2011年02月25日

ムジークテアターに未来はあるか? 〜東京二期会・コンヴィチュニー演出『サロメ』をめぐって〜

貶められたサロメを救い出す演出!?

たぬき:オペラ界この春の話題作のひとつ、東京二期会のペーター・コンヴィチュニー演出『サロメ』。いつもながらに現代世界の頽廃をテーマに、グロテスクで同時多発的な演出を多用してコンヴィチュニー健在を知らしめた訳だけど、ぽわんさんも彼のファンなんだよね?
ぽわん:そうだよ! 単なるこけおどしじゃなくて、歌詞も読み込んだ上で思いがけない意味を付与できる人。大胆な設定置き換えとともに、すごく細かい工夫があって面白いから好きなの。
たぬき:うん、今でこそ「過激な演出」自体ありふれちゃったけど、そうした中でも彼の演出の特徴のひとつは、オリジナルのスコアと言葉の辻褄を、小芝居でやたらチマチマと合わせていくところ。例えば今回で言うと、急にテンポと拍子が変わってヘロデ王が"Tanz für mich, Salome!"って歌い出すところがあるよね。あそこってちょっと唐突な感じがするけど、それを補うためか、そのちょっと前からヘロデ王がヘロインをアブって静脈注射して、その幻覚で「踊ってくれ、サロメ」って言わせることにしていたね。これはとても巧い手で、おかげで、その後彼が急に寒くなったり熱くなったりするあたりにも説得力が出てる。こんなふうに、グランドデザイン(=現代世界の頽廃)とディテール(=麻薬による幻覚)が、音楽を媒介にうまく調和してるのが彼の演出の特徴だね。
ぽわん:あと、今回のプロダクションで好きだったのは、サロメが素敵に描かれていたところだな。サロメって悪女みたいに扱われていて、ヨカナーンからも汚れた存在だと非難されるけど、あれってひどいよね。サロメの母親のヘロディアスが、サロメの父親の弟にして兄を殺した当人であるヘロデと結婚したというのが主な糾弾理由になってるけど、それって『エレクトラ』と同じ展開だよね? サロメはいわばエレクトラと同じ立場で、むしろ被害者かもしれないじゃん。でもコンヴィチュニー演出では、サロメ以外の人々はヨカナーン含めて俗悪だけど、サロメだけはその中にいても愛を信じていて、最後はヨカナーンと二人で外の世界に飛び出すっていう結末になっていて、良かったなあ。
たぬき:最後がいきなり純愛讃歌になるのは彼の得意技で、『トリスタンとイゾルデ』の最後で棺桶が2基出て来たのを思い出したよ。ちなみにコンヴィチュニーは旧東独出身でベルリナー・アンサンブルで修行した訳だから、ブレヒトの孫弟子に当たる。インタビューのたびにブレヒトに言及してるし。それでもって、実はブレヒトも純愛を描くのが得意だよね。『セツアンの善人』のシェン・テと飛行機乗りのヤン・スンのくだりとか。ブレヒトが純愛なんて信じてなかったのは彼の女性遍歴から見て明らかだけど(笑)、やっぱり社会の圧政の対立項としては便利なんだろうねえ、純愛って。
ぽわん:単なる純愛じゃなくて、不当に貶められてたサロメの復権の物語なんだと思うよ、これは。やっぱり雄のたぬきさんにはわからないんだわねえ、その大きな意味が!


ムジークテアター、今後の可能性は?

