2014年10月22日

ダミアーノ・ミキエレットと中屋敷法仁 - 二人の若手演出家をめぐって

才人が陥るワナ!?

たぬき:ぽわんさん、実は私たぬきには、昔から「この2人は資質が似てるなー」と思ってる演出家がいてね。
ぽわん:んにゃ? たぬきさん、ひさしぶりだねえ。で、誰と誰ですか?
たぬき:えーとね、日本の劇団・柿食う客の主宰・中屋敷法仁と、イタリア出身のオペラ演出家、ダミアーノ・ミキエレット。こないだの東京二期会のミキエレット演出『イドメネオ』を見て、改めて思ったんだよね。
ぽわん:ふむふむ。で、どこが似ているの?
たぬき:二人の共通点と言えば、面長だけど端正な顔立ち(まあ顔自体が似てるって程じゃないけど)、まだ比較的若いのにあちこち引っ張りだこの売れっ子であるとこ、舞台作りが今風のポップなアイディア満載で、演出家としての才気をとっても感じるところ、などなど。
ぽわん:あー、まあそうかな? でも、わざわざ指摘するからには、何かその先に、たぬきさんが言いたいことがあるんですね?
たぬき:そうなんだよね。彼らの最大の共通点は、ほんとに独創性があるかっていうと疑問なとこと、手つきがいかにも優等生的で、毒もなければ社会に対する批判精神もない、要するに健全なノンポリだってこと。
 えーと、いわゆる読み替え演出派の中でも、ミキエレットはとにかく場面のつなぎ方がうまいよね。人物の出捌けが、いかにも自然に見えるよう念が入っている。新国立劇場の『コジ・ファン・トゥッテ』を見た人なら納得してくれるんじゃないかな。以前「劇作家の腕は人物の出捌けに出る」と言ったことがあるけれど、それは演出家に関しても言えることなんだよね。
ぽわん:こないだの『イドメネオ』では?
たぬき:うん。あれでも、たとえば、自然に人物を出入りさせるための嵐の扱い方は冴えていたし、特筆すべきは小道具の出捌けだったね。能や歌舞伎だと、不要になった小道具は後見や黒衣が持ってっちゃうけど、近代劇ではそうはいかないから、舞台に残っちゃった小道具は、うまいことどこかの段階で捌けさせないといけない。『イドメネオ』は所謂ダカーポ・オペラだから、アリアは繰り返しが必ず入る。歌詞もまったくの繰り返しだから、同じ事やらせても藝がないということで、1番で喜怒哀楽をひとしきり表現した後で、繰り返しに入った段階で、舞台上の小道具を処理しつつ、次の場面への転換や布石として有効に使ってた。冒頭のイリアのアリアでは、ト書きでは舞台にいないはずのイダマンテを小道具として(!)出して、彼女のイダマンテへの愛と、にもかかわらず(イダマンテがちょっと精神的に不安定だったりして)告白をためらう理由を表現してたし、その後のイドメネオのアリアでは、繰り返しに入ってから、イリアが前の場面で置いていった産着をイドメネオの手で砂の中に埋めさせることで、小道具を捌けさせると同時に最後のオチへの伏線となっていた。3幕のアルバーチェのアリアは、怒りにかられて舞台に積み上がったスーツケースを続々に放り出すという動作が、同時にステージ中央エリアを空けるための舞台転換にもなってるというね(笑)。
ぽわん:若いのに手練で、いいじゃないですか!


優等生よ、無茶をしろ!

