2013年05月14日

小谷野敦『猿之助三代』のびっくりな内容その2

事実にこだわらない読み物のための「事実」!?


たぬき:さてさて「1」の続きですよー。ぽわんさん、もうちょっと付き合ってね。
 今回は基本的に事実誤認しか言及しないことにしてたけど、P184-5の 「復活上演や通し上演は、ちょうどクラシック音楽における、十八世紀の古楽器での演奏や、小編成での演奏が、アルノンクールのモーツァルトのような例外を除いて成功、継続しない」は、あまりにトホホ度が高いので触れておこうかな。日本を含め世界中どこでも古楽器演奏は相変わらず継続して盛り上がってるし、モダンオケでさえ、古典派を演奏するときは弦楽器の数を思いきり削って演奏するのが普通になってる。演奏はもちろん録音だって、かつてのメジャーレーベルが過去の音源をまとめて投げ売りするばかりの中、新譜としてはいちばん勢いのあるジャンルだよー、と指摘しておこうかな。それが藝術的に成功しているか否かは、例えば近年の録音で言えばミンコフスキのハイドンやシューベルト、ブリュッヘン2度目のベートーヴェン交響曲全集あたりを聞いても「不成功」と感じるのなら、ああそうですかとしか言いようが無いね。私たぬきはどれもすばらしいと思ったけれど。
 P186。「義経千本桜 河連法眼館(四の切)」に言及しつつ「人形浄瑠璃を観に行くと分かるが、一つの段が、途中で、太夫と三味線が交替するので、「序」「中」「切」という風に分けるのだが、これはだいたい、太夫が多くなり過ぎたため、一人で全部語ると何も仕事のない太夫ができてしまうので、無理に分けたもので、別に藝術的理由で分けているのではない。」とあるんだけど、ここはなかなか傑作だねえ。江戸時代からずーっと、一つの段の端場と切場で太夫が交替するのは当たり前。そもそもここで話題になっている「四の切」からして、初演時すでに竹本錦太夫→竹本政太夫→竹本島太夫の3人で語り分けたんだよね。だのに小谷野氏曰く「一人で全部語ると何も仕事のない太夫ができてしまうので、無理に分けたもので、別に藝術的理由で分けているのではない」か、はあ…
ぽわん:ええと、これはきっと思うところあって書いているんだろうと考えると、もっときちんと根拠を挙げてほしかったところだねえ。
たぬき:うん、古浄瑠璃はどうやら一人で語られてたらしい。もしそれと比較してるのだとするなら、一段を語り分けるようになったのは、「藝術的理由」以外の何物でもないよ。鳥越文蔵の言葉を借りると、いわゆる三大名作が完成した所以は「太夫・三味線弾き・人形遣いの人たちに人材が揃っていたということになる。名人・上手が沢山いると、それぞれの幕が充実する。いきおい各幕が長くなる。一人の単独作では、全体を統括することがむずかしくなり、分担執筆すなわち合作となっていった。作者にも名作者が何人もいたために合作制が考え出され、演技者と協調して操り浄瑠璃全体を隆盛に導いたのであろうが、鶏と卵と同様、どちらが先かは判然としない」のだからね(引用はhttp://www.keenecenter.org/sen/bunzo_torigoe_japanese_text.pdfから)。
 次は比較的小ネタ。P187に「猿之助がやるようになってから、宙乗り狐六法ばかりになって」とあるけど、澤瀉屋以外で宙乗り狐六法をやるのは、当代猿翁に教わった当代海老蔵だけ。P201。「猿之助はこの後(たぬき注:1973年の当代菊五郎の襲名後)、自分の仲間以外の襲名披露には出なくなる」ってあるけどそんな訳がなく、81年の現歌六・現時蔵・当代又五郎の歌昇襲名@歌舞伎座は当時の"仲間"と言えなくもないけれど、当代藤十郎の鴈治郎襲名@91年12月南座、当代松緑の襲名@02年10月御園座の口上に列座してるよ。P202 の「劇評家に何が起こったか」は「劇評家に何が起ったか」。P205に「いったい、六十、七十になって、女形が若い女を演じるなどということがあったのか」とあるけれど、当然ながらいっぱいあった。還暦過ぎても娘役なんて当たり前で、七代目宗十郎とか先代梅玉あたりは七十過ぎても若い女の役をやってたし。次のP210、「バレエのジャン=ルイ・バロー」には思わず吹き出してしまった。フランス映画か西洋演劇のどっちかに関心があるなら、絶対こんな間違いしない。小谷野氏は本人の言う事を当てにしないそうだけど、彼の自伝のタイトルを信用するなら「私は演劇人である Je suis un homme de théâtre」ですよー。
