2014年10月22日

ダミアーノ・ミキエレットと中屋敷法仁 - 二人の若手演出家をめぐって

才人が陥るワナ!?

たぬき:ぽわんさん、実は私たぬきには、昔から「この2人は資質が似てるなー」と思ってる演出家がいてね。
ぽわん:んにゃ? たぬきさん、ひさしぶりだねえ。で、誰と誰ですか?
たぬき:えーとね、日本の劇団・柿食う客の主宰・中屋敷法仁と、イタリア出身のオペラ演出家、ダミアーノ・ミキエレット。こないだの東京二期会のミキエレット演出『イドメネオ』を見て、改めて思ったんだよね。
ぽわん:ふむふむ。で、どこが似ているの?
たぬき:二人の共通点と言えば、面長だけど端正な顔立ち(まあ顔自体が似てるって程じゃないけど)、まだ比較的若いのにあちこち引っ張りだこの売れっ子であるとこ、舞台作りが今風のポップなアイディア満載で、演出家としての才気をとっても感じるところ、などなど。
ぽわん:あー、まあそうかな? でも、わざわざ指摘するからには、何かその先に、たぬきさんが言いたいことがあるんですね?
たぬき:そうなんだよね。彼らの最大の共通点は、ほんとに独創性があるかっていうと疑問なとこと、手つきがいかにも優等生的で、毒もなければ社会に対する批判精神もない、要するに健全なノンポリだってこと。
 えーと、いわゆる読み替え演出派の中でも、ミキエレットはとにかく場面のつなぎ方がうまいよね。人物の出捌けが、いかにも自然に見えるよう念が入っている。新国立劇場の『コジ・ファン・トゥッテ』を見た人なら納得してくれるんじゃないかな。以前「劇作家の腕は人物の出捌けに出る」と言ったことがあるけれど、それは演出家に関しても言えることなんだよね。
ぽわん:こないだの『イドメネオ』では?
たぬき:うん。あれでも、たとえば、自然に人物を出入りさせるための嵐の扱い方は冴えていたし、特筆すべきは小道具の出捌けだったね。能や歌舞伎だと、不要になった小道具は後見や黒衣が持ってっちゃうけど、近代劇ではそうはいかないから、舞台に残っちゃった小道具は、うまいことどこかの段階で捌けさせないといけない。『イドメネオ』は所謂ダカーポ・オペラだから、アリアは繰り返しが必ず入る。歌詞もまったくの繰り返しだから、同じ事やらせても藝がないということで、1番で喜怒哀楽をひとしきり表現した後で、繰り返しに入った段階で、舞台上の小道具を処理しつつ、次の場面への転換や布石として有効に使ってた。冒頭のイリアのアリアでは、ト書きでは舞台にいないはずのイダマンテを小道具として(!)出して、彼女のイダマンテへの愛と、にもかかわらず(イダマンテがちょっと精神的に不安定だったりして)告白をためらう理由を表現してたし、その後のイドメネオのアリアでは、繰り返しに入ってから、イリアが前の場面で置いていった産着をイドメネオの手で砂の中に埋めさせることで、小道具を捌けさせると同時に最後のオチへの伏線となっていた。3幕のアルバーチェのアリアは、怒りにかられて舞台に積み上がったスーツケースを続々に放り出すという動作が、同時にステージ中央エリアを空けるための舞台転換にもなってるというね(笑)。
ぽわん:若いのに手練で、いいじゃないですか!


優等生よ、無茶をしろ!

