2011年05月03日

みんな大好き『欲望という名の電車』の、松尾スズキ演出版は是か否か

松尾スズキは九州のテネシー・ウィリアムズ!?

たぬき:松尾スズキが、秋山菜津子を主役にテネシー・ウィリアムズの名作に挑んだ、パルコプロデュース『欲望という名の電車』。企画を耳にした時は、これはなんとなく出会いものなのではという気がしたけど、ぽわんさんはどうだった?
ぽわん:んー、複雑な気持ちだったな。プロデュースものって、企画として「お!」とは感じさせるけど、まとまりに欠けたりして、文字通り「企画倒れ」ってことが多いんだもの。それに秋山菜津子はいい女優だけど、『欲望という名の電車』には私、思い入れがあるから、どういうブランチ像ができるか不安だった。だけど蓋を開けてみたら、好きかどうかはともかく、松尾スズキワールドになっていたから、そこは逆に気にならなかったなあ。
たぬき:松尾スズキが持っている主題のひとつは、人間の業の深さというか破滅的な本能のまるごと肯定みたいなことだと思うけど、それは当然ブランチにも共通するわけで、狙いは外れてはいないし、実際ある程度成功したと思うね。
ぽわん:パンフレットによれば松尾スズキは「俺の田舎には(略)黄色いスタンリー、黄色いステラ、黄色いブランチは、集落に1組は必ずいました」と書いているから、松尾スズキの原体験に基づく世界・人物として描いたみたい。ブランチというヒロインはこれまで、杉村春子、岸田今日子、栗原小巻、大竹しのぶなど錚々たるメンバーが演じてきて、スペシャルな存在になっていたというか、女優にとってある種の到達点だったと思うんだけど、その意味で今回は、いかにも「現実離れした、危ない女でござい〜」という空気を漂わせる王道路線から、ちょっとはずれていたかもね。でも面白かったのは、ずれていると見せかけて、秋山に関しては、渾身と言える演技を見せたこと。今時の新劇の女優にあそこまでできないだろうね。
たぬき:秋山菜津子ひとり舞台状態になるとこは引き込まれたね。例の「明かりをつけないで!」のあたりとか。自己陶酔系じゃなくて、あそこまで集中した芝居ができるのはさすが。
ぽわん:あそこはどうやるんだろうって思ったら、電球をミッチがびよーんって伸ばして来たのは、「ああ」って感じ。全体的に、今回の松尾演出は、名場面・名演技で有名な箇所自体を崩すというより、その周辺で遊んだ雰囲気だったね。ある意味、照れ屋の松尾っぽい(笑)
たぬき:ただ、彼女は本来引きの芝居も上手いんだけど、今回はアクセル踏みっぱなしという感じで、結果的に単調なのは否めなかった。
ぽわん:それは、周囲の俳優の問題もあるかもしれないし、松尾のイメージでもあるのかもしれないよ。公演パンフレットを読むと「過剰な女っておもしれー」っていう興味があるみたいだから。
たぬき:今回テキストレジってあんまりやってないと思うけど(ブランチがするオウムの話はさすがにカットしてたけどね)、それゆえ、松尾が内心冗長だなと思ってるかもしれない下りが冗長なまま残ってる。星座の話とか文学の話とか。ああいう場面って単なる性格描写じゃなくて、舞台にちょっと不気味な歪みみたいなものが出る筈なんだけど、そういうのはなかったなあ。
ぽわん:もともと戯曲をそのままやればそこが歪みになるはずのところを、松尾ワールドとして別の歪みをいっぱい作っちゃったせいで、かえって浮いた感じかなあ?
たぬき:あと、彼女がミッチに彼の結婚相手がゲイだったと打ち明けるくだりだけど、話が佳境に入る前に、相手の性格がsomething differentだったとか、"a nervousness, a softness and tenderness which wasn't like a man's"があったとか言うくだりがあるじゃない?このあたりが何の言い淀みもなく、また逆に変な流暢さもなく流れてて、単なる普通の喋りだったのは不満だったなあ。
ぽわん:松尾はいかにも新劇チックな繊細な表現、にしたくなかったんじゃないかな? だから彼の描く「意味深」は底が知れているんだとも思うケド。で、さっきも言ったことだけど、今回のブランチに関して言うと、彼女のヤバさというか痛さというか、そういうものが、観客がおののくようなものではなく、もっと別な身近な想像で埋められるものになっていたと思う。つまり、「あー夫がゲイだったらショックよね」という共感はあるけれど、今とは比べられない当時のゲイに対する不認知ゆえの恐怖や、ガラスのようなブランチの心の深遠をのぞくような気持ちにはなりにくかった。これは彼の個性だから、一概に否定するわけじゃないけど、
たぬき:さっき松尾スズキとブランチには共通点があるって言ったけど、同時にそこには相違点もあって、松尾ワールドの人物たちがある意味図太く不条理な感じに病んでるのに対し、ブランチはやっぱり不健康にというか文学的に病んでるんだよね。これは時代とか資質の違いでいいとか悪いの問題じゃないんだけど、さっきぽわんさんも言った「周囲の俳優の問題」さえクリアすれば、松尾ワールドとしての完成度はぐんと高まったのではと思う。