たぬき:さてさて、本題に戻ろうかな。今回の『イドメネオ』は、砂上(ほんとはゴムだそうだけれど)に無数の靴がばらまかれた抽象舞台で上演された。エレットラだけ突飛な衣装を含め、セノグラフィは全体にとても調和が取れていて、ぽわんさんの持論「センスがないと抽象化はやっちゃだめ」の基準は当然クリアしている。
ぽわん:はいはい。
たぬき:だからといって万々歳とはいかないのは、やっぱりさっき言った独創性の問題。全編が砂の上というのは、ロバート・カーセンがピナ・バウシュをパクって何度かやってたし、ト書きの指定ではそこにいないはずの歌手を出すのも読み替え演出の常套。ヒロインが妊娠してるとかラストで胎児が出てくるというのはバイロイトの名物で、ゼバスティアン・バウムガルテンが『タンホイザー』で、ハンス・ノイエンフェルスが『ローエングリン』で先にやってるし、ザルツの『ラ・ボエーム』は、どう考えても『RENT』の逆輸入。新国立劇場『コジ』の、舞台全体をゆるいドーム形の野原にしてグルグル回すというやつは、クラウス・グートの『ドン・ジョヴァンニ』のイタダキだ。
ぽわん:まあ、パクりパクられっていうのは以前も我々、話題にしているけど、パクりにもやっぱり仁義というか手法というか、パクりでは終わらない“何か”がないといけないね。今回のミキエレットの演出がその点で“何もない”とは言わないけど、強烈な独創性とまではいかなかったかもね?
たぬき:うん、それこそ「パクられる側」に回るほどのオリジナリティは生み出せてない。ただ、ミキエレットって、大っぴらに「パロディです」「メタレヴェルの出来事です」と触れ回ることでパクリを糊塗しようとする感じのカーセンよりは節操を感じるし、ドイツ系演出家のこれ見よがしな露悪趣味もない。ただし同時に、人間性に対するシニカルな視点もなくなっていて、やっぱり優等生だねえ。
 あとやっぱり、社会に訴える力の欠如は気になるんだよ。前も言ったとおり、読み替え演出とはそもそも、「オペラに社会性を」ということから始まったもの。彼らの世代としては「オペラを現代化すること自体がひとつの社会性の現れであると同時に、オペラという固定化したジャンルに対する批評である」みたいなつもりなんだろうけど、それは同時に、中屋敷の女体シェイクスピアシリーズにも言えることかも。
ぽわん:擁護するわけじゃないけど、オペラにしても演劇にしても、社会に問題を突きつけるばかりではなく、かといって古色蒼然としたださい内容でもなく、そこそこセンス/腕のいいものがあってもいいと思う。その点は、二人ともクリアしているのでは? そうやって上演して、そこに自ずと社会性が浮かび上がる、と彼らは自作について考えているかもしれない。
たぬき:まあ、実際、今回の『イドメネオ』だって、砂上に散乱する無数の靴を見て、東日本大震災やスマトラ島沖地震のことを思い出した人もいるかもしれないよね。でも、本来読み替え演出ってのは、作品をト書きの時代設定から離して、作曲家が生きた同時代なり何なりの、ある危機的な社会状況(←ここ重要)に対応させた形で先鋭化し、そこと現代の観客の立場とを対決させるという点にあったはず。彼らは外面のアップデートには熱心だけど、その一方で作品の根源に還る事を怠っているとは言えないかい?
ぽわん:けど、二人とも若者の風俗を、古典の中に取り入れてはいる。それは社会状況を描いてはいるんだけどね。そのことを、対決と言えなくもない・・・けど?
たぬき:うーん、やっぱりそれだけじゃ物足りないね。観客に匕首を突きつける、あるいは虚無へ突き放すような何かが欲しいってことかな。ほら、数年前に中屋敷がゴーゴリの『検察官』を演出した事があったじゃない。あれ、最後に自分の勘違いに気付いた市長が、本来は自分の周囲の登場人物に向かって言うはずの「あいつらのせいだー」の台詞を、敢えて客席に向かって言わせてたけど、その場面の毒のない事と言ったらなかった。異化効果ゼロで全然こっちに刺さってこないばかりか、「ふふふ、これが僕の斬新な解釈ですよ」と北叟笑む演出家の顔が思い浮かぶばかりでね。ほんと、優等生の限界だよ。
ぽわん:でも、優等生にも意地ってやつがあるはずなんだよ。彼らには、中途半端な周囲の評価に甘んじることなく、高みを目指してもらいたいものだね!
たぬき:ほんと、従来のファンをバッサリ切り捨てるような問題作に挑んでほしいね。四十過ぎると、発想も依頼もどんどん狭くなっちゃうよ・・・とは言うものの社会派オペラ演出家の雄、たとえばジョルジョ・ストレーレルとかパトリス・シェローあたりも、結局のところ、オペラという制約と不自然のカタマリである藝術を、いかにも自然な舞台劇というか、美的な完成品としてプレゼンテーションするその技量によってのみ評価されるというか、彼ら自身そこに立ち戻っちゃった面はあるよね。現在が「政治の季節」ではない以上、彼らのノンポリぶりは渡世として当然のことなのかもね。
ぽわん:おや、いきなり諦めの境地ですか?
たぬき:というか、今のとこ彼らは技量がグングン伸びてるというより、どっちかというと早くもルーティンな感じがあるよね。今のままだと、文学だろうとスポーツだろうとどこの業界にもいる、「案外伸びなかった早熟の天才」みたいなとこに落ち着いちゃうよ。やっぱり若いうちは誇大妄想的に無茶をやらないと!
ぽわん:「若者よ、無茶をしろ!」という言葉を、ミキエレットと中屋敷に捧げるとしましょうか。
posted by powantanuki at 12:01 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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