たぬき:さてさて、本題に戻ろうかな。今回の『イドメネオ』は、砂上(ほんとはゴムだそうだけれど)に無数の靴がばらまかれた抽象舞台で上演された。エレットラだけ突飛な衣装を含め、セノグラフィは全体にとても調和が取れていて、ぽわんさんの持論「センスがないと抽象化はやっちゃだめ」の基準は当然クリアしている。
ぽわん:はいはい。
たぬき:だからといって万々歳とはいかないのは、やっぱりさっき言った独創性の問題。全編が砂の上というのは、ロバート・カーセンがピナ・バウシュをパクって何度かやってたし、ト書きの指定ではそこにいないはずの歌手を出すのも読み替え演出の常套。ヒロインが妊娠してるとかラストで胎児が出てくるというのはバイロイトの名物で、ゼバスティアン・バウムガルテンが『タンホイザー』で、ハンス・ノイエンフェルスが『ローエングリン』で先にやってるし、ザルツの『ラ・ボエーム』は、どう考えても『RENT』の逆輸入。新国立劇場『コジ』の、舞台全体をゆるいドーム形の野原にしてグルグル回すというやつは、クラウス・グートの『ドン・ジョヴァンニ』のイタダキだ。
ぽわん:まあ、パクりパクられっていうのは以前も我々、話題にしているけど、パクりにもやっぱり仁義というか手法というか、パクりでは終わらない“何か”がないといけないね。今回のミキエレットの演出がその点で“何もない”とは言わないけど、強烈な独創性とまではいかなかったかもね?
たぬき:うん、それこそ「パクられる側」に回るほどのオリジナリティは生み出せてない。ただ、ミキエレットって、大っぴらに「パロディです」「メタレヴェルの出来事です」と触れ回ることでパクリを糊塗しようとする感じのカーセンよりは節操を感じるし、ドイツ系演出家のこれ見よがしな露悪趣味もない。ただし同時に、人間性に対するシニカルな視点もなくなっていて、やっぱり優等生だねえ。
 あとやっぱり、社会に訴える力の欠如は気になるんだよ。前も言ったとおり、読み替え演出とはそもそも、「オペラに社会性を」ということから始まったもの。彼らの世代としては「オペラを現代化すること自体がひとつの社会性の現れであると同時に、オペラという固定化したジャンルに対する批評である」みたいなつもりなんだろうけど、それは同時に、中屋敷の女体シェイクスピアシリーズにも言えることかも。
ぽわん:擁護するわけじゃないけど、オペラにしても演劇にしても、社会に問題を突きつけるばかりではなく、かといって古色蒼然としたださい内容でもなく、そこそこセンス/腕のいいものがあってもいいと思う。その点は、二人ともクリアしているのでは? そうやって上演して、そこに自ずと社会性が浮かび上がる、と彼らは自作について考えているかもしれない。
たぬき:まあ、実際、今回の『イドメネオ』だって、砂上に散乱する無数の靴を見て、東日本大震災やスマトラ島沖地震のことを思い出した人もいるかもしれないよね。でも、本来読み替え演出ってのは、作品をト書きの時代設定から離して、作曲家が生きた同時代なり何なりの、ある危機的な社会状況(←ここ重要)に対応させた形で先鋭化し、そこと現代の観客の立場とを対決させるという点にあったはず。彼らは外面のアップデートには熱心だけど、その一方で作品の根源に還る事を怠っているとは言えないかい?
ぽわん:けど、二人とも若者の風俗を、古典の中に取り入れてはいる。それは社会状況を描いてはいるんだけどね。そのことを、対決と言えなくもない・・・けど?
たぬき:うーん、やっぱりそれだけじゃ物足りないね。観客に匕首を突きつける、あるいは虚無へ突き放すような何かが欲しいってことかな。ほら、数年前に中屋敷がゴーゴリの『検察官』を演出した事があったじゃない。あれ、最後に自分の勘違いに気付いた市長が、本来は自分の周囲の登場人物に向かって言うはずの「あいつらのせいだー」の台詞を、敢えて客席に向かって言わせてたけど、その場面の毒のない事と言ったらなかった。異化効果ゼロで全然こっちに刺さってこないばかりか、「ふふふ、これが僕の斬新な解釈ですよ」と北叟笑む演出家の顔が思い浮かぶばかりでね。ほんと、優等生の限界だよ。
ぽわん:でも、優等生にも意地ってやつがあるはずなんだよ。彼らには、中途半端な周囲の評価に甘んじることなく、高みを目指してもらいたいものだね!
たぬき:ほんと、従来のファンをバッサリ切り捨てるような問題作に挑んでほしいね。四十過ぎると、発想も依頼もどんどん狭くなっちゃうよ・・・とは言うものの社会派オペラ演出家の雄、たとえばジョルジョ・ストレーレルとかパトリス・シェローあたりも、結局のところ、オペラという制約と不自然のカタマリである藝術を、いかにも自然な舞台劇というか、美的な完成品としてプレゼンテーションするその技量によってのみ評価されるというか、彼ら自身そこに立ち戻っちゃった面はあるよね。現在が「政治の季節」ではない以上、彼らのノンポリぶりは渡世として当然のことなのかもね。
ぽわん:おや、いきなり諦めの境地ですか?
たぬき:というか、今のとこ彼らは技量がグングン伸びてるというより、どっちかというと早くもルーティンな感じがあるよね。今のままだと、文学だろうとスポーツだろうとどこの業界にもいる、「案外伸びなかった早熟の天才」みたいなとこに落ち着いちゃうよ。やっぱり若いうちは誇大妄想的に無茶をやらないと!
ぽわん:「若者よ、無茶をしろ!」という言葉を、ミキエレットと中屋敷に捧げるとしましょうか。
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2013年09月13日

