさん。
たぬき:なんでこんなにご無沙汰しちゃったかというと、あれは蝉時雨の頃・・・奥多摩にあるという伝説の地・マタタビ山を目指した我々2匹。野犬やキツネの攻撃に耐えながら、嗅覚だけを頼りに道なき道を登って行くと、そこには・・・
ぽわん:実在したんだねえ、マタタビ山・・・ 花の他にはマタタビばかり・・・
たぬき:マタタビ酒、マタタビ布団、マタタビ御殿・・・ 狂乱の日々を送る間に、気がつけば体の芯まで冷え込む季節に。
ぽわん:まだ冬毛にもなってなかった我々は、凍えながら東京へ戻ったのでした。とほほ。まあ、わたしは最後のほう、ちょこっと抜け出して東京の劇場に行ったりもしたんだけど、すぐ戻ってはマタタビ三昧の毎日だったからねえ。
たぬき:前置きは以上として、さてさて久しぶりの現場復帰は、ちょっと時機を逸してしまった感はあるけど、骨太な社会劇や歴史劇が書ける最後の劇作家とも言える斎藤憐について考えてみたいね。彼が亡くなったことは、やっぱり日本の演劇界にとって大きな損失だったと思うんだよ。
ぽわん:時流に乗っているかと言えば明らかに違うけれど、わたしたちが生きているのはまだ20世紀の影響を色濃く残した21世紀なわけで、その20世紀の諸問題をじっくりと提示した硬派だものね。井上ひさしとは違うかたちで、ダイレクトに社会を表現した。扱っている題材が明確な分、広がりっていうか幅っていうか、そういうものはなかったかもしれないけれど、演劇が社会的に何かを訴える手段であった時代もあったんだよねえ。そういう社会的で硬派な劇作家って、以前はたくさんいたね?
たぬき:戦後に限っても、木下順二を筆頭に、三好十郎、秋元松代、宮本研、福田善之・・・ 福田は健在だけど、みんな死んじゃった。「まだ坂手洋二が居るじゃない」という人もいるかもしれないけど、坂手はやっぱり山崎哲の元で学んだ人で、斎藤憐的な硬派とはちょっと違うんだよ。
ぽわん:つまり?
たぬき:要するに近代劇の枠をはみ出ているというか、アングラ的なロジック無視の飛び道具が多用されるんだよ。もちろん斎藤憐の作品にだってリアリズムを逸脱した幻想的シーンは出てくるんだけど、それは1作品の中で多くて2場面程度。そのくらいに抑えておくことがかえって効果的だって知ってた訳だよね。
ぽわん:あー、そうだねえ。わたしぽわんがマタタビ山から戻って観た『たったひとりの戦争』も、むりやり飛躍させ過ぎていて、観ていても気持ちがついていかなかったもんなあ。題材に取り組む姿勢には感心しつつ、盛り沢山過ぎるし、無理に似合わないラップやら携帯小説やらの流行(?)を取り入れて寒かったし(ぐちぐち・・・)。劇作上の飛躍って実はわたし、好きなんだけど、センス・説得力がものすごく問われるんだよね。確かに斎藤憐の書くものはもっと地に足がついている感じ。とはいえ、例外的にある種の飛躍があって生まれたのが、他ならぬ傑作『上海バンスキング』だったという気もするけどね。あれは志向の違う串田和美とのマッチングがうまく働いた例だねえ。
たぬき:うん。まあ『上海バンスキング』って、音楽を抜きにして単純に戯曲として読めば、「制度=抑圧からの脱走」と、にもかかわらず「幻と消えた自由」という、よくある左翼系ウェルメイド・プレイ。むろん以後の斎藤作品にも、音楽劇・ストレートプレイを問わず、音楽が物語を紡ぐ糸になっている作品は多いんだけど、それはやっぱり、ばらばらなものを束ねる「糸」であって、おもちゃ箱ひっくり返し志向の串田とはベクトルが正反対だからね。
ぽわん:あれはあれで絶妙だったよねえ、しみじみ。