問題はキャスティング? 演出?

ぽわん:では具体的に聞くけど、ほかの出演者についてはどうだった?
たぬき:スタンリーの池内博之は変にニヒルで、暴力的な癇癪持ちには全然見えなかった。下品な役のはずなのに、ある意味いちばん上品な芝居やってたというか。
ぽわん:うーん、今回、松尾はステレオタイプを崩して、ブランチを過剰に強く、スタンリーをちょい間抜けにしたかったんじゃないかな。池内博之のスタンリーがどういう理由でキャスティングされたのかわからないけど、二枚目なんだけどどこかおっとりとしてる彼の個性を引き出した印象。
たぬき:松尾演出なら本来スタンリーが持っているエグさがもっと出せたかもしれないのに、もったいないね。とはいえステラの鈴木砂羽よりはずっとマシ。彼女、口跡は悪いし仕草にも台詞にも気持ちが全然乗らないし、挙句の果てに、妊婦なのにドタドタ走ったり身体をぶつけたり。余談になるけど、この芝居を観た帰りにたまたまある店で妊婦とその夫を見かけたんだ。妊婦はひたすらお腹を外界から守ろうと気を使っていて、夫に対してさえ近くに寄られることを警戒していた。そんなもんだよ。だからきっと、松尾演出のことだから、生まれた子が不具になるっていう伏線なのかと思ったら、そんなこともなかった。
ぽわん:確かに、それだと流れちゃうよーってとこ、いっぱいあったね。まあ、そういうところのリアルには、松尾は興味ないんだと思う。確かにそういうオチになったら松尾らしかったけど、今回は大きな冒険はせず、小ネタで遊んだ感じだからねえ。
たぬき:オクイシュージは、T・ウィリアムズと松尾ワールドの仲介者としてよく頑張った。「こんなダメ男に愛の希望を託さないといけないほど、ブランチは落ちぶれたのだなあ」って感じだけど(笑)。
ぽわん:そうだね、あのメンバーの中でマシっていうのもあまりぴんと来なかったよ(笑)。唯一の独身だからってとこかな。今回、松尾自身も大人計画的エグさではないものを、求めてキャスティングしたのか、キャストを観てこういう方向にしたのか・・・どうなんだろうねえ。
たぬき:キャスティングにはパルコ側の意向が相当入ってると思うけど、松尾自身にも「秋山さえいればあとはどうとでもなる」的な計算はあったんじゃないのかね。