たぬき:東京二期会の歌唱もアンサンブルもすごく良かった。さぞ密度の濃いリハーサルをこなしたんだと思う。やっぱり高い集中力で取り組むことは何よりも重要だね。多かれ少なかれルーティンぽさが感じられる引っ越し公演なんかよりずっと良かった。
ぽわん:サロメ役の大隅智佳子はじめ、歌手陣も大健闘だったよね。二期会がコンヴィチュニー演出を上演するのは『皇帝ティトの慈悲』『オネーギン』に続いて三度目。毎回すごくがんばってると思う。激しい動きや極端な格好もしっかりこなしながら歌うんだもん。上演にこぎつけたスタッフも讃えたいね! あと、東京都交響楽団の演奏も良かったし。
たぬき:都響ってこぢんまりしたイメージだけど、すごくいい演奏だったね。ところで、昔からムジークテアター派に対しては「状況設定を無視している」「肝心の歌をおろそかにしている」みたいな批判があったけど、最近は逆に「もはやコンヴィチュニーの時代は終わった」みたいなことを言い出す人も出てきたね。確かに四角い密室のセットは『アイーダ』の延長線上だし、そもそも、支配階級の堕落とそこからの死を賭した脱出という点では、今回の『サロメ』と『アイーダ』はまったく同じだもん。
ぽわん:さすがに数をこなすとパターン化しちゃうっていうのは、演出家の常なのかもね。日本の実力者で考えても、蜷川幸雄も栗山民也もそういうところがあるのは否めないよ。
たぬき:唐十郎なんて、観始めて20年ぐらい経つけど何も変わってないよ(笑)。コンヴィチュニーからも演出家として新しい手法は出ないかもしれないけど、未だに「歌手に芝居させる能力」はトップクラスだよね。彼はもはや大御所だからフォロワーも多い訳だけど、フォロワーたちは若い分もっと傍若無人になれるし、インパクトという点では次世代に道をゆずっていくのかなあ。
ぽわん:じゃあ、たぬきさんは次代を担うオペラ演出っていうのはどうなると思うの?
たぬき:いわゆるユーロトラッシュ(これってアメリカのオペラ愛好家が付けた蔑称なんだっけ)の演出家でコンヴィチュニーより下の世代って、すごく映画からの引用が多いよね(でも、元ネタを知ってると更に興味が増すって訳じゃなくって、単なるヴィジュアル的な効果が第一義って感じ)。あと、今回の『サロメ』にも出てきたけど、歌わないアルターエゴみたいなのを出したり、いつも性差の闘争みたいなのを取り扱ってる。要するにユーロトラッシュはブレヒトと映画、それと精神分析に多くを負ってる訳で、ブレヒトをファシズム(と社会主義)の産物と考えれば、これらは所謂20世紀の三大発明。さて、21世紀は…マイク使用は最小限という縛りがかかっている以上、マルチメディア方面の伸び代は少ないだろうし、ゲイ美学全開みたいなのも増えたけど、まずソプラノありきのオペラ界での位置は…難しいねえ。もうしばらくは20世紀の遺産でやっていくしかないのかなあ。ただ、話は戻るけど、件のアメリカのオペラの総本山・METでさえ、ピーター・ゲルブが総支配人に就任してからは斬新でシアトリカルな舞台が増えてきた(すぐ近所のブロードウェイから演出家を連れて来るのはいかにもMETらしいけど)。それはつまり、オペラもパフォーミングアートだという流れは止まらないということだよね。なんたって観てて楽しいもん。ただ、若い演出家の中には、音楽も歌手も自分の表現欲求の手駒、もっと言うと単に本人の趣味みたいな人も多いよね。ああいうのはいただけないなあ。やっぱり社会性は欠けてほしくない! そもそも「オペラに社会性を」というのがムジークテアターの始まりなんだから。
ぽわん:わたしの希望としては、正直、作品によるかなあ。社会性なくオーソドックスに上演してほしい作品と、そうでない作品がある気がするけど… これはもう、手腕とセンスの問題なのかもしれない。そして、手腕とセンスの高い演出家がオペラに現れるには、数をこなすしかないのかも。となるとやっぱり、オペラの内部から演出家を育てるのと同時に、「目利き」的なプロデューサーが、素質のありそうな異分野のひとにどんどん挑戦させるっていうのが大事なんじゃないかな。でも日本で言うなら、まずは「目利き」を育てることから始めなきゃ、かな?
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2011年02月13日