ぽわん:タイトルすら当てにしないということになると、カオスだねえ…。
たぬき:あと、P211 「吉祥寺に前進座劇場が開幕し」とあるけど、「開場し」だよね…
 P214には「(金鶏が)日本では演出と報道されたが、のち再演された際のものを見ると、「衣裳・舞台装置」で、猿之助がオペラの「演出」までするわけはないから、これが正しいだろう」とあるけれど、現猿翁はちゃんと演出してるよー。たとえ楽譜が読めなくても、「オペラの演出」ってやつにはいろんな方向からのアプローチがあるからね。
 もっと可笑しいことがあってね。小谷野氏の文章は「しかし、音楽的にはさほどではないオペラが、猿之助というより、猿之助と歌舞伎衣裳方の力で作ったものが、視覚的に優れた効果を挙げていたことは確かだ」と続くんだけど、この「金鶏」、衣裳は毛利臣男(+桜井久美)なんだけど、毛利臣男も桜井久美もそれまで歌舞伎の衣裳を担当したことはなくて、逆に「金鶏」をきっかけにスーパー歌舞伎の衣裳を担当していく訳だから、小谷野氏が言うように「歌舞伎衣裳方の力」で作られた訳ではないんだよね。とほほ…
 次もちょっとアレなやつ。P215に「「良弁杉由来」をやっているが、これは額田六福(一八九〇ー一九四八)作の、本来つまらない芝居」とあるけれど、これはCiNiiか何かで「良弁杉由来」を入れて検索かけたんじゃない限りやらかさない、超初歩的ミス(http://ci.nii.ac.jp/ncid/BB03835745/かな?)。「良弁杉由来」はもともと文楽の新作で、作曲が三味線弾きの二代目豊沢団平、作詞は某文士が書いた長々した奴を団平の奥さん・加古千賀が補綴したもの。額田六福の手は入ってないと思うよ、だって彼は明治20年の初演時には生まれてないんだから!!! 「2013年5月17日追記:小谷野氏ご当人の発言として「「良弁杉由来」を額田六福作と勘違いしたのは、サイニイで検索したからではなくて、まさにそこに出ている国立劇場公演を観に行って、「冬木心中」の方の作者である「額田六福」と「良弁杉」が頭の中で結びついてしまったからである。」とのコメントを頂戴しました。」
 P219の「新派の水谷良恵」は当然ながら水谷良重、P226の「九六年(中略)十月、国立劇場で南北の「四天王楓江戸粧」を復活通し上演したのが、猿之助最後の復活狂言になった」とあるけれどこれも間違いで、2003年の歌舞伎座「四谷怪談忠臣蔵」と、同年に国立劇場でやった「競伊勢物語」も復活通し狂言。前者は「双絵草紙忠臣蔵」の圧縮版だけどね。
 さてさて、さっき例に挙げた著者自筆の正誤表http://homepage2.nifty.com/akoyano/teisei.html#ennosuke、現在のところ11項目だけど、われわれのエントリーの後で、増えるのかな? それともそのままかな?
ぽわん:でもさあ、素朴な疑問なんだけど、どうしてこんなに間違えるのに、こういうデータ系(?)の本を書くのかなあ? そこを重視していないのだとしたら、もっと違う書き方をすればいいのに。 
たぬき:本人とか関係者には基本的に取材しないで作ったらしいからね。そのせいで、上演データとか、先代猿翁の追悼本『猿翁』とか、現猿翁が前名時代に書いた『猿之助修羅舞台』の引き写し率がものすごく高い。この本より『猿翁』や『猿之助修羅舞台』を読んだほうがずっと面白いよ。だんだんこの本の存在意義が分からなくなってきた…
ぽわん:この本って、一見、事実をもとにしているように見せかけて、事実にこだわらない読み物なのかな?? としたら、それがわかるような本の出し方をしてほしいよね、昔流行った「超訳」じゃないけど。…結局、我々(というより、たぬきさん)は、彼の正誤表に多大な貢献をする、ことになるのかなあ??
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2013年01月01日