秋山ブランチでの理想の布陣とは−−

ぽわん:さて、なんだかんだ言って上演のたびに盛り上がる『欲望〜』だけど、結局、今回の上演の価値・意義はどこにあったと思う?
たぬき:それはもう、いま日本でブランチを演じられる数少ない女優である秋山の演技が見られた、ってことに尽きるね。ぽわんさんもそうじゃないの?
ぽわん:私は、新劇のひとが今満足にできない以上、秋山という希有な女優を使って上演したことには意味があったと思う。ちなみに、新劇で満足にできないっていうのは、実力ゆえなのか、それともこれまでの伝説が偉大過ぎるからなのか、わからない。とにかくあまり上演されないからね。まあこちらにも責任はあって、「このひとなら!」って思わないと観に行きたくないなあ(笑)。その意味で、秋山は「このひとなら!」って多くの人に思わせることのできる女優だね。
たぬき:それでも、完売はおろか空席がかなりあったのがびっくりだね。松尾ブランドをもってしても、秋山では客は呼べないんだなあ。ちょっとがっかり。
ぽわん:震災のあとだからっていうのも、まだあるのかもしれないよ。ところで、松尾の遊びの中途半端さは、この戯曲をあまりいじらず、ある意味真っ向勝負で上演したいという意図が働いたからなのかな。まあ真っ向勝負かどうかは意見が分かれるかもしれないけど。
たぬき:いや、相当真っ向勝負だったと思うよ。テキストレジをほとんどやってないのがその証拠。だからこそ、プロデュース公演じゃなくて大人計画、それが無理なら日本総合悲劇協会でやってほしかったな。大人にも日総悲にも出たことあるしね、秋山は(笑)。
ぽわん:だけど松尾本人も「アメリカ白人自身が書いたアメリカ白人の愚かさを、黄色人種が死に物狂いで演じるというこっけいさ」ってツイッターで書いてるくらいで、王道的にはしたくなかったんじゃないかな。その意味で、たぬきさんが求める秋山菜津子ブランチでの理想的な上演は、全然別の布陣でこそ実現するのかも。実現性も考えると、栗山民也演出で、どうでしょう?
たぬき:栗山演出の、三好十郎作『胎内』での秋山は良かったからね、それこそ演技の足し算と引き算のバランスが見事で。でもさすがに、少なくともこの先10年は実現はしないでしょ、本人にいくらそんなつもりがなくても、松尾演出に不満があったんで別の演出を受けることにしました、ってことになっちゃうから(笑)。
ぽわん:じゃあ欲張って、10年後には、わおって思うような演出家、あるいはブランチ女優が出て来ていることを祈るよ!
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2011年04月21日

大絶賛が気持ち悪い!? 柴幸男 ままごと『わが星』

『わが星』・・・なぜ評価されたのか

ぽわん:
今、話題の柴幸男『わが星』。私もたぬきさんも初演は観てなくて、今回の再演を観たんだけど、ぜんっぜん感心しないってことで意見が一致したんだよね。で、じゃあ褒めている人たちはどう評価しているのかをまず検証してみたいの。
たぬき:将を射んと欲すればまず馬を射よ、って奴かな?
ぽわん:そうかも(笑)。まず、2010年の岸田國士戯曲賞。選考理由を読んでみると(全文はこちら)、けっこういろんなものが見えて来る。まず、岩松了は「無常観すら感じさせるその筆致は、A・キアロスタミの映画を観るよう」と褒めてもいる一方で、「ちまちました家庭劇もどきが横行してきた演劇シーンに、ひとつの爆破装置を仕掛けたという意味でも評価できる」というふうに、最近流行の小さな物語を、その小ささから出発して宇宙的な次元へ広げたことを評価したいという感じが見て取れるね。野田秀樹は独特の言い方で褒めつつ「積み上げられた悲しみではなくて、ただ寂しさ」としており、現段階では評価するけど今後については保留、みたいな感じで言い淀んでる。宮沢章夫は「この数年の潮流から、また異なるテイストを携え、ある切断を本作品がもっとも顕著な姿で表現」「世界を、人類を肯定する前向きなメッセージはへたをすれば陳腐なものになった」のに「ヒップホップの方法論を持ちこみ、□□□(クチロロ)というブレイクビーツ・ユニットの音楽も果敢にとりこんだ「建設的」なアプローチは、いわゆる現代口語演劇を再構築した」と、手法を褒めている感じ。
たぬき:キアロスタミと似てるのは、素人を使うのが好き、反復が好きってくらいでなーんの共通点もないと思うけどね。野田は他より光るものがあるから(つまり比較の問題で)推すってだけみたいだね。宮沢章夫は本質が読めないただの新し物好きだ。
ぽわん:宮沢章夫は自分が新し物好きの少数派だと思ってたのにみんなが推してびっくり、みたいなことを書いてるね。続きだけど、永井愛は宇宙規模と個人規模を重ねる立体構造を褒めつつ、「人物の会話は平板で物足りない。これが意識的なことなのか、このような描き方しかできないのかという疑問は最後まで私を迷わせた」と言っているし、坂手洋二は「失礼を承知で言えば、他の候補作との関係では、一種の消去法で一番まともに見えたというのが本当」とけっこうはっきり言っちゃってるし、鴻上尚史に至っては「ソーントン・ワイルダーの『わが町』の感動をかなりの部分、借りているのではないかと感じて、乗り切れませんでした」と告白しているね。
たぬき:歴史は、おおむね否定派のほうが正しかったことを証明するんじゃないかね。鴻上の意見にうなずく人も多そうだ。
ぽわん:つまり、みんな諸手を上げてっていうより、いろいろな趨勢やら何やらを考えた上で選んでいる印象なんだけどどう?
たぬき:新人賞って、岸田戯曲賞に限らず豊作の年なら複数出すし、不作の年も最低一人は出してあげましょう、ってのが最近の主流みたいね。今このために過去の受賞者を一通りチェックしたけど、皆さんまあ受賞後もそこそこの成功を収めているようでご同慶の至りだ。とはいえその後メジャーになる後押しになった受賞者もいれば、「今更受賞? しかもこんな出来の悪い作品に?」ってのもあっていろいろだねえ。
ぽわん:『わが星』の時は上演を観たんじゃなくて戯曲だけ読んだ審査員が多かったみたいだね。