たぬき:ともあれ斎藤憐の偉いところは、空間と時間の凝縮を旨とする近代劇の枠に敢えてとどまったこと。実際、三単一の法則が有する観客を引きつける力というのは、本当に馬鹿にならない。音楽の力とか幻想性とかは、あくまでその凝集性を助け、彩るものだったんだね。
ぽわん:うんうん。
たぬき:もちろん彼だって、初期の作品ではいろいろ実験的な試みをやってたんだけど、井上ひさし同様、年を取るごとにやっぱり堅固な劇構造ってやつの偉大さに気づいたんじゃないかなあ。ぽわんさんが言うとおり、枠組みを取り払った飛躍系芝居を成功させるのは、羅針盤なしで大海を渡るようなもんで、ほんとにリスクが大きい。当たればデカいけど正直確率は低いし、そもそも相当の才覚が要るよね。


現在進行形の社会劇とは

たぬき:と、ここまで斎藤憐礼賛の言葉を連ねてきたわたくし、たぬきだけど、実のところ、彼が終生抱き続けた制度的なものへの生理的な反感と、それと表裏一体となった完全なる自由の希求ってやつは、さすがに耐用年数が切れてしまったとも感じているんだ。これは無論、彼の演劇人生が60年安保の敗北と軌を一にして始まったという個人史的な事情に端を発している訳だけど。
ぽわん:つまり、そんな斎藤憐と、まだ今後生きて行かなければならない作家は違う、と?
たぬき:うん。要するに「制度=悪」という概念そのものが古びてしまってるんじゃないの? 最近は「制度自体をアプリオリに悪とみなすこと自体が往々にして最悪のシステムを形成する」みたいな考えが主流でしょ?
ぽわん:そうだね。制度自体に圧倒的な強度がないというか、真っ向からぶつかっていくような「体制」自体が見えないもんね。見えないだけで存在しているのかもしれないけれど。そこへいくと、坂手は仮想敵(?)を設定して闘うところが、ちょっとドン・キホーテ的でもあり、やっぱり古風だと言わざるを得ないね。本人ももちろんわかってやっているわけだけど。
たぬき:ただ、坂手が昔からやってる沖縄とか紛争地帯をネタにした芝居って、正直「助成つきで安全地帯から題材を搾取するだけの植民地主義的演劇」みたいなレッテルを貼られる危険性があるとは思うんだ。もちろん本人がいちばん自覚してると思うけど、一旦始めるとやめられないんだねえ。
ぽわん:長年続けていると、書き手にとって身近な問題から、一歩も二歩も手を伸ばさなくてはならなくなるからね。戦場ルポライターがどんどん危険地域に行くのと同じかな? つまり、意味のあることだとも言ってるわけなんだけど、わたしは。
たぬき:もちろんわたくし、たぬきもアクティヴィストとしての坂手は大したもんだと思ってる。ただ、ひとつの事件に関してデマも真実もいっしょくたになって膨大に流れてしまうこのネット時代に、ああいうアプローチがどこまで有効なのか疑問を抱かずにはいられないねえ。彼は一本の芝居に「隠された真実」と「変にファンタスティックなユートピア」と同時に詰め込むのが好きだけど、それってネット上のコミュニティの似姿でしかない気も…。
ぽわん:じゃあ21世紀になって考えられる社会的表現ってなんだろう? そもそも、すべての演劇が、言ってしまえば社会性をもっているとも言えるわけだけど、ここはひとつ、斎藤憐的な狭義の社会劇について考えようよ。
たぬき:えーと、彼はもっぱら歴史劇という形で社会問題にアプローチした劇作家だから、まずその線で考えてみよう。鄭義信とか青木豪とかの自伝ベースの芝居は、昭和という時代を笑いあり涙ありで描いたという点では、井上ひさし=斎藤憐ラインにつながるようにも見える。けどやっぱり違う、というかどこか食い足りない。それはつまり、井上戯曲で言えば「諸悪の根源は天皇制だ!!」斎藤戯曲なら「制度は抑圧だ、自由万歳!!」に相当する、切実な叫びがないからなんだよね。やっぱり、共感するしないとは全く無関係に、観客って何らかの強烈なメッセージを受け取りたい訳。家族愛とか人間讃歌で終始されても物足りないんだよ。