十八代目中村勘三郎がやったこと、できなかったこと

ぽわん:昨年の演劇界のニュースといえば、十八代目中村勘三郎の訃報だねえ。
たぬき:歌舞伎界の希望の星だったからねえ。我々ぽわん&たぬきも落涙したものだ。
ぽわん:演劇には冷たいマスコミだけど、さすがに今回ばかりは連日、大々的に取り上げていたね。でも、勘三郎の良いところばかり扱われているから、ひねくれ者の我々は敢えてその「功罪」の「罪」の部分も考えるとしようかねえ。
たぬき:世を去った人が理想化されるのはお定まりとは言え、我々ぐらいは、ねえ。実際、彼の演劇活動すべてが絶賛に値するものでなかったのは事実。十八代目中村勘三郎なる人物を過度に美化するのは間違ってると思うんだ。


歌舞伎のメインストリームではなかった!?

ぽわん:勘三郎は歌舞伎で、立役と女方と両方やったけど、マルチプレーヤーというわけではなかったね。時代物の重い役はニンじゃなかったし、色悪とかつっころばしとかも違ったし。
たぬき:向き不向きははっきりあったと思う。彼のガラに似合う役柄は案外限定されていた。『忠臣蔵』ならまず勘平。これは間違いなく日本一、つまり世界一!
ぽわん:立役では判官がギリギリかな? 由良之助はいつか観てみたかったけどねえ。女方ではお石と戸無瀬をやったけれど。
たぬき:襲名興行での『一條大蔵譚』は、「オマエ、作り阿呆ライフを楽しみすぎだろ!」みたいな感じだった。『盛綱陣屋』の盛綱に至っては、はっきり良くなかった。少なくともあの時は、彼の限界を見たと感じたよ。
ぽわん:再び演じて、その印象を覆してくれたらよかったんだけど、その機会はなかったね。同じ「うまい歌舞伎俳優」ながら、ニンにない役でも知的に構築して自分のものにする仁左衛門とは違って、勘三郎の上手さは、魅力を見せることにある。その魅力とは何より、彼そのものの魅力だから、その魅力とそぐわないものがあったのはしかたのないことかもしれないね。
たぬき:うん。役に自分を適合させて作り込むのが上手い仁左衛門とは違ったね。かといって、ひたすら我流に持ち込んで「俺ワールド」を作る海老蔵とも違ったけど。勘三郎が仁左衛門や玉三郎と仲が良かったのは、芝居が大好きという共通点は持ちつつ、お互いのニンの違いがはっきりしてて、出来る事出来ない事がはっきりしてたからかもね。玉三郎とやった『籠釣瓶』は、まったく相容れない次郎左衛門と八ツ橋が、うっかり知り合ったばっかりに生まれた悲劇という感じで面白かった(笑)。
ぽわん:語弊があるかもしれないけど、この人達は皆、人気歌舞伎俳優だけど、厳密に言うと皆どこか、歌舞伎のメインストリームから外れていたのかもしれないね。
たぬき:そうだね。 歌舞伎には大きく分けて吉右衛門劇団系と菊五郎劇団系があるわけだけど、中村屋は吉右衛門系から逸脱して独自の道を探っていった。好きでやっていたことだとは思うけど、結果として、中村屋は自分たちだけで客を呼ばなければなかったということはあると思う。
ぽわん:それが発展して結実したのが、コクーン歌舞伎や平成中村座での活動ということになるのかな。メインストリームでなかったが故に自分でメインストリームを切り拓いていこうとしたのかもね。