第一回ABKAIに見る、限界あれこれ

『はなさかじいさん』はなぜ失敗作か

ぽわん:たぬきさん。過去に宮本亜門についてここで触れ、宮沢章夫についてはほんのちょっとだけここで触れた我々だけど、この二人が組む公演が、意外なかたちで実現したね!
たぬき:市川海老蔵の自主公演ABKAIの『疾風如白狗怒涛之花咲翁物語。〜はなさかじいさん〜』だね。
ぽわん:ぜひとも成功させたいだろう海老蔵自らメディアで大宣伝したせいか、いろいろあって不入りだった3月のル テアトル銀座とは対照的に、札止め満員だったのはひとまず目出度いとして、作品的にはどうだった?
たぬき:うーん、ホントにつまらなかった。これはまず第一に、宮沢章夫の脚本に原因があると見る。歌舞伎台本作りのイロハを知らないし、葛藤や劇的アイロニーの作り方にも習熟していない彼の弱さがモロに出ていたね。
ぽわん:たとえば?
たぬき:2役を兼ねる海老蔵がまず演じるのは、最後に枯木に撒かれることになる例の白犬。ここでの彼の演技プランは、基本的に「義経千本桜」の狐忠信がベースになってるんだけど、歌舞伎台本において「人外者」はたいてい超人的な力を持っている訳で、その意味で、犬なのに平気で人間の言葉を喋ったり、鬼ヶ島で鬼を相手に闘ってきたこの犬に、狐忠信風の芝居はひとまず合っているようにも思える。でも、狐忠信にせよ「蘆屋道満大内鑑」の葛の葉にせよ、歌舞伎の世界において、善人側に立つ「人外者」は、最後までその超人的な力を失うことはないんだよね。「伽蘿先代萩」の仁木弾正みたいに、最後に術が破れるのはいつも悪人側。なのにこの芝居、人間並みの知能を持ち、鬼ヶ島で大活躍できる程の賢くて強い犬が、ラストで民衆にあっさり殺されるのかが全く説明されてないんだよね。
ぽわん:殺される直前まで、多勢を相手に大立ち回りを見せていたのにねえ。あれは偶然?うっかり?刺されちゃったみたいなことだったのかなあ?
たぬき:プロット上の欠陥だと言わざるを得ないよね。別にそれまで不条理劇として進行していた訳じゃないんだから。
ぽわん:もっとも、それは宮本亜門の演出の問題かもしれないよ。その場その場を盛り立てることに終始する、一貫性のない演出だったからねえ。あと、歌舞伎俳優は自分でも作品作りに関わりたがるもの。ましてや、これは海老蔵の自主公演だからね。つまり、宮本亜門か宮沢章夫も不本意に手を入れられた可能性はある。
たぬき:いや、宮沢はこの件に関して、「僕の書いたものは、だいぶ台詞が削られていたものの、構造と、削られると困る残したい台詞はあった 」と言っているから、要するに最初からあの程度の構造だったということだ。彼はどうやら花咲か爺の昔話と東日本大震災とを二重写しにしたかったらしいんだけど、彼にとって「削られると困る残したい台詞」とおぼしき幾つかの妙な説明台詞は、ストーリーから完全に浮いていたねえ。
ぽわん:まあツイッターとはいえオフィシャルトーク?だから、本当は削られた残念なところが多かったかもしれないけどね。
たぬき:あと、亜門の仕事だけど、中劇場の割にはプロセニアムをはみ出す演出がお約束なあの劇場では、正直見飽きた手法のオンパレード。海老蔵の演技プランは本人の独断だったかもしれないけど、それ以外の舞台処理に関して亜門の抽斗がカラッポだったのも事実だね。もし「この芝居は歌舞伎愛好家に向けられたものじゃない。「四の切」とかと比べるもんじゃない」というエクスキューズが本人たちの中にあるとするのなら、我々はいかにも志の低い芝居を見せられた事になる。
ぽわん:まあ、新作歌舞伎と銘打っている以上、従来の歌舞伎と距離をどう取るにせよ、その距離は明確であるほうが志が高いといえるかしらねえ。
たぬき:既存演目への批評性なんて何も感じなかったからね。鶴屋南北の先行作に対する接し方を見習ってほしいよ。あと、プロット上の欠陥は他にもある。いちばんの問題は、悪玉となるべき得松爺と善玉である白犬の両方を海老蔵が兼ねてるせいで、ドラマ的な緊迫感が全くないこと。「善玉と悪玉が同時に出ることは禁じられているにも関わらずしっかりサスペンスを作る」みたいな高等手段は、宮沢の手に余ったね。
ぽわん:芝居で2役、それも善玉と悪玉の両方をやるというのは、歌舞伎ではアリな気がするけど?
たぬき:うん。例えばそういうのの代表作である「伊達の十役」だと、吹き替えを多用するのはもちろん、裁く側と裁かれる側を同一人物が演じる場面では、どちらかの不在を補う代理人的ポジション、所謂アナの役が出てくる。そういう行き方はこの少人数の座組では最初から無理だし、吹き替えは『蛇柳』で全面的に使っちゃってるから、二度も同じ手を使うのは藝が無い。となると残る手法としては、フランス古典悲劇みたいに不在の人物を台詞で想像させるしかないんだけど、要するに作家にそこまでの技量はなかったってことだ。民衆に、何の躍動感もメッセージ性もないシュプレヒコールもどきをやらせるのが精一杯なんだからね。
ぽわん:まあ、最後くらいは祭りにしたかったのかな。
たぬき:見易い欠点をもうひとつ挙げると、犬の命が狙われてるから飼い主夫婦は家に籠っているという設定なのに、件の悪玉・得松爺のところへ飼い主夫婦の片方・セツ婆がノコノコ出かけて行ったりするのは明らかにおかしい。そうしないと話が転がらないってだけでこんなルール違反をやらせる、余りのご都合主義にうんざりしちゃった。ほんと、花咲か爺の昔話と東日本大震災を二重写しにしてるヒマがあったら、他にやるべきことが山ほどあるだろうよ。