別役実作品に望むこととは?〜MODE『マッチ売りの少女』〜

リアリズム劇だろうが抽象劇だろうが…

たぬき:今度のMODEは、別役実が二十代で書いた名作「マッチ売りの少女」に挑んだわけだけど、やっぱり主演の山田美佳には不満が残ったねえ。小市民の家庭に闖入してくるあの役は、カマトトぶったり切々としたり、みたいな紋切型の台詞回しで切り抜けられなくもないけど、やっぱりたまにはドスを効かせてほしい。キャスト4人の中では飛び抜けて若いからちょっと可哀相だけど。
ぽわん:山田美佳は、賛否はともかく、すさまじい大根役者で、リアルな演技はできない。それが味であり存在感だっていうのが松本ないし大方のスタンスみたい。まあわからなくもないんだけど、チェーホフ『かもめ』のニーナの時は、その演技がまるで通用しなくて観てられなかったからね。それに比べると、今回の少女のような「異物」的立場は合っているほうだし、頑張ってドスも効かせてたつもりだと思う。
たぬき:でも、いくらリアリズムの戯曲じゃないからといって、リアルじゃない俳優なら通用するというわけじゃないよ。そもそも、姉と弟なのに一目で弟の方が年上に見えてしまうっていうキャスティングはやめてくれないかなあ。あれって意図的なものでは絶対になくて、単に松本修は山田美佳を出したくてしょうがなくて、なのに彼女より年下に見える適当な俳優がいなかっただけだと思う。そういうのって、「別役実は抽象劇=リアルさは考慮に入れなくてよい」みたいな変な勘違いじゃない?
ぽわん:その一方で、演出テイストとしてはあんまり抽象的じゃなかったね。基本的に、松本修の演出テイストはきらいじゃないんだけど、作品によって、合う/合わないがある気がする。今回はちょっとウェット過ぎる感じがしたかなあ。雪やら黄昏風のアンバーの照明やらもだし、あと、劇の中に幾度か登場する場面転換のシュールさに余計な意味を持たせてしまって、結果的にシュールな面白さが薄れてしまったのが残念だったよ。もっと抽象的なほうが良かったなあ。
たぬき:別役戯曲すべての中でも、この『マッチ売りの少女』と『象』という初期作品2つの上演頻度はかなり高いよね。それは何故かというと、思うにこの2作は、後年ほど厳密なロジックで組み立てられていない代わりに、情緒性がたっぷりあるからなんじゃない? そういう意味で松本演出も、やっぱり情緒に寄っかかっていた。
ぽわん:そこが、さっきも言った理由で、不満だったんだよなあ。

もっと周到な仕掛けがほしい

ぽわん:わたしが好きな松本演出作はカフカ。カフカと別役は不条理性っていう点では共通するとも言えるのに何が違うかと考えるに、観るこちら側にも、カフカにはチェコのノスタルジーみたいなイメージを抱いているから、ウェットでもだいじょうぶ。でも、別役作品はドライで場所や色を限定しないのが面白さだと思っているから、ウェット過ぎると嫌なのかも。
たぬき:確かに、松本修ってスタイリストを装ったロマンティシストだなあと改めて感じたね。ただ個人的には、もっと仕掛けを作って、いないはずの弟が出現するに至るまでのドライヴ感を出すべきだったと思うけど。
ぽわん:ドライヴ感?
たぬき:えーとね、つまり不条理劇って話の展開自体は基本的に無理筋なんだから、それを納得させるだけのノリがないと空々しくなってしまうと思うんだよね。これは、人間をみんな犀にしちゃったり授業を殺人にエスカレートさせちゃったりしたイヨネスコから別役が学んだことだと思うんだけど。要するに「弟がいます」ってのは展開上の分岐点、夫婦が抱いている日常性の論理と闖入者側の論理がいったん逆転する瞬間で、そこまでに客席も舞台もエキサイトしてないと、その結構高いハードルをクリアできないんだよ。例えばジョン・クローリーが演出したtptの舞台だと、姉を演じた久世星佳の長身ゆえのヌボーとした存在感と夫婦が醸し出すユーモアで観客が沸きに沸いていて、「弟がいます」は大受けだったんだよね。これは喜劇性を強調することで難所を切り抜けた訳だけど、例えばサイコホラー的にでも理詰めっぽいアプローチでも何でもいいから、なんか仕掛けてほしかったなあ。ちなみに初演は「戦後民主主義の欺瞞を、彼らが忘却した筈のトラウマが暴き立てる」みたいな時代性コテコテの演出だったらしいよ。
ぽわん:けど、サイコホラーというのは、松本修テイストとは違い過ぎるね。MODEとしてもっと効果的に「仕掛ける」にはどうすべきだったかな? ひとつの解決策としては、姉をもっとうまい俳優が演じることかなあ? ウェットあるいはベタな演出に対して、巧みに距離をもって演じられるような?
たぬき:今回は「旅芸人」がテーマだったそうだから、旅芸人のペーソスというか泣き落としみたいな路線か? 
ぽわん:ううむ、わたしはどっちかっていうと泣き落としは好みじゃないなあ。
たぬき:そりゃあいちばん簡単なのは「弟がいます!」って宣言するだけで場をさらえるだけの力量のある女優を連れて来ることだろうさ。あと、これはどうでもいいけど、「MODEはオトナに観てもらいたい。MODEはコドモには観てもらいたくない。」ってのが謳い文句のクセに、学生料金が設定されてるってヘンじゃないか!?
ぽわん:まあでも、学生がコドモとは限らないから、それはいいんじゃない? 精神的にコドモな人はいつまで経ってもコドモだし、若くてもオトナはオトナだし。で、わたしたちはどっちかな?(笑)
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2011年01月20日