観客を愛し愛されるあまり・・・

たぬき:客席に媚びるクセがあったのも、勘三郎の特徴だね。正直「そういう媚び方はしてほしくない」という瞬間はいくつもあった。
ぽわん:お約束〜なおふざけとか、予定調和的だったり、あるいは劇全体のバランスを崩していたりしたよね。そこもファンには愛されたんだけどね。
たぬき:主役を食ってしまっていたりとかね。10年前の「源氏店」の蝙蝠安なんて、仁左衛門の与三郎に玉三郎のお富という鉄壁コンビなのに、蝙蝠安の勘三郎の一挙手一投足に目が行っちゃうんだからね。あれはやっちゃいけないよ(笑)。
ぽわん:良くも悪くも、引き立て役として縁の下に回るということができなかったね。何を演じていても観客は常に彼を観てしまうし、本人も観られる自分を痛烈に意識して演じていた。
たぬき:それで思い出したけど、踊りの出端で、客席をねめ回すのは、ひどく嫌な感じがすることもあった。それは、岳父芝翫とは似ているようでまったく別のものだったよ。芝翫のねめ回しは「いいですか六代目直伝の私の踊りを皆さんよく観ておかないと損ですよ」なのに対して「僕勘三郎! みんなに会えて嬉しいよ! 今日は僕の踊りを楽しんでね!」という感じ。「いやそれって舞踊にはいらない愛嬌だよ…」と思ったものだ。
ぽわん:(苦笑)でも、そんなドヤ顔がまた可愛かったんだけどね・・・!
たぬき:踊りで言うなら、坂東三津五郎と組んだときの名コンビぶりは言うまでもないけれど、そこでも二人の違いは際立っていたね。坂東流の家元である三津五郎が楷書の踊りなのに対して、勘三郎は草書。彼の個性が何より味わいになっていた。二人が名コンビになっていたのは、有り体に言って、二人ともに身長の低さと引き換えに手に入れたキレの良さがあったということだよね。
たぬき:芝居での三津五郎の口跡がいつも明晰なのに対し、勘三郎はたまにモシャモシャした言い回しになっていたのも対照的。ヒとシが逆になる江戸言葉の使いこなしは見事だったけど。
ぽわん:江戸言葉は意識して使うようにしてたんだよね。だから、言葉に対する意識は高かったとも言える一方で、芝居によっては、微妙なニュアンスよりも、役者・勘三郎としてのセルフイメージのほうが勝ることもあったね。本人にはそのつもりはなかったかもしれないけど。
たぬき:愛されるというのは怖いことで、その人気が彼を支えたのは間違いないけど、もしかしたら、演技を高める上での障壁にもなっていた可能性はあるね。確かに、世話物ではともするとブチこわしになりかねない逸脱の危険を孕んでいた。『身替座禅』とか『棒しばり』とかの松羽目物でも、やり過ぎだと思うときは多々あったね。


新作出演&プロデュース

たぬき:勘三郎は『浅草パラダイス』シリーズとかの現代劇もやったね。面白くなかったとは言わないけど、『浅草パラダイス』は、歌舞伎の世話物では逸脱を好き放題楽しんでいた勘三郎が、まったく別種の天才・藤山直美の天衣無縫のアドリブに、なす術も無く振り回され敗れ去る姿がいちばんの見ものだった。
ぽわん:敗れ去っていたのか〜(笑)。
たぬき:ごめんなさい勘弁してください〜みたいになる感じが面白かったよ(笑)。『浅草パラダイス』の面白さって、藤山直美が勘三郎なり柄本明なりの役者をどれだけ本気で振り回すかにかかってたところがあったから。
ぽわん:『桜姫』の現代版では、ごろつきの役だったけど、似合っていないところをがんばっていたという感じかな。まあ普段はやらないような役どころをがんばる勘三郎を観るのも楽しくはあったけどね。そもそも、あの企画自体、勘三郎なしでは実現しなかっただろうし。
たぬき:そうだね。多くの場合は出演もしつつ、そういうプロデューサー的な役割を果たしたからね。彼が歌舞伎の枠をはみ出た活動をして、本業たる歌舞伎に、観客とクリエイターを連れて来たことは間違いない。
ぽわん:野田秀樹、串田和美、渡辺えり、宮藤官九郎といった作家の新作を上演したのは大きかったね。すべてが成功したわけではないけど。というより、新作では『野田版 研辰の討たれ』以外はいまひとつだったけど。
たぬき:『野田版 研辰の討たれ』ですら、再演時での色褪せ加減といったらなかった。
ぽわん:えー、わたしは再演でも楽しかったけどなあ。
たぬき:傑作って何度見ても発見のあるものだけど、あの再演では既視感こそあれ新しい発見なんて何も無かったからね。
ぽわん:まあ一度観て十分に伝わったせいもあってか、新たなものは確かにそんなになかったかもしれない。それだけわかりやすいというのも、いいことだと思うけどね。それより『野田版 鼠小僧』や『野田版 愛陀姫』の、期待はずれだったこと!
たぬき:箸にも棒にもかからない駄作だったね。まあ、古典が確立してる世界で、新作というのは失敗覚悟でやるものだから、やる価値はあったと思うけどね。
ぽわん:それより、わたしは勘三郎が、新作にすぐ洋楽を入れたがったりミュージカル風のものを入れたりしたところに、西洋コンプレックスにも近い価値観を感じていたかな。あと、彼にとっての海外というのは欧米だったし、それでいて、海外公演の観客の多くは現地の日本人とかわざわざ日本から出向いたお客さんが多かったというし、そういう意味でもちょっと「お山の大将」だったねえ。
たぬき:それはしょうがないよ。応援したい日本人もいっぱいいただろうし、オペラとは違って、演目も人材もユニヴァーサルじゃないんだから、要するに他国の人間にとっては民俗芸能でしかないわけだし。勘三郎自身はイスラム圏とかでもやりたかったらしいけど(これは唐十郎の影響かな)、赤字前提でノーギャラに近い公演を打つことはマネージメント側が許さない。だから、ペイするためには、スポンサーがついたり高いチケット代でも公演が打てる国に行くしか無いんだよね。こと新作に関しては、彼に批評的な意味でのクレヴァーさが欠けてたのは事実で、じゃないと串田和美とあれほどつるんだりはしないと思う。周囲はイエスマンばっかりだったんだろうけど、批評的な視点と役者的な資質を兼ね備えた人なんてそうはいないからね。
ぽわん:勘三郎がやったことの意義は大きいし、あんな人物はもう現れないような存在であることは間違いない。その一方で、ある種世代的な限界もあったとも思う。もし次の世代に彼の志を受け継ぐ人がいるならば、また違うグローバルな視点でやってほしいとも思うね。
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2011年07月20日