ぽわん:まあ、鄭にしても青木にしても愛や讃歌だけじゃないと思うけど、悪や批判も個人史的な感じで、普遍的な広がりがない感じだからね。
たぬき:うん。例えば、バブル経済とその崩壊なんかも、いい加減劇作家個人の体験の延長線上なんかじゃなくて、もっと深い、あるいは広いパースペクティヴを持った歴史劇として取り上げるべきなんじゃない? だって、東京裁判の速記録を元に構成された木下順二の「審判」第一部が上演されたのが、裁判終結から数えて22年後。もうすぐ終わろうとしてる今年2011年も、プラザ合意から26年、総量規制から数えてすら早21年なんだからね。
ぽわん:考えてみたら、わたしたちの寿命なんてとっくに尽きてるねえ。
たぬき:いや、そこはほら、マタタビの威力で・・・。


「何を書くか」と「どう書くか」の関係

たぬき:歴史劇じゃなくて、現代を直接扱う場合なんだけど、坂手的な告発劇の衝撃度が落ちてきてるとするなら、やっぱり永井愛とか渡辺えりみたいに、身近な怒りに端を発しつつもそれを1本の娯楽劇に仕立てるってやつがいちばん、社会的な訴えかけとして有効、ってことになるのかな。「制度=悪」という斎藤憐的大風呂敷じゃなくて、「考えれば考えるほどコレって問題だよね」みたいな、やや射程距離の短いタイプ。
ぽわん:それをたとえば、今の若い世代がやるとしたらどうなるかな? 今年のフェスティバル/トーキョーの公募アワードを受賞した捩子ぴじんなんかは、コンビニでアルバイトする自分というものを描いたけど、まんま過ぎて演劇としてどうか?という議論も。もちろん例外もあるけど、今評価されている作家のおおまかな傾向として、外はどうでもいいから自分の世界だけをひたすら構築したいっていうタイプと、ひねりがなさ過ぎと言われるくらいにそのままずばりなタイプと、分かれている気もする。若い作家の力量からすると、なかなか歴史的な文脈も踏まえ、政治的な批判や社会への鋭い眼差しも感じさせつつ、フィクションとして豊かなものを作るっていうのは、端的に言って難しいのだろうけれども。
たぬき:年齢は少しいっちゃうけど、松田正隆なんかは堂々たる前衛仕立てで健在だし、確かに若い人のドキュメンタリー風味の今様報告劇みたいなのは増えてきたねえ。でもさ、根本的には社会劇って、マスに届いてはじめて機能する訳で、そういう意味でも、斎藤憐が自負してたウェルメイドな職人芸アプローチってやっぱり大事じゃない?
ぽわん:それが今の作家の多くにとって、難しかったり興味がなかったりするから、少ないってことかなあ。最近では岡崎藝術座が移民や国家について扱ってたね。内容にはちょっと不満が残るというか、もっと問題の所在をしっかりえぐってほしかったし、身体や空間の可能性を探求してほしかった・・・と、不満も残るけど、引き続き進めていってほしい方向性ではあるかなあ。
たぬき:うん。「掘り下げろ」は、いくら強調してもしすぎることはないね。とにかく資料集めと読み込み、あと、取材には手間をかけないと。それで思い出したけど、平田オリザも下調べの重要性については強調するところだよ。でもここだけの話、「何を書くかは問題とされない。いかに書くかだけが問題とされる」という、彼が切ってみせた大見得の悪影響って大きかったと思うんだ。あのせいで「何を書くか」がひどく軽視されてしまった。そもそも、社会劇って「何を書くか」ありきじゃない?