宮沢・海老蔵それぞれの課題

ぽわん:冒頭で書いた通り、宮沢章夫についても宮本亜門についても過去に言及したことのある我々だけど、まあ宮沢については短かったので、ちょっとここで書いてみようか。今回は歌舞伎俳優の自主公演ということで特殊だったかもしれないけど、たぬきさんはこの作品に、それにとどまらない宮沢の限界を見たんだよね?
たぬき:ナンセンスを出発点に、平田オリザ〜岩松了〜チェーホフ〜別役実〜中上健次〜青山真治などなど、宮沢章夫は節操無くいろんなものから影響を受けて来たけれど、いずれにも共通してるのは、どれもこれもあまりに表面的なカブれ方にすぎなくて、彼が影響を受けたものを元から知る人間にはネタが割れすぎてつまらないものばかりであること。
ぽわん:ふうん。たとえば?
たぬき:90年代半ばは平田オリザの影響をモロに受けて多重会話とかやってたし、ドラマの核心をわざと回避する岩松了の方法論も真似してたし、すぐに「三人姉妹」と「かもめ」の構図を借りてくるし、会話のずらし方は別役だし。勿論そのどれもがオリジネイターたちには遠く及ばないし(大概中途半端な模倣なんだよね)、模倣し折衷することによって「演劇の可能性」が広がったりする訳でもない。だって、要するに場当たりを狙ってるだけなんだから。いつも「あーこの場面、作り手はキメてみせたつもりだろうけど役者体も言葉も薄っぺらいから演劇空間として全然成立してないよ」みたいなのばかり。彼の薄っぺらさが幸運にもある種の同時代性を帯びることができたのは、ほんの数年間の出来事だと思う。
ぽわん:その数年て言うのはラジカル・ガジベリビンバ・システムの時代?
たぬき:うん。あと、薄っぺらさがある種のリアリティを持っていたという点では、オウムと阪神大震災の年である95年以前の2、3年を加えてもいいかもしれないね。
 いずれにせよ、今回も昔話と歌舞伎を表面的になぞってみただけ。こういうやり方で宮沢が今までやって来られたことに関しては、作り手側の浅薄なカブれっぷりを自分たちへの知的な(?)目配せと取り違え、ナイーヴに称賛してきた評論家にも大いに責任がある。彼らも反省してほしい。
ぽわん:『はなさかじいさん』に関して言えば、知的な目配せとは、本人も思ってないんじゃないかなあ。わからないけど。繰り返しになるけど、内心、忸怩たるものがあるかもよ。
たぬき:うん。確かに今回の脚本には、彼が昔話にも歌舞伎にも何の造詣も無かったことも、そのハンディをはね返すだけのセンスがなかったことも一目瞭然だったね。
ぽわん:さて、主宰の海老蔵についても少し触れておこうか。わたしに言わせると、犬の演技では「なんでもやるぞ」っていう気迫は感じたけど、悪玉の得松爺の台詞回しにいつもながらの変な抑揚があったなあ。
たぬき:海老蔵も演技の抽斗が多い訳ではないから、単に間の抜けた荒事みたいになっちゃってたね。もう1本の『蛇柳』も良くなかった。松羽目をアレンジした言わば柳羽目をバックに、「保名」、「娘道成寺」、切能もどき、あと「押戻」… そんなのが取っ替え引っ替え出てくるんだけど、新作舞踊的な華やかさで行くのか、松羽目ものの格調高さを狙うのかの焦点が絞れていない。冒頭の衣装がとっても和モダンで、なんだか隣の東急本店で買って来た安っぽい感じなのに、長唄の謡がかりが変に本格的で長唄本来の良さを失ってるし、乱拍子は決まらないわクドキは恋情がまったく伝わらないわで困ったし、良いとこを見つけるのが大変だったよ。