ほんとに生と死をみつめている??

ぽわん:で、ここからが本題。今回の再演も、読売新聞は「2010年代の新たな段階に進んだ演劇が、ここにある。(塩崎淳一郎)」って感じで大絶賛。
たぬき:新聞記者なんて、常にこれが最新流行だ!って騒がないと飯の食い上げだからね。
ぽわん:でもどこが新たな段階なんだろう? 正直、ぜんっぜんイメージできないけど、たぬきさんわかる?
たぬき:幼児退行っぷりがいよいよ舞台表現としての限界に近づいた、ぐらいかね正直。
ぽわん:反復の効果についても指摘されているみたいだけど、その反復が意味をなさない・広がらないんだよねえ。世界観にしたって、宇宙規模と個人規模を組み合わせる発想自体、下敷きにしているソーントン・ワイルダーの『わが町』がやっていることなので、新しくない。神話的世界/現実世界、具象/抽象がないまぜになっている世界はわたし基本的に好きだけど(『わが町』も好きだし)、『わが星』は数ある名作戯曲のあとに生み出した現代の戯曲なのに踏み込みが浅い。しかも、それが全部、ちいちゃん(ちい=地球)という女の子の「ままごと」になっているのがズルイ!
たぬき:「ままごと」って、文字通り炊事とか食事の真似事のことなんだよ。そのくせこの作品では人間の食欲さえちゃんと描けてない。三大欲求のうち、この作者がなんとか書けるのは睡眠欲ぐらいで、性欲なんてもちろん書けやしないと思うね。そのくせボーイ・ミーツ・ガール物語には頼るんだから情けない。ちなみにこの『わが星』って作品がボーイ・ミーツ・ガールでオチを付けることに、天文部のエピソードが最初に出て来た時点で気づかなかった人は、顔を洗って出直したほうがいいよ。
ぽわん:そうそう、そういうセンチメンタリズムの強さもちょっといやだったな。かつての劇作家にもセンチメンタルな人はいたけど、ダイレクトに出すことには抵抗を感じて隠していたり(でもほの見えちゃうところが良かったり)、もう少しひねって見せたりしてたと思う。でもこれはすっごく、そのまんま。しかもさらさら〜っと軽くて、まさに幼い感じなの。例えば、前述のちいちゃんが月ちゃんとままごとをするっていう形で人生の四季がスピーディーに描かれるけど、泣いている人の多くは、自分の幼少期の思い出や、人生で果たせなかったことを考えたんじゃないかと私は感じた。まあ、そのひねりのないところが、多くの人の共感を呼ぶのかなとは思うものの…
たぬき:本来イノセンスって、人生に傷ついた人間が最後に辛うじてすがるものなんだけど、最近は傷つくのが嫌なガキどもが最初っからイノセンスに閉じこもってるって感じがする。「セカイ系(念のため書いておくと、個人の危機がなぜか世界の危機と同一化するというエヴァンゲリオン以後の風潮ね)」が流した害毒だよ。
ぽわん:すっごく内向きなんだよね。『わが町』は町を描くことがそのまま宇宙につながっているわけだけど、『わが星』の場合は、私たちの星/家を慈しんでいますうううっていう印象。
たぬき:いい年した男女がお手々つないで円になって(=閉じて)ダンスだからね。大体、あのおゆうぎ会そのまんまの振付は何なんだろうね。どうしてあんなので金取ろうなんて思えるんだろ。
ぽわん:でもまあ、内向きな世界なんだから、急に“巧い”ダンスを披露されてもちょっと違和感。
たぬき:そうかなあ。役者以前に人間として恥ずかしくないのかね。「おかあさんといっしょ」じゃあるまいし。それに、だいたい平田オリザの影響下にある演出家って、揃いも揃って女優にカマトト芝居させるんだよね。気持ち悪いったらありゃしない。
ぽわん:ううむ、そこに関しては私は特に賛同しないかな。だいたい、『わが星』は幼児の世界なので、ある意味徹底されているんじゃないかな。幼児の目を通して生と死をとらえたという・・・。『わが星』が支持される理由の一つに、生命讃歌があると思う。「人生はいつか消えてしまうからこそ、愛おしい」みたいなところを、柴幸男はすごく身近なレベルで書いたんだよね。ただ、残念なのは死を本当に直視しているようには見えなかったこと。
たぬき:私たぬきが人生で最初に死を意識した幼稚園児の時、その心象風景は卒塔婆とサンドストームが入り混じったようなとても怖い光景だった。とてもじゃないけど「人は死んだら星になる」みたいなファンタジーの介入する余地はなかったよ。『わが星』が奇麗事に終始してるのは言うまでもないけど、この作品が人生の本質を突いてるという意見には断固として反対しないわけにはいかない。
ぽわん:言えてるなー。少なくとも、この作品を絶賛しているひとや泣いたと言ってはばからないひとは、これが奇麗事だってことは認めるべきだね。