ぽわん:内容と形式の問題っていうのはどの芸術ジャンルにも言えることだね。でもさっきも言ったように、「何を書くか」だけだと、そのまんま過ぎるんだよ。「何を書くか」と「どう書くか」。さじ加減が難しいけど、わたしとしては両方にこだわりたいかな。
たぬき:要するに、「言いたいことは何か」と「それがどのくらい表現として完成されているか」の両方を問うという、至極当たり前の話だよね。
ぽわん:そう。若い創作志望者は往々にして「意余って力足りず」状態だけど、だからと言ってこちらとしては大目に見る訳にはいかない。仮に彼らの修練が不足していたのなら、観客の貴重な時間とお金を使わせてしまった以上、批判されても甘んじて受けて次に行かなければならないね。なんでこんな言わずもがなのことを言うかというと、今の若い作家って、批判されるとムキになって、しかもブログやツイッターやインタビューで「むかつく」とか言うから、批判しにくいんだよね。
たぬき:確かに、作品上でもツイッター上でも、「オレはこういうことが言いたいんだー分かってくれー」みたいな感じの人が増えてきたねえ。それだけじゃ作品としては無価値なのに。
ぽわん:もともと作家もそういうことを言いたくて、ブログやツイッターがいいツールになったということかもしれないけど、できれば作品で、ダイレクトにではなく観客それぞれの問題意識に照らし合わせて考えられるような感じで豊かに語ってほしいね。
たぬき:我々こそご意見無用の言いたい放題状態だけどね…。
ぽわん:批判的な意見が言いにくい空気だから、わたしたちだって過激化しちゃうんだよね。でもだから、わたしたちみたいな意見も、虫がいい言い方かもしれないけど、作り手側もポジティブに参考にしてほしいんだよね。むかつくだろうけどさ(笑)。ってことで強引だけど、来年の演劇シーンが、たくさんの意見でより豊かになることを祈ってます!
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2011年07月13日

演劇界のオピニオンリーダーたちの偏向を糾す (あるいは流行についていけない中年ネコの嘆き!?)

ゼロ年代と90年代の関係性とは?

ぽわん:なんだかひさしぶりの更新になっちゃったね。
たぬき:6月はわれわれネコにとって換毛期だからね。
ぽわん:え、そういうことなんだっけ!? ・・・ともあれ、この間、最近の演劇についてつらつらと考えていたんだけど・・・。
たぬき:私たちの年代はメインターゲットから外れつつあるんじゃないかという不安はあるねえ、正直。
ぽわん:たとえば以前も書いたことだけど『わが星』好評の理由はいろいろあるんだろうけど、単体じゃなくて現象として考えると、ある種の一派をなす人達が、わいわいと神輿をかつぐみたいに持ち上げていている印象があるんだよね。
たぬき:「新サブカル系観客層」みたいなのが出来つつあるよね。90年代サブカルを引っ張ったのが松尾スズキとKERAだとするなら、10年代の小劇場界のフィクサーになろうとしているのが、いきなり単独名指しでナンだけど、言っちゃうと佐々木敦。『わが星』とか快快のDVDを出してるのは、彼が主宰してるHEADZレーベルだしね。ちょっと近いところにいるのが、ダンスの桜井圭介かな?