ぽわん:もうちょっと踊りがうまかったり、変化がつけられたりしたら、だいぶ印象違ったと思うんだけどねえ。
たぬき:うん。吹き替えで出てた人が、顔全面を隈取りで覆ってるせいもあって相当海老蔵に似てて、あそこまで似せられるんだから、変に顔を隠すと逆に吹き替えだってバレちゃうよ、もっと堂々としててもいいんじゃないのって気がしたね。
ぽわん:それはしかたないよ。吹き替えには吹き替えの領分ってやつがあるだろうし。あれでもだまされた人、いっぱいいたし。それより、吹き替えの時間を短くしてほしかったな。
たぬき:あそこは愛之助の見せ場だから、ある程度の時間をあげたのかな。押戻しに替わるのも一苦労だろうし。とは言え、あまりに時間をかけると吹き替えが長く舞台に居すぎるというジレンマが… この辺は少人数の座組ならではの遣り繰りの大変さだね。
ぽわん:海老蔵に関して言えば、演技や踊りの方向性にしろ、演目選びにしろ、体力に物を言わせてその場を乗り切るだけじゃなくて、もっとじっくり考えてほしいものだねえ。本音を言えば、次は宮沢&宮本コンビじゃない人に頼んでほしいなあ。まあ誰に頼んでも、本人がそれを生かせなければ意味ないけどね。
たぬき:仄聞するに、彼には良いブレーンも付いてなくて、周囲はご機嫌取りばかりみたいだね。今年3月、当初の予定通り栗山民也の演出でイアーゴーを演じていれば、ワンマンの芝居とは違う何かが分かったかなあ? とはいえ商業演劇では手心を加えなくもない栗山だから、大した成果にはならなかったかもねえ。
ぽわん:海老蔵に関しては、多くのファンが期待しては脱力し失望してきたんじゃないかと思う。それでもまだ若いから見守っているけど、若さはなくなっていくのだから、まもなく彼の正念場だろうねえ。
たぬき:自己を過信しているというか、己が伝統(と革新)を受け継ぐ存在であるということに対して楽観的すぎると思うんだよね。そりゃあ彼が口上で「ひとつにらんでご覧にかけ」れば、江戸の市民が團十郎のにらみで瘧が落ちると信じたのもむべなるかなって感じの大迫力だけど、黙阿弥の白浪物なんかだと、渋谷センター街にたむろするグレた若者にしか見えなくて、全てがブチ壊し。彼は天性の荒事師であるにせよ、備わっていないものがたくさんあることを自覚してほしいね。最近は、彼が妙な芝居をやると客席からクスクス笑いが漏れるけど、あれは決して彼のユーモアとか愛嬌にウケてるんじゃなくて、単に失笑してるだけだってことを肝に銘じてほしい(笑)。
ぽわん:無理矢理、宮沢章夫、宮本亜門、海老蔵に共通することを言うなら、有名な割に実力がいまひとつで、やりたいこととやれることが違うってことかなあ。そう考えると、実に象徴的な第一回ABKAIだったと言えるのかもしれないね。
たぬき:要するに、3人ともお山の大将なんだよね。山容とか標高は三者三様だけど(笑)。
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2013年02月15日

岸田國士戯曲賞2013発表記念!?(ウソ)〜KERA vs 蜷川幸雄『祈りと怪物』〜


KERA戯曲はありやなしや?