「右へならえ」で褒める風潮への違和感

ぽわん:それにしても本当に、『わが星』への評価は大絶賛だね。なんか、ネット上でも好評ばかりで、けなしにくい雰囲気じゃない? みんなが同じように「感動した!」って言っているのは、まあ本心からなんだろうけど、影響受け過ぎ? 付和雷同というか全体主義みたいで気持ち悪ーい。中には『わが星』は『わが町』よりスケールが大きいなんて意見も見たけど、冗談じゃないな。「町」と「星」だからそっちのほうが大きいなんて言うべきじゃないよね。神は細部に宿るんだよー!? まあそれはともかく、ワイルダーの『わが町』には、多様な人間や多彩な価値観が描かれているし、登場人物に血が通っている。にもかかわらずそれが宇宙規模に結びつく点にすごさがあるんだよ。一方、『わが星』の登場人物はぜんぶ、作者が言いたいことのシンボル、記号でしかなくて、つるんとしている。まあこれについては、作者も自覚しているだろうし、『わが町』とのスケールなんてことを言った第三者を批判してるだけなんだけどね。
たぬき:『わが星』が『わが町』よりスケールが大きいって感じた人にとっては、たぶん子供銀行の一億円札とか百兆ジンバブエ・ドルとかのほうが日本銀行の一万円札より価値が高いんだよ。そっちのほうが数字が大きいってだけで。信頼性とか考えないんだよ。
ぽわん:辛辣ですね、たぬきさん。
たぬき:物事に正直なだけだよ(笑)。
ぽわん:ちなみに、私の友達(ねこじゃないひと)二人が口を揃えて「幼稚な文系男子の夢物語」みたいなことを言ってたけど、文系男子のたぬきさんはその指摘をどう思う?
たぬき:まあ確かに、柴幸男が相対性原理のことをなーんにも知らないってのはよく分かるけど(笑)。
ぽわん:相当、ナイーブな作品だもんねえ。でも不思議なのは、若者だけじゃなく、いい年したおっちゃんも褒めてるってことだね。佐々木敦とかいとうせいこうとか。まあどっちも演劇のプロじゃないけど。
たぬき:ただの新しがり屋どもは後年恥をかくことになるだろうね。賞味期限の極めて短い表現って要するに一発屋のお笑い藝人と同じという事実から目を背けてほしくないよ。いわゆる助成演劇は賞味期限の引き延ばしに寄与してるみたいだけど。そういえば、この作品を岸田國士戯曲賞に推した一人である宮沢章夫は再演で初めて生の舞台を観て、なんとも歯切れの悪いtweetを残したね。「ある種類の人にとって受け入れがたいものも感じ」とか「僕も、いやなものを感じたかもしれない」とか。ただ、それに続く「しかし、すーっと私のなかに入って来たのは、演出する柴君の資質と、だからこそ生まれる表現を肯定できたからだ。」というのは自己撞着。「肯定できた」っていう言い回し自体が己の中での葛藤を表してる訳で、それと「すーっと私のなかに入って来た」という表現は矛盾している。
ぽわん:迷いながら自分を説得している印象だよね。
たぬき:なんで彼がそういう言い方をしてるかと言うと、「ある種類の人にとって受け入れがたいものも感じ」と彼が書く時、宮沢自身の中に確実に「ある種類の人」が存在してるからだ。そしてその存在を抹消しなければならないのは、それを認めてしまうと、その作品に賞を与えた自分を否定する、つまり「私は戯曲から実際の舞台成果を想像できない無能な人間です」と告白してしまうのと同義だからだ。
ぽわん:そう考えると、“自分は納得していないけど、今後に期待!”っていうようなことを書いた鴻上尚史が一番真っ当? わー、鴻上に共感する日が来るなんて思わなかったなあ(笑)。
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2011年03月28日