反響を受けての感想、および、改めての立場表明

ぽわん:いやあ、前々回のエントリーで話題にした方々からいろいろな反応があって、面白かったね!
たぬき:ああいう方々は、我々のゲリラ戦みたいなやり口には超然としてるものだと思ってたよ。いや、それは当初そう思っていたというだけのことで、結果的に反応があったのはむしろ有り難いんだけどね! だからと言って、それこそ一部で"邪推"されてたように「けんかをふっかけることでかまってほしかった」訳じゃ全然ない(笑)。もともとこっちが話しかけたわけじゃないんだし。こちらが書いた人の中には、愚痴ったりアフォリズムもどきを吐いたりしてた人もいたね。
ぽわん:そうそう。公的な媒体に書いているんだから、演劇専門ではないにしてもプロの批評家の仕事の範疇だと思ってたのに、「趣味で舞台観て感想書いてるだけ」「僕という存在を、勝手に大きく見積もった上で(断っておくが僕の「影響力」など微弱なものだ)、引き下ろすという謎の二段階の行為をしている」なんて言ってる人もいて驚いた! 私たちだって、そこまで自他ともに認めるど素人だとわかってたら、批判の矛先も鈍ったかもね(笑)。
たぬき:それにしても「サブカル版岩波文化人」はヒットだったみたいだね(笑)。おかげでこっちのブログのアクセスワードは「岩波文化人」だらけ(笑)。そんな中、桜井圭介氏が直接話しかけて来たのは先のエントリーの通りだけど、実際、正面から反応してくれたことには、敬意を表したい!
ぽわん:さて、前置きはこのくらいにして、桜井氏からこのようにご返事いただいたので、前回同様、連名形式でご返事してみますか。といっても、論点は整理されてきたかと思うので、もうオウム返しみたいなことはやりませんよ。