たぬき:今日は、今年の岸田國士戯曲賞が発表になったことで少々(?)湧いている演劇界にちなんで、その選考委員でもあるKERAが書き下ろし、お正月をまたいでの演出家対決が話題になった、Bunkamuraの『祈りと怪物』の話をしたいと思います! そもそも戯曲として大した出来ではなかったと考えているので、まずそこから話すとしましょうか。
ぽわん:世間的には評価の高いKERA戯曲だけど、たぬきさんには今ひとつだったんだっけ。
たぬき:そうだね。わたしが見たのはKERA演出版だけだけど、戯曲として評価できないのは、商業演劇ということで分かりやすさを重視したせいか、プロットが相当通俗に堕していたのと、群像劇としてメインキャスト全員にストーリーを持たせようとしたせいか、あちこちに無理が出たということの2点だね。
ぽわん:分かりやすさ自体は、別に我々が日ごろ否定するものではないと思うんだけど、今回に関して否定せざるを得ないのはなぜ?
たぬき:筋立ては、端的に言って「三人姉妹」と「カラマーゾフの兄弟」と「オイディプス王」が、アルトマン的な階級闘争風味で綯い交ぜにされているんだけど、どれもほんとにただの借り物なんだよね。チェーホフの寂寞感もドストエフスキーの業の深さもなければ、ギリシャ悲劇の言葉の強さもない。膨らむ一方のストーリーラインを回収するので精一杯で、むろん原作に対する批評性とか現代性なんかは全然感じなかった。
ぽわん:でも、だからって作品の価値がないとは言い切れないよね。そのプロットに、もっと根本的な問題があったと言いたいのかな?
たぬき:うん。KERAって元々、引くだけ引いた伏線にうっちゃりをかけるのが上手だけど、それが不条理に傾き過ぎるのは商業演劇では許されないのか、今回はラストに向けて、見せ場とか死に場所を、小さい役から順番に配分していくだけで、要するにクライマックスらしい盛り上がりが全くなかった。今回の舞台作りは、映画で言うところのカットバック手法に近い訳だけど、映画だと、異なる場所で起きていることをカットつなぎで一瞬に接合することができるのに対し、芝居だとセットを回したり人間をはけさせたりする手間がかかるから、どうしてもテンポがノロくなっちゃう。セットを抽象でやれば少しは捗るだろうけど、KERAのこの手の芝居はいつも具象だね。やっぱり具象のリアルな手触りが欲しいのかな。
ぽわん:KERA演出版は、演劇としてはすごくスピーディーな展開だったと思うけど、もっと根本的な意味で、生身の演劇でやる時点で映像と比べてテンポがノロい、と言いたいんだね?
たぬき:そうそう。これは演劇に持ち込まれる「映画的手法」の限界。音楽ほかでその辺は糊塗してたつもりかもしれないけど、少なくともわたしことたぬきには、かったるかった。
ぽわん:けど、ちょっと待って。第一に、不条理なかたちでこの芝居が終わるのは、KERAの意図に基づくものだと思う。第二に、これを演劇における映画的手法の限界として片付けるのは早計かもしれないよ。だってそれなら、細かい伏線をすべて拾えばよかったとも言えるわけでしょ? まあ人数が多いから無理でしょってことになるんだろうけど。第一の話をするなら、KERAはこの作品では、伏線を回収しきるのではなく、細かく展開させておきながら、最後は人間にはどうしようもない大きな力(それこそギリシャ悲劇にも通じるような)によってすべての展開が無に帰す、みたいなのをやりたかったんだよ。