つかこうへいの遺したもの〜NHKのドキュメンタリー『つかこうへい よみがえる伝説の舞台』&アル☆カンパニー『冬の旅』に思う〜

つか芝居の「口立て」の持つ意味は?

ぽわん:この週末にNHKのドキュメンタリー『つかこうへい よみがえる伝説の舞台』と、アル☆カンパニー『冬の旅』を観て、ちょっと思ったことがあるんだけどね。
たぬき:もうすぐ、つかさんの一周忌だ。早いねえ。
ぽわん:ぽわんはつかこうへい作品や、それ以後の小劇場芝居も好きなんだけど、今日は敢えて、そこに存在する問題点を考えてみたいんだよね。というのも、早口でまくしたてることがある種の陶酔感を作っていったのは、ぽわんも観客で体験していて、否定しないんだけど、そこで演技の限界が生まれたとも思うの。
たぬき:実はわたし、こと、たぬきも『熱海殺人事件』を演ったことがあるんだけど、あれは気持ちいいもんだねえ。
ぽわん:うん。演る側にも観る側にも麻薬みたいなものがあるのが、つか芝居の特徴だよね。でも、麻薬には依存性と副作用があるでしょ。それが今の演劇界を貧しくした面もあるんじゃないかしらん。つまり、つか芝居は面白かったけど、流行してそういうのばっかりになっちゃったことの功罪。主に思うのは、俳優なんだけど……。
たぬき:基本的に技術が要らないからね。「俺を見ろ! 俺が芝居だ!」というナルシスティックなテンションだけで保たせるというか。
ぽわん:まあ、ある種の技術というか体力・瞬発力みたいなものも必要だとは思うけど、俳優としての基本スキルをすっ飛ばしている印象があるかな。たとえば、つか自身が自ら台詞の言い方を実践してみせる、有名な「口立て」があるよね。あれは、台詞回しはこうあるべき、というものが確立されていない日本ではある程度有効というか、そうせざるを得なかった部分もあると思う。蜷川幸雄も稽古場では台詞を自ら言って聞かせるそうだし、つまり、そうやって手取り足取り教わらないと、芝居としてちゃんとまとまらない、という事情があったんだろうねえ。ただ、あれは俳優から、考えることを奪うとも言えるかもしれない。
たぬき:ふむふむ。
ぽわん:平田オリザはNHKのドキュメンタリーで「つかの登場で、戯曲は俳優のためにあるということに変わった。それを引き出すためには口立てはものすごく有効だった」みたいなことを言ってたの。でも同じ番組で小西真奈美が、いみじくも「つかさんが演じるのが一番面白い」と語っていて、納得したなあ。つまり、つか芝居での“俳優の魅力”とは、つかこうへいの代弁者になること。現場で即興的に作るとは言っても、作る主体者はつかなんだし。
たぬき:つかさんの芝居は、差別される人間だけが持つことの出来る輝きが身上な訳で、それはつかさん自身にとって一番切実なテーマだった訳だからね。つかさんが役者に考えるスキを与えないような台詞回しを要求したのは、ひと言で言って役者に精神的に裸になってもらいたかった訳だけど、その上に着せる衣装は、大音量の「白鳥の湖」とか原色の照明とか、案外ワンパターンではあったね。
ぽわん:つか本人もワンパターンであることは認めているね。もちろん「裸にする」ことでその俳優の新たな魅力が、つかというフィルター(プレッシャー?)を通して出て来るのは確かで、つかや遊眠社、第三舞台といった、いわゆる小劇場演劇の、早口でまくしたてるエネルギーは、追い込まれた俳優のエロティックな魅力とか、ある種のテンポを俳優の中に作ることには成功した。筧利夫なんてその成功例だし、阿部寛みたいにタレントでつかのおかげで成長したひとも。最近ではチョウソンハもその例に挙げてもいいのかな? みんな魅力的だけど、でも、メソッドはメソッドでしかない。劇団四季の発音ってすごく変だけど、平幹二朗は今でも浅利慶太に感謝の念を述べているし、実際、台詞回しはすごくいい。でもみんなに当てはめることはできないのかも。
たぬき:つか芝居ってのは本来、要するに音楽で言えばパンク、絵画で言えばアクション・ペインティングみたいな、ひとつのジャンルが技術偏重になった際に必ず起きる、ある種の先祖帰りなんだよね。そのパンクだって、今や「青春パンク」とかの人生応援歌になっちゃったらしいけど、ただ、件の劇団四季の朗唱術はじめ、テクニック一般がひどく欺瞞的に思えちゃって、そういうのをチャラにしないと気が済まなかったという時代があったという面と、逆に言えばその時代は若者文化がヘゲモニーを握った、要するに若者特有の性急さがすべてに優先したという2つの面があると思うんだ。だから、もはや中年に差しかかった我々ゆえに、技術云々が気になり出しただけなのかもね。
ぽわん:わたしはまだ中年に差しかかっていませんっ! ともかく、パンクとしての機能よりもメジャーになってしまい、演劇人たちに多大な影響を与えているからこそ、その功罪に目を向けているわけで。それに、韓国の観客に今ひとつ受け入れられなかったのは、中年とかそういう問題じゃないと思うんだけど、どうなの?
たぬき:それはやっぱり言葉の問題じゃないのかな。つかさんにとっても韓国公演の失敗が持つ意味は大きかったみたいだけど、90年代以降の野田秀樹の演劇活動は、夢の遊眠社イギリス公演の挫折を考慮しないと分からない面があるし、ランゲージ・バリヤーって、島国日本にいるとなかなか実感できなんだよ。
ぽわん:でも、それを言うなら、言語感覚の違う日本の若者世代にも、通じないかもしれない。となると、つか的世界は古いのに、作り手・演じ手には多大な影響を与え続けているというのは、一つの矛盾じゃないかなあ?