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桜井圭介氏の質問へのご返事 2

 まず、大前提として書きたいのは、このブログは、開設当初から、二人の猫が「なんでこんな舞台が褒められるのか分からない」と感じた出来事に関して、率直かつ毒舌でくっちゃべりながら、考えたり検証していったりするというスタンスだということ。具体的に例証もしてはいますが、根本的に言うと、ニュートラルな文体だとか事実の積み重ねによる論証とかには興味がありません。その反対に、思いつくままにあちこち脱線したり具体例を挙げたり留保したり断言したりしながら話が転がっていく、要するに観劇後の演劇トークのノリで対象を考察しています。
 ですから、桜井氏から「印象」についての指摘があったとき、「なんで語尾にだけこだわってるんだろ。もっと無茶なこといっぱい喋ってるのに」と内心いぶかしく思ってました。もっと言うと、ただの揚げ足取りだと感じました。でもせっかく聞いてくださったので、敢えてそれに乗ってみたわけです。だから、おっしゃるように「論がズレる」のは、ある意味当たり前なんです。だって、こっちも「これってズレてるのになあ」と思いながらも、話に沿って論証とやらを試みたのですから。ちなみに、twitter上の関係を可視化するサイトなんて、その時点で初めてアクセスしましたよ(笑)。

 ところで、桜井氏は「事実」とか「根拠」とかというものにこだわっていますが、そもそもそれって、そちらが思うほど簡単に確定出来る、あるいは少なくとも当事者が他人に強要できる類のことでしょうか? 英米圏では、著名人が亡くなるとしばしば、それを待っていたかのように偶像破壊的な伝記が出ますよね。生前の「本人」に対する周囲の遠慮、ないし当人が強力な煙幕を張っていることが多いからです(念のため付け加えますが、我々のスタンスは、関係者への膨大な取材を必要とするその手の作業とは対極のものですから、これはただの例示です)。要するに、そちらが求めるレベルの「論証」を行うためには、周囲の遠慮やら本人の煙幕を突破する必要があり、そのためには我々が猫の身を捨ててあなた方の極近辺に潜入する覚悟がいるんですね。残念ながら、その手のフィールドワークをやるつもりは当方にはありません。よって、そちらが示唆する、いとう氏・宮沢氏から岡田氏までも含めた正確かつ詳細かつ赤裸々なサブカル裏面史を描く気も今のところ、ありません。
 「フィールドワークの準備もせずに批判めいたことをするな」という声が聞こえてきそうですが、我々にも思うところがあります。今さっき我々のスタンスを「思いつくままに」と言いましたが、それを尤もらしく言い直せば、「体験の集積に基づく勘」です。それを「論証不可能」と切って捨てるのは結構ですが、結論から言えば「どうぞご勝手に。でも我々の考えは揺るぎませんよ」としかご返事できません。「視点の数だけ事実は存在する」みたいな極端な相対論に組している訳ではありませんが、我々はチケットを買う観客席側から発言しており、結果「まさにその通り」「言いたいことを代弁してくれてます 」という反応もいただきました。ですので、以降は幾つか、これはお答えしたほうがいいだろうというところだけピックアップすることで返信といたします。

 ツイッターでもご指摘の「“お詫びと訂正”か“追記”か」ですが、「お詫びと訂正」に至るのは明らかな間違い、例えるなら「桜井氏は実は新劇もミュージカルも大好きでした。証拠もいっぱいありました」クラスの事実誤認が発覚した場合です。でもって、追記というのは基本的に、「そっちはそういうつもりなんだあ。でもこっちにはこう見えるんだけど」という箇所に関して、「ご本人はこういうつもりらしいです」と書いてもいいですよという意味です。例えば、「ある種の一派をなす人達が、わいわいと神輿をかつぐみたいに持ち上げていている印象があるんだよね」のところに「桜井圭介さんから『僕も佐々木さんも岡田さんも色んな人と色んな場所でツルみますが、グルになって(徒党を組んで)悪だくみ(笑)はしてませんよ』という指摘を頂戴しました。」と追記するとか。なお、我々としては「頻度とかその度ごとの正確なメンバー構成は知る由もないけれど、『ツルむ』っていう言葉を用い、しかもそれが似合っちゃう/こちらが『やっぱり』と納得できちゃう時点でそれは派閥」という認識なので、全体の論旨に変更はありません。だって、意見の合う人同士とはいえ、なんでそこまでいつも仲良しなんだろうなあ、ぶつかりそうな意見・本音は言わないという暗黙の了解でもあるのかなあ、なあんて、一緒にブログをやりながらも実は芝居毎にしょちゅう意見が割れている我々2匹としては、勘ぐっちゃうんですよ(笑)。