たぬき:でも、たとえば生瀬勝久がやってたドン・ガラスの最後は、いかにも類型的な零落って感じで、ギリシャ悲劇的な運命の力みたいなのは全然感じなかったよ。で、不条理の話に戻ると、伏線は昔よりずーっと律儀に拾ってるわけで、その分不条理さは薄味になってる。そのことが芝居を逆につまらなくしているし、その律儀さが裏目というかプロット上の無理につながってるのね。具体的にはメインキャストとアンサンブルの間ぐらいの役、エレミヤ(KERA版だと峯村リエ)とペラーヨ(同じく池田成志)。どちらも人間関係の継ぎ目として都合良く使われ過ぎてて、ストーリーラインへの登場の仕方、登場してからのアクションの方向性、プロット上で役割を果たした後での消え方、どれもミエミエなんだよね。池田はまだマシな消し方をしてもらえてたけど、峯村にはそれほどの見せ場もなかったね。
ぽわん:確かにあの奥様は唐突に消えちゃったと思う。つまり今回は、KERA戯曲としては不条理よりも丁寧な群像劇的要素が増えているにも関わらず、不条理的な大きな力で解決しようとしたところに、問題があるということかな?
たぬき:群像劇の複数プロットを一気に回収する不条理系の大技と言えば、それこそアルトマンの映画『ショート・カッツ』の地震とか、それを引き継いだ『マグノリア』のカエルみたいな例があるけど、ああいうのは演劇には応用できないんだよね。ドラマにはアクションの収斂点が要るんだけど、ああした地震とかカエルとかはカットバックが可能だから効く訳で、芝居でアクションの収斂点を作るためには、どうしても一箇所に大勢の人間を集める必要がある。登場人物がめいめい勝手なこと言ってるだけだと思われがちなチェーホフだって、劇中で一度はメインキャスト全員が揃う場面を作るよ。
ぽわん:ただ、チェーホフはこの『祈りと怪物』ほど大きな役の数が多くないよ。それにしてももうちょっと多くの人が一同に会するほうがよかった、という感じかな?
たぬき:そうだね。いくつかあるグループごとの場面が順繰りに流れていくだけで、見る側の気分としてはひたすら単調なんだよ。その代わりではないにせよ、コロスが大勢出てくる場面はあったけど、あれは目先が変わるというより、リアリズムだったら一工夫が要るけどああやったら簡単に解決できる、ただの便利な状況説明にすぎないから。ギリシャ悲劇ということでは、オイディプスもどきなネタが出てくる、ラスト1つ前の場面だけど、そもそも丸山智己の役ってあからさまに“置きに”行かされていて、あの場面以外でほとんどアクションに絡まないあの役が、ドラマツルギーの収斂点になれるはずがない。
ぽわん:確かに、あのオイディプスモチーフの使い方には、ギリシャ劇がもとだよ!というちょっとした目配せ以上の効果を感じなかったねえ。
たぬき:KERAの劇作術って、もともと本格喜劇というよりファルスに近い。「直線的に行動するけど追い込まれて逆上する役」とか「ストーリーを混乱させてアヤを作るためだけに居る役」とか「捌き役」とか、キャラクターの類型ごとに担う役目が最初から決まってることが多いし、今回で言えば被差別民とか疫病の流行とかの外的シチュエーションも、キャラクターとは無関係かあるいは皮相な次元で設定されがち。かつて井上ひさしがKERAの岸田戯曲賞受賞に反対したのも、 http://www.hakusuisha.co.jp/kishida/review43.php 要するにその辺が理由だと思う。手練れの井上には、KERAの手の内が透けて見えすぎたんだろうよ。
ぽわん:その井上ひさしだって、キャラクターは類型的だけどねえ?
たぬき:えーとね、井上の場合は、シチュエーションに応じてキャラクターが変化していくんだよ。往々にして戦後民主主義礼賛と反天皇制一辺倒とは言え。そこが相互作用していくのが喜劇ってやつなんだけど、この芝居では演劇的な変化や成長がないんだよね。
ぽわん:役を駒にして芝居を進めていくのが劇作家なんだろうけど、それが透けて見え過ぎた感じは確かにあったね。


