2013年09月13日

第一回ABKAIに見る、限界あれこれ

『はなさかじいさん』はなぜ失敗作か

ぽわん:たぬきさん。過去に宮本亜門についてここで触れ、宮沢章夫についてはほんのちょっとだけここで触れた我々だけど、この二人が組む公演が、意外なかたちで実現したね!
たぬき:市川海老蔵の自主公演ABKAIの『疾風如白狗怒涛之花咲翁物語。〜はなさかじいさん〜』だね。
ぽわん:ぜひとも成功させたいだろう海老蔵自らメディアで大宣伝したせいか、いろいろあって不入りだった3月のル テアトル銀座とは対照的に、札止め満員だったのはひとまず目出度いとして、作品的にはどうだった?
たぬき:うーん、ホントにつまらなかった。これはまず第一に、宮沢章夫の脚本に原因があると見る。歌舞伎台本作りのイロハを知らないし、葛藤や劇的アイロニーの作り方にも習熟していない彼の弱さがモロに出ていたね。
ぽわん:たとえば?
たぬき:2役を兼ねる海老蔵がまず演じるのは、最後に枯木に撒かれることになる例の白犬。ここでの彼の演技プランは、基本的に「義経千本桜」の狐忠信がベースになってるんだけど、歌舞伎台本において「人外者」はたいてい超人的な力を持っている訳で、その意味で、犬なのに平気で人間の言葉を喋ったり、鬼ヶ島で鬼を相手に闘ってきたこの犬に、狐忠信風の芝居はひとまず合っているようにも思える。でも、狐忠信にせよ「蘆屋道満大内鑑」の葛の葉にせよ、歌舞伎の世界において、善人側に立つ「人外者」は、最後までその超人的な力を失うことはないんだよね。「伽蘿先代萩」の仁木弾正みたいに、最後に術が破れるのはいつも悪人側。なのにこの芝居、人間並みの知能を持ち、鬼ヶ島で大活躍できる程の賢くて強い犬が、ラストで民衆にあっさり殺されるのかが全く説明されてないんだよね。
ぽわん:殺される直前まで、多勢を相手に大立ち回りを見せていたのにねえ。あれは偶然?うっかり?刺されちゃったみたいなことだったのかなあ?
たぬき:プロット上の欠陥だと言わざるを得ないよね。別にそれまで不条理劇として進行していた訳じゃないんだから。
ぽわん:もっとも、それは宮本亜門の演出の問題かもしれないよ。その場その場を盛り立てることに終始する、一貫性のない演出だったからねえ。あと、歌舞伎俳優は自分でも作品作りに関わりたがるもの。ましてや、これは海老蔵の自主公演だからね。つまり、宮本亜門か宮沢章夫も不本意に手を入れられた可能性はある。
たぬき:いや、宮沢はこの件に関して、「僕の書いたものは、だいぶ台詞が削られていたものの、構造と、削られると困る残したい台詞はあった 」と言っているから、要するに最初からあの程度の構造だったということだ。彼はどうやら花咲か爺の昔話と東日本大震災とを二重写しにしたかったらしいんだけど、彼にとって「削られると困る残したい台詞」とおぼしき幾つかの妙な説明台詞は、ストーリーから完全に浮いていたねえ。
ぽわん:まあツイッターとはいえオフィシャルトーク?だから、本当は削られた残念なところが多かったかもしれないけどね。
たぬき:あと、亜門の仕事だけど、中劇場の割にはプロセニアムをはみ出す演出がお約束なあの劇場では、正直見飽きた手法のオンパレード。海老蔵の演技プランは本人の独断だったかもしれないけど、それ以外の舞台処理に関して亜門の抽斗がカラッポだったのも事実だね。もし「この芝居は歌舞伎愛好家に向けられたものじゃない。「四の切」とかと比べるもんじゃない」というエクスキューズが本人たちの中にあるとするのなら、我々はいかにも志の低い芝居を見せられた事になる。
ぽわん:まあ、新作歌舞伎と銘打っている以上、従来の歌舞伎と距離をどう取るにせよ、その距離は明確であるほうが志が高いといえるかしらねえ。
たぬき:既存演目への批評性なんて何も感じなかったからね。鶴屋南北の先行作に対する接し方を見習ってほしいよ。あと、プロット上の欠陥は他にもある。いちばんの問題は、悪玉となるべき得松爺と善玉である白犬の両方を海老蔵が兼ねてるせいで、ドラマ的な緊迫感が全くないこと。「善玉と悪玉が同時に出ることは禁じられているにも関わらずしっかりサスペンスを作る」みたいな高等手段は、宮沢の手に余ったね。
ぽわん:芝居で2役、それも善玉と悪玉の両方をやるというのは、歌舞伎ではアリな気がするけど?
たぬき:うん。例えばそういうのの代表作である「伊達の十役」だと、吹き替えを多用するのはもちろん、裁く側と裁かれる側を同一人物が演じる場面では、どちらかの不在を補う代理人的ポジション、所謂アナの役が出てくる。そういう行き方はこの少人数の座組では最初から無理だし、吹き替えは『蛇柳』で全面的に使っちゃってるから、二度も同じ手を使うのは藝が無い。となると残る手法としては、フランス古典悲劇みたいに不在の人物を台詞で想像させるしかないんだけど、要するに作家にそこまでの技量はなかったってことだ。民衆に、何の躍動感もメッセージ性もないシュプレヒコールもどきをやらせるのが精一杯なんだからね。
ぽわん:まあ、最後くらいは祭りにしたかったのかな。
たぬき:見易い欠点をもうひとつ挙げると、犬の命が狙われてるから飼い主夫婦は家に籠っているという設定なのに、件の悪玉・得松爺のところへ飼い主夫婦の片方・セツ婆がノコノコ出かけて行ったりするのは明らかにおかしい。そうしないと話が転がらないってだけでこんなルール違反をやらせる、余りのご都合主義にうんざりしちゃった。ほんと、花咲か爺の昔話と東日本大震災を二重写しにしてるヒマがあったら、他にやるべきことが山ほどあるだろうよ。


