2013年02月15日

岸田國士戯曲賞2013発表記念!?(ウソ)〜KERA vs 蜷川幸雄『祈りと怪物』〜


KERA戯曲はありやなしや?


たぬき:今日は、今年の岸田國士戯曲賞が発表になったことで少々(?)湧いている演劇界にちなんで、その選考委員でもあるKERAが書き下ろし、お正月をまたいでの演出家対決が話題になった、Bunkamuraの『祈りと怪物』の話をしたいと思います! そもそも戯曲として大した出来ではなかったと考えているので、まずそこから話すとしましょうか。
ぽわん:世間的には評価の高いKERA戯曲だけど、たぬきさんには今ひとつだったんだっけ。
たぬき:そうだね。わたしが見たのはKERA演出版だけだけど、戯曲として評価できないのは、商業演劇ということで分かりやすさを重視したせいか、プロットが相当通俗に堕していたのと、群像劇としてメインキャスト全員にストーリーを持たせようとしたせいか、あちこちに無理が出たということの2点だね。
ぽわん:分かりやすさ自体は、別に我々が日ごろ否定するものではないと思うんだけど、今回に関して否定せざるを得ないのはなぜ?
たぬき:筋立ては、端的に言って「三人姉妹」と「カラマーゾフの兄弟」と「オイディプス王」が、アルトマン的な階級闘争風味で綯い交ぜにされているんだけど、どれもほんとにただの借り物なんだよね。チェーホフの寂寞感もドストエフスキーの業の深さもなければ、ギリシャ悲劇の言葉の強さもない。膨らむ一方のストーリーラインを回収するので精一杯で、むろん原作に対する批評性とか現代性なんかは全然感じなかった。
ぽわん:でも、だからって作品の価値がないとは言い切れないよね。そのプロットに、もっと根本的な問題があったと言いたいのかな?
たぬき:うん。KERAって元々、引くだけ引いた伏線にうっちゃりをかけるのが上手だけど、それが不条理に傾き過ぎるのは商業演劇では許されないのか、今回はラストに向けて、見せ場とか死に場所を、小さい役から順番に配分していくだけで、要するにクライマックスらしい盛り上がりが全くなかった。今回の舞台作りは、映画で言うところのカットバック手法に近い訳だけど、映画だと、異なる場所で起きていることをカットつなぎで一瞬に接合することができるのに対し、芝居だとセットを回したり人間をはけさせたりする手間がかかるから、どうしてもテンポがノロくなっちゃう。セットを抽象でやれば少しは捗るだろうけど、KERAのこの手の芝居はいつも具象だね。やっぱり具象のリアルな手触りが欲しいのかな。
ぽわん:KERA演出版は、演劇としてはすごくスピーディーな展開だったと思うけど、もっと根本的な意味で、生身の演劇でやる時点で映像と比べてテンポがノロい、と言いたいんだね?
たぬき:そうそう。これは演劇に持ち込まれる「映画的手法」の限界。音楽ほかでその辺は糊塗してたつもりかもしれないけど、少なくともわたしことたぬきには、かったるかった。
ぽわん:けど、ちょっと待って。第一に、不条理なかたちでこの芝居が終わるのは、KERAの意図に基づくものだと思う。第二に、これを演劇における映画的手法の限界として片付けるのは早計かもしれないよ。だってそれなら、細かい伏線をすべて拾えばよかったとも言えるわけでしょ? まあ人数が多いから無理でしょってことになるんだろうけど。第一の話をするなら、KERAはこの作品では、伏線を回収しきるのではなく、細かく展開させておきながら、最後は人間にはどうしようもない大きな力(それこそギリシャ悲劇にも通じるような)によってすべての展開が無に帰す、みたいなのをやりたかったんだよ。
たぬき:でも、たとえば生瀬勝久がやってたドン・ガラスの最後は、いかにも類型的な零落って感じで、ギリシャ悲劇的な運命の力みたいなのは全然感じなかったよ。で、不条理の話に戻ると、伏線は昔よりずーっと律儀に拾ってるわけで、その分不条理さは薄味になってる。そのことが芝居を逆につまらなくしているし、その律儀さが裏目というかプロット上の無理につながってるのね。具体的にはメインキャストとアンサンブルの間ぐらいの役、エレミヤ(KERA版だと峯村リエ)とペラーヨ(同じく池田成志)。どちらも人間関係の継ぎ目として都合良く使われ過ぎてて、ストーリーラインへの登場の仕方、登場してからのアクションの方向性、プロット上で役割を果たした後での消え方、どれもミエミエなんだよね。池田はまだマシな消し方をしてもらえてたけど、峯村にはそれほどの見せ場もなかったね。
ぽわん:確かにあの奥様は唐突に消えちゃったと思う。つまり今回は、KERA戯曲としては不条理よりも丁寧な群像劇的要素が増えているにも関わらず、不条理的な大きな力で解決しようとしたところに、問題があるということかな?
たぬき:群像劇の複数プロットを一気に回収する不条理系の大技と言えば、それこそアルトマンの映画『ショート・カッツ』の地震とか、それを引き継いだ『マグノリア』のカエルみたいな例があるけど、ああいうのは演劇には応用できないんだよね。ドラマにはアクションの収斂点が要るんだけど、ああした地震とかカエルとかはカットバックが可能だから効く訳で、芝居でアクションの収斂点を作るためには、どうしても一箇所に大勢の人間を集める必要がある。登場人物がめいめい勝手なこと言ってるだけだと思われがちなチェーホフだって、劇中で一度はメインキャスト全員が揃う場面を作るよ。
ぽわん:ただ、チェーホフはこの『祈りと怪物』ほど大きな役の数が多くないよ。それにしてももうちょっと多くの人が一同に会するほうがよかった、という感じかな?
たぬき:そうだね。いくつかあるグループごとの場面が順繰りに流れていくだけで、見る側の気分としてはひたすら単調なんだよ。その代わりではないにせよ、コロスが大勢出てくる場面はあったけど、あれは目先が変わるというより、リアリズムだったら一工夫が要るけどああやったら簡単に解決できる、ただの便利な状況説明にすぎないから。ギリシャ悲劇ということでは、オイディプスもどきなネタが出てくる、ラスト1つ前の場面だけど、そもそも丸山智己の役ってあからさまに“置きに”行かされていて、あの場面以外でほとんどアクションに絡まないあの役が、ドラマツルギーの収斂点になれるはずがない。
ぽわん:確かに、あのオイディプスモチーフの使い方には、ギリシャ劇がもとだよ!というちょっとした目配せ以上の効果を感じなかったねえ。
たぬき:KERAの劇作術って、もともと本格喜劇というよりファルスに近い。「直線的に行動するけど追い込まれて逆上する役」とか「ストーリーを混乱させてアヤを作るためだけに居る役」とか「捌き役」とか、キャラクターの類型ごとに担う役目が最初から決まってることが多いし、今回で言えば被差別民とか疫病の流行とかの外的シチュエーションも、キャラクターとは無関係かあるいは皮相な次元で設定されがち。かつて井上ひさしがKERAの岸田戯曲賞受賞に反対したのも、 http://www.hakusuisha.co.jp/kishida/review43.php 要するにその辺が理由だと思う。手練れの井上には、KERAの手の内が透けて見えすぎたんだろうよ。
ぽわん:その井上ひさしだって、キャラクターは類型的だけどねえ?
たぬき:えーとね、井上の場合は、シチュエーションに応じてキャラクターが変化していくんだよ。往々にして戦後民主主義礼賛と反天皇制一辺倒とは言え。そこが相互作用していくのが喜劇ってやつなんだけど、この芝居では演劇的な変化や成長がないんだよね。
ぽわん:役を駒にして芝居を進めていくのが劇作家なんだろうけど、それが透けて見え過ぎた感じは確かにあったね。