ぽわん:年齢でいうと、桜井圭介が60年生まれ、松尾スズキは62年生まれ、KERAは63年生まれ、佐々木敦は64年生まれ。ほぼ同世代なんだけど、KERA、松尾の二人が実際に創作活動を行って90年代のサブカルを牽引し、桜井は遊園地再生事業団の音楽を作っていたのに対し、佐々木は今、ゼロ年代を扱っていることと、彼が現場の人ではなく幅広く演劇を観ている人でもないっていうのは大きな違いだね。そして、佐々木がHEADZで出している雑誌『エクス・ポ』が、ゼロ年代演劇礼賛の発信源だね。
たぬき:佐々木って、80年代にシネヴィヴァン六本木でモギリのバイトをやってたことがあるんだけど、今彼がプッシュしてる小劇場周辺のややスノッブな雰囲気には、当時のWAVE文化に近い部分がある(あれよりずっとカラフルだけど)。抽象語を使って、何か立派なこと言った気になってる感じとか似てるよね。あと、WAVEが他の外盤屋に比べて利益目標が極端に低くて、しかもタワーやHMVみたいに大規模展開しなかったことも(要するに敢えて言っちゃえば緩いメセナだったんだよね、あれって)、最初っから助成ありきで、大劇場への野望なんてこれっぽっちも抱いてない今の小劇場シーンと重なる。
ぽわん:桜井も作曲から、気がついたらちんまりした稚拙なダンスを「コドモ身体」と命名したりする書き手になってた。あれもわざわざ小さいものばかり褒めてたなあ。別にそのこと自体、悪いことでもないんだけど、そこも松尾スズキやKERAとは違うね。彼らは自分のやりたいことを、より大きな劇場で行い、商業的にも一定の成功を収めているからね。それに対し、ゼロ年代の演劇は自分たちの小さな世界にこもっていて、広がったりより多くの人に見せたいみたいな欲望を感じない。あ、ちょっと話がずれたけど。というか、そういう世界を、佐々木や桜井をはじめとするひとたちがもてはやすことで、ファンを増やしているという、ある種の分業が行われている気さえするほど! 佐々木は80年代後半からの小劇場ブーム、とくに野田秀樹の「夢の遊眠社」や鴻上尚史の「第三舞台」についていけなかったみたい。でもって最近、チェルフィッチュとかを観て演劇の面白さに引き込まれたらしいよ。あまりにわかりやすくて笑っちゃうけど、『吾妻橋ダンスクロッシング』の企画として佐々木敦×岡田利規×桜井圭介鼎談も行われているね。
たぬき:要するにクラブカルチャー的なところがきっかけな訳だ。しかし、ダンスをこれまでと違うコンテクストで語ってきた桜井もさることながら、映画〜実験音楽〜文藝と遍歴してきた佐々木が新たに演劇をターゲットにするのは、なんだか東浩紀とショバが重ならないことを意識してる感じで可笑しいね。彼は「そんな意図はない、単にcutting-edgeな事象にしか興味が湧かないだけだ」みたいなことを言うんだろうけど(笑)。

「演劇全体はどうでもいい」のか

たぬき:勢いで佐々木についてちょっと言っちゃうとね(笑)、サブカルのイデオローグを目指す彼にとって、東浩紀と共に重要なのは蓮實重彦。駆け出しの頃の映画評なんかに一目瞭然だけど、要するに初期は完全に単なるエピゴーネン。今もタームとかにその名残があるけれど、フランス文学者でありながら映画評論界の一大権威となった蓮實が、東と並ぶ彼のロールモデルなのは間違いない。ただし佐々木にはテニュアという堅固な基盤が無い訳で、だから彼が最終的に学んだことは、映画に殉じることでもアカデミアで栄達することでもなく、その煽動家的側面。つまり、ペダントリーをちらつかせて一種の権威になることによって、興行側も観客もまるごと自分の影響下に収めるという戦術だね。
ぽわん:なるほど。それは今、実行されつつあることだね。
たぬき:これが、流行りものを追っかけるだけのコラムニストより一段上手であると同時に、なんとも胡散臭い部分。そしてテニュアを持たない彼は、まさにそのコラムニスト的に、つまみ食いというか焼畑農業方式で未踏の領域を探し続けることで、自分の商品価値をつねに新鮮に保つ必要がある。
ぽわん:つまり、佐々木は今、つまみ食いに選んだのが、世間的にはマイナーな小劇場の、さらに一部の演劇である、と?