ご都合主義的過ぎるehon『SWEETS〜「可哀想」にたかる蟻たちの話。〜』

並べるのみでなくリアルに動かすべし


ぽわん:ehonっていうプロジェクトの第一回公演『SWEETS』っていうのを観たの。夢の遊眠社の看板女優だった円城寺あやが出演しているし、座・高円寺の「演劇村フェスティバル」の一環となっているので、一定の質かなあという期待もあって観たんだけど・・・
たぬき:座・高円寺は公共の劇場なわけだから、そりゃ観客としては最初からある程度の信頼を置くのは当然だよね。
ぽわん:ところがどっこい、芝居に必要な掘り下げが欠けていて…。ともあれ、まず設定を話すね。とある母子家庭の家で、娘は反抗的で家に居着かず、息子は20歳過ぎてるのに引きこもりで、ゲームのカスタマーセンターに「リセットできない」とクレーマー状態。そんな中、母に三人目の婚約者ができる。
たぬき:ということは、主人公はシングルマザーのお母さん? 母子家庭のステレオタイプを圧縮させたってとこだね。
ぽわん:サイドストーリー的に、家に居着かない、ちょっと反抗的な態度の娘が、耳に障害のある男と付き合ってて身ごもる、という物語が用意されてる。さて、母の婚約者が母と結婚しようとする中、ルポライターとか名乗る男が「あんたの結婚相手はあやしいぜ」みたいなことを言ったりするんだけど、これがまたわざとらしい!
たぬき:あやしさは雰囲気でかもし出すから怖いのに、言葉で言っちゃうのは薄っぺらいねえ。
ぽわん:ともあれ、娘は障害者の男の子供を身ごもるに至るんだけど、妊娠した娘が、母の婚約者に対して、驚くべき事実を明かす。その事実とは−−。
たぬき:伏線が全然ないから予想もつかないなあ...
ぽわん:まあそれは私がここで端折ったせいもあるかな(笑)。とにかく、実のところ最大の問題は、息子の引きこもりにあるのではなく、母親が、最初の夫にかまってほしいがために、当時赤ちゃんだった息子の食事に下剤を飲ませては病院に行って夫や周囲の同情や関心を得ようとしていたこと、その行為にあるとわかる。
たぬき:気づこうよ、親族とか近所の人!
ぽわん:ちなみに前述の自称ルポライターは、実は最初の夫の親戚だから事件を追っていたんだと後からわかるんだけどね(笑)。でもって夫はその嘘に長年だまされた挙げ句、妻、つまり一家の母親に殺されたの。で、9歳になっていた息子は父親を切り刻むのを手伝わされたため、以後、母から真実を言わないよう脅迫されたり暴力受けたりして「引きこもらざるを得なかった」のだとわかる。一方、娘は二番目の夫の子なんだけど、その実の父親から性的虐待を受ける。かくして、二番目の夫もまた殺されることとなり、娘も息子と同じように、母が父親を切り刻むのに加担した。
たぬき:...あり得なくはないけど非現実的だねえ。ちょっと北九州の連続監禁殺人事件を思わせるかな。にしても殺人だの性的虐待だの、警察は動かないのか!? プロの作家なら必ず早い段階で「警察が動かない理由」「親族とかご近所から切れてる理由」みたいなのは説得力をもって入れてくれるんだけどなあ。
ぽわん:そして、さっき言った通り、妊娠した娘が母の婚約者に対して驚くべき事実を明かした時、「なぜ話すんだ!」と聞く婚約者に対して「家族になるってことは秘密を共有することよ」と言う! しかもそこへなんともタイミング良く、それまで「息子が引きこもりで困ったわ」というふりをしていたはずの母親が、息子に暴力を振るいながら居間に入ってくる。ので、婚約者は、娘が言ったことが本当だと分かる…ご都合主義にもほどがあるね。
たぬき:...人の出入りは劇作家の腕がはっきり出るからねえ。プロなら「そこでその人が出て来る理由」をキッチリ作ってくるんだけど。人間関係って並べるのは超簡単なんだけどそいつらをリアルに動かすのは超難しいんだよ。

何に泣くか、が重要!?