宮沢・海老蔵それぞれの課題

ぽわん:冒頭で書いた通り、宮沢章夫についても宮本亜門についても過去に言及したことのある我々だけど、まあ宮沢については短かったので、ちょっとここで書いてみようか。今回は歌舞伎俳優の自主公演ということで特殊だったかもしれないけど、たぬきさんはこの作品に、それにとどまらない宮沢の限界を見たんだよね?
たぬき:ナンセンスを出発点に、平田オリザ〜岩松了〜チェーホフ〜別役実〜中上健次〜青山真治などなど、宮沢章夫は節操無くいろんなものから影響を受けて来たけれど、いずれにも共通してるのは、どれもこれもあまりに表面的なカブれ方にすぎなくて、彼が影響を受けたものを元から知る人間にはネタが割れすぎてつまらないものばかりであること。
ぽわん:ふうん。たとえば?
たぬき:90年代半ばは平田オリザの影響をモロに受けて多重会話とかやってたし、ドラマの核心をわざと回避する岩松了の方法論も真似してたし、すぐに「三人姉妹」と「かもめ」の構図を借りてくるし、会話のずらし方は別役だし。勿論そのどれもがオリジネイターたちには遠く及ばないし(大概中途半端な模倣なんだよね)、模倣し折衷することによって「演劇の可能性」が広がったりする訳でもない。だって、要するに場当たりを狙ってるだけなんだから。いつも「あーこの場面、作り手はキメてみせたつもりだろうけど役者体も言葉も薄っぺらいから演劇空間として全然成立してないよ」みたいなのばかり。彼の薄っぺらさが幸運にもある種の同時代性を帯びることができたのは、ほんの数年間の出来事だと思う。
ぽわん:その数年て言うのはラジカル・ガジベリビンバ・システムの時代?
たぬき:うん。あと、薄っぺらさがある種のリアリティを持っていたという点では、オウムと阪神大震災の年である95年以前の2、3年を加えてもいいかもしれないね。
 いずれにせよ、今回も昔話と歌舞伎を表面的になぞってみただけ。こういうやり方で宮沢が今までやって来られたことに関しては、作り手側の浅薄なカブれっぷりを自分たちへの知的な(?)目配せと取り違え、ナイーヴに称賛してきた評論家にも大いに責任がある。彼らも反省してほしい。
ぽわん:『はなさかじいさん』に関して言えば、知的な目配せとは、本人も思ってないんじゃないかなあ。わからないけど。繰り返しになるけど、内心、忸怩たるものがあるかもよ。
たぬき:うん。確かに今回の脚本には、彼が昔話にも歌舞伎にも何の造詣も無かったことも、そのハンディをはね返すだけのセンスがなかったことも一目瞭然だったね。
ぽわん:さて、主宰の海老蔵についても少し触れておこうか。わたしに言わせると、犬の演技では「なんでもやるぞ」っていう気迫は感じたけど、悪玉の得松爺の台詞回しにいつもながらの変な抑揚があったなあ。
たぬき:海老蔵も演技の抽斗が多い訳ではないから、単に間の抜けた荒事みたいになっちゃってたね。もう1本の『蛇柳』も良くなかった。松羽目をアレンジした言わば柳羽目をバックに、「保名」、「娘道成寺」、切能もどき、あと「押戻」… そんなのが取っ替え引っ替え出てくるんだけど、新作舞踊的な華やかさで行くのか、松羽目ものの格調高さを狙うのかの焦点が絞れていない。冒頭の衣装がとっても和モダンで、なんだか隣の東急本店で買って来た安っぽい感じなのに、長唄の謡がかりが変に本格的で長唄本来の良さを失ってるし、乱拍子は決まらないわクドキは恋情がまったく伝わらないわで困ったし、良いとこを見つけるのが大変だったよ。