たぬき:そうそう。言うまでもなく小劇場って、たとえ滑舌が悪かろうが猫背だろうが、新鮮さとか素の魅力とかでなんとかなるという面がある。その代わり、あっという間につまらなくなるけれど。「この手は長持ちしない」とか「この方法論には伸び代がない」とか、そういうことは彼は考えないね。
ぽわん:つまり、演劇の業界の人じゃないから、つまらなくなったら離れていくだけのことなんだよね。そこが私ぽわんもすごく引っかかっているところなの。演劇を広く観ない人が語るな、なんてことを言うつもりは毛頭ないけど、それだけが演劇であるかの印象を与え、観客に偏りを作ってしまっている。それだけの影響力が、演劇の批評家たちにないことも問題なのかもしれないけど、はっきり言って、一つのものをじっくり深く観ずにぱっと面白いことを言うのは割に簡単だし、目を引き易いから、ずるいとも思う。結果、ほかの演劇については考えず、佐々木をはじめとするオピニオンリーダーが褒める一部のものしか観ない観客が増えている気がする。いやまあ、そのこと自体は佐々木のせいじゃないかもしれないけどね。
たぬき:うん。新参者は当然歓迎すべきなんだけど、あるムーヴメント内で起きてることって必ず玉石混淆なんだから、舞い上がってる人々を横目に、玉と石の区別をきちんとしたパースペクティヴから評価できる演劇の専門家がいないことのほうがもっと問題だよね。それにしても、ほら普通の演劇ファンって大概「伝説の××に間に合わなかったコンプレックス」があるけど、佐々木には「遅れてきた人間」意識みたいなのが全然ないよね。よっぽど自分の感性ってやつに自信があるのかね。
ぽわん:というか、最近になって岡田利規(チェルフィッチュ)、柴幸男(ままごと)、藤田貴大(マームとジプシー)・・・といったものに、自分の感性と近いものをみつけて喜んでいるみたい。本人もこれらは平田オリザに始まる形式論の系譜だというようなことを指摘してるね。
たぬき:それは一目瞭然だからね。でも御本尊の芝居は大して好きじゃないんじゃないかな(笑)。
ぽわん:そうかも(笑)。ともあれあの手の人達って、演劇なりダンスなりが目的じゃなくて手段になってるって感じがするよね。
たぬき:そうそう。宮沢章夫〜いとうせいこう〜桜井〜佐々木あたりは、言わばサブカル版岩波文化人として緩く連帯してる感じ。党派性には党派性をもってするしかないのだとすると、それに対抗する右派というか“サブカル文春”が必要なのか!? いや、サブカルはそもそも文春的なものとは相容れないのか・・・?
ぽわん:われわれが“文春的連帯”をしても明らかに力不足だけど、まあ、こっそりがんばりますかねえ(笑)。

右も左もひれ伏す真の才能、求む!!

ぽわん:さて、ここで、そこまで御神輿的に褒めてるのかぽわんが納得できずにいる舞台について述べるね。ままごと『わが星』でしょ、あと、マームとジプシーの作品とかロロの作品とか。いずれも、昔ながらの台詞や戯曲構造の巧みさ、基本的かつ重要な演出技法などをなおざりにしたもので、音楽的には今風なものも(全部じゃないけど)多いから、音楽畑の佐々木と桜井にも共感しやすいのかな。
たぬき:とはいえ、佐々木が青山真治監督の『GGR』を褒めているのは意味不明というか、いかに演劇の基礎がわかっていないかの証左だよ。あの舞台は、とにかく形になってなかったから。台詞劇なんだから本来は舞台の進行に従って登場人物の心理とか関係性が刻々変化するんだけど、それを舞台の動線や役者同士の絡みで視覚化するという作業が全然やられてない。それって演出の基本なのにね。
ぽわん:うん、あれを褒める佐々木って、やっぱり、演劇についての基本的な素養がないと思ったよ。
たぬき:あと、1幕と2幕の舞台転換で書類を撒いていたけど、紙とか花って、撒くことで舞台の景色が変わらないと効果が上がらないんだよね。あの場面って部屋は最初から散らかってる訳だから、分かってないよなー、としか言いようがなかったね。オープニングの意図不明なサックス演奏に至っては何をかいわんやという奴だ。
ぽわん:冒頭の中華料理店の装置からして変だったよね。セットが動くんだけど、それが立体的じゃなくて・・・あれは映像的、なのかなあ?