つか芝居の負の遺産!?

ぽわん:やっぱり、何が気になるかっていえば、つか的な演技が未だに演劇界で尾を引いている気がすることなの。つまり、考えるよりも先に勢いよく台詞を叫ぶのがうまい俳優はいても、じっくり考え、冷静かつ豊かに話すことができる俳優って圧倒的に少ない。まあ、それをつか芝居と完全に同一に考えるのはおかしいかもしれないけど、あのね、こないだアル☆カンパニーの『冬の旅』を観たんだけどね……。
たぬき:ご存知、つかが生んだ俳優夫婦、平田満と井上加奈子のユニットだね。
ぽわん:この『冬の旅』は松田正隆が書いたものなんだけど、「語り」にすごく力点を置いているの。ぽわんはアル☆カンパニーがけっこう好きなんだけど、この語りがうまくできていなかったの、平田満も井上加奈子も。
たぬき:井上加奈子は長く患ってらしたから、ちょっと厳しいかもしれないけどね。
ぽわん:でも平田満も、だよ。素敵な味わいのある俳優なのに、じっくりと台詞を聞いていられるタイプの俳優じゃないんだなあと、ちょっと意外にすら感じた。もっと短い台詞の応酬なんて、アル☆カンパニーでも二人とも上手かったと思うんだけど、やっぱり、長ーく語るとなると、この二人でも聞いててしんどいんだなあと思った次第なんだよね。例えば、長く語る際、本当の意味で台詞術みたいなものがしっかり身についていないと、抑揚をつけたりじたばたと動き回ったりして、余計に集中して聞くことができないというか、静かに地に足をつけて語るということの難しさを、観ていて実感したよ。
たぬき:今でもやっぱり、引き出しをいっぱい持ってる新劇畑の人はしゃべりが上手いよ。
ぽわん:だけど新劇の集団は今や風前の灯火だし、新劇の世界でも若い俳優はヘタだよ。そう考えると華が重要というのは事実なんだけど、それを重視する余り、技術の備わることがなかったという残念な俳優が今、新劇にも多いかも……。
たぬき:声楽家と同じで、体が楽器みたいな面は間違いなくあると思うんだ。安物の楽器だと絶対に良い音が出ないのと同じでね。
ぽわん:でも、良い楽器もメンテナンス次第じゃん。
たぬき:そうだね。でも小劇場にせよ新劇にせよ、やっぱり役者として長く成功するためには素質の占める要素は大きい気がする。そう言う意味では、つかさんはいわゆる時分の花を最大限に利用したんだね。
ぽわん:ある意味、客が呼べる俳優を主役にすることばかり重視せざるを得ない日本の演劇界自体が、時分の花しか使えないのかも……。
たぬき:全くだね。ちょっと上手くなり始めた頃には呼ばれなくなるという。
ぽわん:ドキュメンタリーではつかが「F1をみんな観たがる。車庫入れのほうが難しくてもそれを観る人はいない」と言っているけど、車庫入れを面白く観られることが、今、必要なのかもしれないよ。今の発言は98年の韓国公演の会見での発言だけど、その韓国公演では「面白いけど散漫だ」みたいな反応が多くて、これは本質的。日本ではそれがむしろいい、といった感じで一世を風靡したけれど、もう限界に来ているのかもねえ。