ぽわん:もうちょっと踊りがうまかったり、変化がつけられたりしたら、だいぶ印象違ったと思うんだけどねえ。
たぬき:うん。吹き替えで出てた人が、顔全面を隈取りで覆ってるせいもあって相当海老蔵に似てて、あそこまで似せられるんだから、変に顔を隠すと逆に吹き替えだってバレちゃうよ、もっと堂々としててもいいんじゃないのって気がしたね。
ぽわん:それはしかたないよ。吹き替えには吹き替えの領分ってやつがあるだろうし。あれでもだまされた人、いっぱいいたし。それより、吹き替えの時間を短くしてほしかったな。
たぬき:あそこは愛之助の見せ場だから、ある程度の時間をあげたのかな。押戻しに替わるのも一苦労だろうし。とは言え、あまりに時間をかけると吹き替えが長く舞台に居すぎるというジレンマが… この辺は少人数の座組ならではの遣り繰りの大変さだね。
ぽわん:海老蔵に関して言えば、演技や踊りの方向性にしろ、演目選びにしろ、体力に物を言わせてその場を乗り切るだけじゃなくて、もっとじっくり考えてほしいものだねえ。本音を言えば、次は宮沢&宮本コンビじゃない人に頼んでほしいなあ。まあ誰に頼んでも、本人がそれを生かせなければ意味ないけどね。
たぬき:仄聞するに、彼には良いブレーンも付いてなくて、周囲はご機嫌取りばかりみたいだね。今年3月、当初の予定通り栗山民也の演出でイアーゴーを演じていれば、ワンマンの芝居とは違う何かが分かったかなあ? とはいえ商業演劇では手心を加えなくもない栗山だから、大した成果にはならなかったかもねえ。
ぽわん:海老蔵に関しては、多くのファンが期待しては脱力し失望してきたんじゃないかと思う。それでもまだ若いから見守っているけど、若さはなくなっていくのだから、まもなく彼の正念場だろうねえ。
たぬき:自己を過信しているというか、己が伝統(と革新)を受け継ぐ存在であるということに対して楽観的すぎると思うんだよね。そりゃあ彼が口上で「ひとつにらんでご覧にかけ」れば、江戸の市民が團十郎のにらみで瘧が落ちると信じたのもむべなるかなって感じの大迫力だけど、黙阿弥の白浪物なんかだと、渋谷センター街にたむろするグレた若者にしか見えなくて、全てがブチ壊し。彼は天性の荒事師であるにせよ、備わっていないものがたくさんあることを自覚してほしいね。最近は、彼が妙な芝居をやると客席からクスクス笑いが漏れるけど、あれは決して彼のユーモアとか愛嬌にウケてるんじゃなくて、単に失笑してるだけだってことを肝に銘じてほしい(笑)。
ぽわん:無理矢理、宮沢章夫、宮本亜門、海老蔵に共通することを言うなら、有名な割に実力がいまひとつで、やりたいこととやれることが違うってことかなあ。そう考えると、実に象徴的な第一回ABKAIだったと言えるのかもしれないね。
たぬき:要するに、3人ともお山の大将なんだよね。山容とか標高は三者三様だけど(笑)。
posted by powantanuki at 22:20 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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