たぬき:あれって要するに、映画と同じ2時間休憩なしにしたくて、そのせいで1幕の中華料理店のセットが割を食ったってだけだと思う。つまり、ああしか動かせるスペースが残ってないんだ。しかし、プロローグだけとかなら兎も角、1幕全部を黒幕でエリア半分に区切りっぱなしというのは素人としか言いようが無いねえ。
ぽわん:マームとジプシーやロロは典型的なゼロ年代演劇。作り手は20代前半で、すごーく閉じた世界観が特徴なんだけど、佐々木はあれを褒めて何がしたいのかな。ゆとり世代の若者は褒めて伸ばすってか? そんな教育者的使命感、彼はもってないと思うけどね。
たぬき:ごめん、もうその辺りの劇団はもう端からターゲットじゃないと思ってて、全然観てないんだ(笑)。
ぽわん:そっか。ちなみにゼロ年代ではない人で言うと、佐々木は飴屋法水が好きみたい。少し前の『おもいのまま』を佐々木はツイッターで「物凄い」と褒めていて、「いかなる企画、いかなる内容であれ、僕はもちろん凄いに決まってると思っていたが、しかしいつも飴屋さんは、その遥か上にいってしまう」と大絶賛。ちなみに、ツイッターの140字で揚げ足とるのもおとなげないかもしれないけど過去に「リスペクトにも二種類ある」として、全肯定と部分肯定を挙げて、「僕は後者しか出来ない。というより前者はリスペクトではない」と書いているんだけど、そのスタンスと飴屋礼賛は矛盾しないのかな?(笑)
たぬき:そのくらいは大目に見てあげなよ(笑)。青山とか飴屋とかの固有名にひれ伏しちゃうのは、要するに蓮實が提唱してた作家主義の軛から逃れてないってだけだろうね。で、飴屋演出の『おもいのまま』は具体的にどうだったの?
ぽわん:とにかく中島新とかいう人の書き下ろし戯曲が稚拙過ぎた! 要はタイトル通り、思いによって、状況は変えられるんだということを、とある秘密をもった夫婦のもとを侵入者が来るという設定はそのままに、前半/後半で同じ状況を描きながら少しずつ差異を出して行くんだけど、その秘密というのも単に性的志向だったりとひねりもなく陳腐だったり、前半と後半で解消されないままの謎かけもあって、あきらかにだめだめな戯曲だった。ということは、それをいかに役者が頑張っても、飴屋が音や光をかっこ良く使っても、舞台全体としては駄作だよ。なのに佐々木は「飴屋、飴屋」って双手を上げて絶賛してて、ツイッターでもほかのひとが「佐々木さんが褒めているから観なきゃ」って言ってたりしたよ(ため息)。そういうのを見ると、やっぱり、演劇がわかってないのに影響力があって嫌だなあって感じがしちゃうんだよね。桜井圭介も同じで、ダンスや演劇の一部だけを愛して、あとは興味なしっていう感じがするんだ。まあ佐々木よりはいろいろ観ている印象もあるけど。
たぬき:まあ、彼らのような、オルタナティブな視点がない人達がオピニオンリーダーになっちゃっているのは残念だけど、ゼロ年代の内輪な自閉的表現自体に対しては、今の若者にとってそれがリアルなのならそうですかと言うしかないさ。私たぬきには正直つまらないけど、それを言うなら、80年代の自分探しも90年代の露悪性も、当時の中年世代にはそれぞれ共感不能だったに違いない。ただ、二昔前には「やってることは学芸会だなと思うんだけど、やっぱりあの野田ってのは凄い役者だから、客席では浮いてるけど観に行ってしまう」みたいなことを言う年配の演劇愛好家はいたよね。すれっからしの中年を引きつける、そういうスペシャルな存在が今の小劇場にいるといいのにねえ・・・。
ぽわん:そうそう。だからまあ極論から言えば、今たぬきさんが「岩波派」と命名(笑)した人たちが褒めていても気にならないくらい、「文春派」!?も褒めたくなるような大きな才能がいないってことなんだよね。もちろん、褒めて育てるっていう現代教育は大事なのかもしれないけどさ(笑)。
posted by powantanuki at 12:26 | TrackBack(0) | 演劇論ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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