演出対決という企画の成果は

ぽわん:今回の『祈りと怪物』の話題は、KERA書き下ろしの戯曲を、12月にKERA演出、翌年1月に蜷川演出と、2ヶ月連続で違う演出で見ることができるところにあったわけだけど、たぬきさんは後半は見なかったんだよね。
たぬき:うん。ぽわんさんは両方見たんだよね。演出はどうだった?
ぽわん:そうだねえ。KERA演出版は、自分が書いたからよくわかっていて、テンポよく進んでいたと思う。出演者の魅力も引き出していたし。ただ、戯曲への違和感とか疑問とかがない分、戯曲への批評精神といったら大げさだけど、引っ掛かりなくただ楽しませることに徹した演出になっていた気がする。まあ、こちらも先に見たのがKERA版だから、ストーリーを追っていて演出にそんなにじっくり着目できなかった可能性は否定できないけど。これに対して蜷川版の時には演出としてる余裕があったからねえ。・・・と、その前に、KERA演出版のみ見たたぬきさんはどう思った?
たぬき:大道具・小道具の過不足ない活用法は、さすがにご当人ならではという感じだった。あと、元から上手い人はしっかりノセて、ヘタな人もそれなりにちゃんとしてるように見せる、いつもながらのKERAの丁寧な手つきが見えたね。
ぽわん:そうだね。一方、蜷川のは演出家の自己主張といったらあれだけど、KERA戯曲と向き合い、演出家としてどう腕を振るうかということを忘れない舞台だったなあ。文明開化の時代を思わせる和洋折衷の衣裳に三味線でババンと始まった時には、心躍ったよ。ああいう意表をつくスタートはやっぱりうまい。視覚的なツカミや賑やかしに演出家生命を賭けてきただけのことはあるね。コロスをラップ調にするのはアイデアとしては悪くないけど、若者文化を新しがるおじいちゃんっぽいとも感じたけれど、まあ実際そうなんだからしかたないのかな・・・? 人物の配置や美術もKERA版とは正反対に近いくらい違っていて、比較されることをわかった上で、常道的なやり方、ステレオタイプな見せ方はかなり意識して排したんだろうなあと思ったよ。まあ意識的でないステレオタイプな演出なんて、どんな作品でも見たくないに決まってるけど(笑)。
たぬき:しかし、蜷川のライヴァル設定癖ってほとんど病理的だねえ。本来勝ち負けのない藝術の世界で、無理やり勝者になりたがってるというか。
ぽわん:まあそれくらいの気概をもって臨むこと自体はいいんだけどね(笑)。ただ、そういう、演出家として勝負する、みたいな姿勢ばかりで、肝心の演出としての効果、つまり作品に隠されたものを取り出し、照射し、意味を与えるということができていたかというと・・・うーん、遠慮がちに言っても、いいとこあり、だめなとこあり、だなあ。
たぬき:具体的には?
ぽわん:あちこち、(KERA演出版がただ軽快に通り過ぎていったところに)山場を作ってはいたけれど、それによって新たなものが見えるといった効果より、変に湿った芝居になったり流れが滞ったりするといった弊害が目立ちがちだった。それは、KERA戯曲との相性の問題でもあるのかもしれないなあ。蜷川は、井上ひさしでもそうだったけど、喜劇のテンポを作るのが苦手みたいだから。
たぬき:本人は強がってるけど、蜷川はやっぱり軽快な喜劇に適性ないよねえ。いつも肩に力が入ってて、「軽さ」みたいなのが出せないから。
ぽわん:蜷川はどちらかというとコマ割りよりも一枚絵の人だしね。ちなみにさっき、KERAの芝居は喜劇ではなくファルスっていうたぬきさんの意見があったけど、蜷川に喜劇が苦手で、だけどファルスができるとしたら、それはKERAみたいなスピーディーなものではなく、醜悪で大仰な類のものだと思う。あ、この定義自体には優劣はつけてないよ、もちろん。単に違うものだと言いたいだけ。あと、さっき言った、劇にフォーカスを当てることとつながるのかもしれないけど、役者の演技が感情過多になって、台詞回しがたどたどしくなったりもしていたなあ。もともと舞台向きじゃない映像系の人は置いておくとしても、中嶋朋子みたいないい女優もそんな感じになってた。あと、たとえば、字幕を設置してト書きを表示した辺りは、「俺はこんなに細かい戯曲の指定にちゃんと真っ向から答えたんだぞ」っていうアピールかもしれないけど、正直、「だから?」って感じ。そんなアピールしなくても、ちゃんとした舞台が目の前に展開されていれば十分なはずだから。
たぬき:蜷川は死ぬまで説明的な演出に固執するだろうけど、やっぱりそれは彼の自己顕示欲と無関係ではないのかねえ。で、ぽわんさんは実際どっちに軍配を上げるの?
ぽわん:うーむ。違和感なく面白く見られたのはKERA演出だけど、作者でもあるわけだからねえ。なんだかんだ言っても、解釈を施そうとした蜷川の姿勢そのものは買いたいねえ。まあ、最後の最後にフォローするわけでもないんだけど、これだけの企画で脚本が書けるKERAは貴重な人材だし、演出対決に闘志を燃やす蜷川も立派だとは思ってるの。ベストな公演だったとは言わないけど、けちをつける楽しみすら提供してくれないしょうもない公演もある中、楽しませてもらったよ! 今回、岸田國士戯曲賞を穫った人々もこういう企画が実現できるようになるかな?
posted by powantanuki at 22:57 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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