たぬき:でも、唐の亜流も野田の亜流もほとんどいなくなっちゃったけど、つかさんの亜流だけは未だに盛んなんだよね。
ぽわん:それはきっと、唐も野田も一応現役だけど、つかこうへいが最後のほう、完全な意味での新作を書けなかったせいもあるかな?
たぬき:つか芝居のスペクタクル性は大劇場にも応用出来るからというのと、今の演劇界の中核がつかさんの衝撃をまともに受けた世代だという2つの理由なんじゃないかな。
ぽわん:でも後者については唐・野田もそうなんじゃないの?
たぬき:唐さん世代は今や引退気味だし、野田さんのバタバタ走って言葉遊び連発、というのは彼のトレードマークになりすぎてて、今やるのは恥ずかしいんじゃないかなあ。
ぽわん:恥ずかしいというより、できる人があまりいないとも言えるのかな?−−ところで、なんでたぬきさんは、ほかの劇作家は呼び捨てなのに、「つかさん」って言うの?
たぬき:わたし、こと、たぬきみたいなしがない猫にさえ"さん付け"させてしまう、そのくらいつかこうへいという存在は大きいんですよ……。
ぽわん:野田秀樹&鴻上尚史に影響を受けたのかと思ってたけど。
たぬき:野田みたいに飛び跳ねるのは無理だけど、正面向いて身の上話を滔々と喋るのはそんなに難しくないと感じてた。鴻上は、たぬきに言わせればつかの亜流です。
ぽわん:つまり、野田はちょっと異色で、でもつか芝居は頑張れば手が届きそうな気がして、親しみが持てたってこと?
たぬき:というか、頑張る必要すらなくて、単に体力との戦いだった。野田は異能の人って感じだったけど、つか芝居は誰にでも出来る気がした。
ぽわん:つまり、確固たる演技メソッドがなくても、それをやれば達成感と陶酔が持てた。その快感みたいなものがみんな忘れられなくて、演劇界に今でもつか信奉者が多いのかなあ?
たぬき:そうだね。誰でも15分だけはスターになれるというやつだ。正確に言うと「誰もが15分だけは有名になれる」byアンディ・ウォーホル、だけど。
ぽわん:みんなスターになりたいってこと? 確かにスター芝居も楽しいよ。でも、アンサンブルの妙や台詞そのものが浮き上がってくるような職人芸も、わたしはたくさん観たいんだよね。つか的な呪縛は、いつ解けるんだろう……?
たぬき:ぽわんさんもそろそろ大人だねえ。
ぽわん:ちょっ! さっき、中年って言ったじゃんか!!
たぬき:中年は憚られるので大人にしてみました(笑)。
ぽわん:ふーんだ。「中年」だの「大人」だのじゃなくて、呪縛のない「若者」に期待するかなあ……。
たぬき:つか芝居は、端的に言って、俳優教育で言う「感情解放」の段階で敢えて止まったものと言えるのかも。だから、そこから先に行くことが必要だね。
ぽわん:さて、いつごろ、どういうかたちで実現するかなあ? ゴドー待ちみたいにならないといいなあ。

posted by powantanuki at 19:30 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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