 それから、「ダンスや演劇の一部だけを愛して、あとは興味なし」のくだりで、我々が「鬼の首を取ったつもりなんだろ」といったことをおっしゃってますね。何度も言ってますが、我々は今回俎上に上げた人々に何の下心も抱いておりません。また、ありとあらゆる公演を網羅しろとも言っておりません。ただ、一般論として、「これって視野が狭いな」と感じる意見を目にする度に「こういうこと平気で書ける人は、きっといろんなジャンルを見ていないんだろうなあ」と思ってしまうのは事実です。いわば、お書きになっているものや褒めておられるものに感じるパースペクティヴの問題です。あと、twitterに必ず書くとは限らないのはよくわかりますが、我々はツイッターヘビーユーザーじゃないけど、日常的に感じたことを頻繁につぶやいている人を観察するに、すごく良いと思ったら書きたくなるのが人間の心理かとは思いますけどね。

 ついでに言うと、下北沢云々はどちらかを持ち上げてどちらかを貶めるつもりはないですよ。そちらのクラブカルチャー〜の質問に答えただけのことで他意はないです。「クラブカルチャー的なところ」という言葉は、そういう共通点があるという以上の意味はありません。そのことに、どういう"さらなる意味”があるかは、文章全体から読み手各人が推して知るべし。ご指摘の通り、日本語における「〜的」という表現の適用範囲のやたらな広さに対してははっきり自覚して用いております。そういうのは会話体ならではの融通無碍なところです。

 あと、「『ダンスをこれまでと違うコンテクストで語ってきた』らなぜその後『演劇方面にアプローチ』することになっちゃうんでしょうか?その『根拠』がわからない(笑)」と仰ってますよね。釈迦に説法ここに極まれり、みたいな感じで申し訳ないですが、「ダンスならざるものにダンスを観るあるいはその逆」の第一人者である桜井氏が「演劇なのにダンスが見えるものあるいはその逆」が増えてきた昨今のシーンへ親近感を覚えるのは当然、みたいにパラフレーズすればよろしいでしょうかね。あ、蛇足ながら、ここでいう「ダンス」の定義が広いのは、他ならぬ桜井さんなのでご理解いただけると思います。

 次に、手段と目的の話。「僕には、さんにとって『演劇、ダンスが手段になっている』ということを裏付ける証拠た得る記述は見当たりませんでした」に関してですが、我々の主張をこの点に即した形で再構成すると「いい年した中年がこんなにくだらない演劇に感動する(=目的になる)ってことはあり得ない。ということは例によって新たな飯の種(=手段)を見つけて喜んでるのに違いない」です。もちろん彼が本気で楽しみつつそれを飯の種にしている可能性は否定できません(我々には信じ難いことですが)。その意味で桜井氏のおっしゃる「人が何かする時に『それが無私、無欲なのか打算があってのことなのか』という話はゼロか100かというふういは出来ないし、『手段か目的か』というのも、そう簡単な話じゃないと。そして、それは端から見てて分かるようなわかりやすい話じゃないよ」というのは、一番大人なご意見ですね。あとそれから、桜井氏の「ダンスに実存を仮託してしまう」という言い回しに、今さらながら「ああそういえば桜井氏は美学者だったのだなあ」という感慨を覚えましたが、でもそれって結局「桜井圭介なる主体がダンスという現象をmeansとした思考の旅をするうちに、辿り着いたendは己の実存だった」ってことじゃないですか? 「手段means」と「目的end」という大枠自体は変わらないように思います。

 最後に、powantanukiに関して誤解があることが分かりました。powantanukiとは、「1つのブログと1つのtwitterアカウントによる言語表現の総体」です。それゆえ、「あなた方と何の利害関係もない」のは自明です。審級が違うのですから。それにしても皆さん、「powantanukiアカウントのパスワードを知っている1人ないし複数の人物」の「正体」ばかりが気になるみたいですね。そっちも利害関係はありませんが、これは信じていただく以外にありませんね。顔や所属や住所といったことを抜きにして文章だけで存在するところに筆名の意味があるんだし、現にこうして議論し合えてるんですからそれでいいじゃないですか。

 我々の主張の底にあるものが、利害関係でも悪意でもなく「演劇を愛する故のもどかしさ」だと喝破してくださった方がおりました。我々はそういう方がいる限り、これまでのようにブログを続けます。

ぽわん&たぬき
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