ぽわん:母が次第に風水にはまっていくさまも描かれるんだけど、これがまた唐突で、「このお母さんは頭がおかしいです」という安直な記号もどきにしかなっていないんだよね。あと、娘がお腹の子の耳にも障害の可能性があると言われて、そんなお腹の子に、わざわざ音が大事なガラガラを買って、振ってしょんぼりする、という場面があるのも、中途半端に作為的だったなあ。そして、そんなふうにお腹の子のことを気遣っているはずなのに、なぜ、娘がいきなり真実を母の婚約者にぶちまけるのか、さっぱりわからなかった。
たぬき:ふむふむ。
ぽわん:だって劇中では、相手の男は障害があっても誇り高く強く生きているっていうことが示されるんだよ。その人との間に子供ができてこらから産もうという状況下で、娘がいきなり古い家族にこだわるのはおかしいんだよね。身ごもって新しい家族をもつことになるはずの人間が、それまで居着かなかった家族に自ら執着する? それよりも、危ない家庭から離れて赤ちゃんを守ろうとするよね、普通。もしも、赤ちゃんや自分への自殺行為的に母親の秘密を暴露したということが表現したかったならば、そういう複雑な娘の心理を、もっと描かなくちゃいけないはずだよ。
たぬき:未見だからウカツなことは言えないんだけど、説明台詞を言わせたいがために、キャラクターの一貫性とかリアリティを置き去りにするという初歩的ミスだねえ。そういう展開にしたければ、一旦娘と障害のある男を仲違いさせる場面とかを作らないといけないんだよね。そこまで考えが至らないんだろうけど...
ぽわん:結局、娘が秘密を暴露し、息子と母親がもみ合って乱入したその居間で、事態は殺傷事件へと発展して、息子が母と娘と婚約者を全員殺しちゃう。でも娘は、死に際に赤ちゃんの父親に携帯電話で「赤ちゃん守れなかった。ごめんなさい」みたいな電話をかける。一方、息子は最後、「リセットしたい」と言う。ゲーム会社にもそうクレームしてたからね。ベタ過ぎる伏線で笑っちゃうなあ。
たぬき:結末で人が死ぬのは、ある意味で極めて安易だよね。たぶん劇作家の誰もが、一人前になる過程で一度は「今度の新作は誰も死なないことにしよう」と自らに縛りをかけると思うんだけど(むろん喜劇作家を除く)。…それで全体の感想としては?
ぽわん:陳腐でげんなり、という感じ。ディテールで言っても、次のセリフや展開が簡単に読めちゃうし、人物の造形が全然掘り下げられてなくて、役には、作者が言わせたいことを言わせてるだけで、言うまでの心理とか描けてない。そのくせひどいのは、大きな字幕も頻繁に入れて、そこで文字でたーぷり説明しちゃってたこと。それを芝居で描くのがあなたの仕事でしょーーー! 
たぬき:怒り心頭だねえ。
ぽわん:例えばケラリーノ・サンドロヴィッチとかも字幕入れるけど、分量や内容には節度があるよ。せいぜい幕の最初とかだし。しかもそんな舞台を観て、泣いてる観客が何人かいたよ。芝居に泣いてるんじゃないね、あれは。
たぬき:「最初から泣きにかかる客」って居るんだよね。ほら普通はさ、プロットに穴があると「あれ!?なんでそういう展開に?」って感じで醒めてしまうじゃない? でもそうじゃないタイプの人間が一定数いるんだよね。たぶんそういう人は現実とドラマの間に区別を付けないんだ。目の前で可哀相なことが起きたら自動的に涙腺が緩む、みたいな。
ぽわん:そうそう。そういう感じ。
たぬき:皮肉でも何でもなく、そういう人たちはある意味タフなのかもねえ。ほら、現実の不幸に対していくらでもシミュレーションが出来るわけだから(笑)。
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