演出対決という企画の成果は

ぽわん:今回の『祈りと怪物』の話題は、KERA書き下ろしの戯曲を、12月にKERA演出、翌年1月に蜷川演出と、2ヶ月連続で違う演出で見ることができるところにあったわけだけど、たぬきさんは後半は見なかったんだよね。
たぬき:うん。ぽわんさんは両方見たんだよね。演出はどうだった?
ぽわん:そうだねえ。KERA演出版は、自分が書いたからよくわかっていて、テンポよく進んでいたと思う。出演者の魅力も引き出していたし。ただ、戯曲への違和感とか疑問とかがない分、戯曲への批評精神といったら大げさだけど、引っ掛かりなくただ楽しませることに徹した演出になっていた気がする。まあ、こちらも先に見たのがKERA版だから、ストーリーを追っていて演出にそんなにじっくり着目できなかった可能性は否定できないけど。これに対して蜷川版の時には演出としてる余裕があったからねえ。・・・と、その前に、KERA演出版のみ見たたぬきさんはどう思った?
たぬき:大道具・小道具の過不足ない活用法は、さすがにご当人ならではという感じだった。あと、元から上手い人はしっかりノセて、ヘタな人もそれなりにちゃんとしてるように見せる、いつもながらのKERAの丁寧な手つきが見えたね。
ぽわん:そうだね。一方、蜷川のは演出家の自己主張といったらあれだけど、KERA戯曲と向き合い、演出家としてどう腕を振るうかということを忘れない舞台だったなあ。文明開化の時代を思わせる和洋折衷の衣裳に三味線でババンと始まった時には、心躍ったよ。ああいう意表をつくスタートはやっぱりうまい。視覚的なツカミや賑やかしに演出家生命を賭けてきただけのことはあるね。コロスをラップ調にするのはアイデアとしては悪くないけど、若者文化を新しがるおじいちゃんっぽいとも感じたけれど、まあ実際そうなんだからしかたないのかな・・・? 人物の配置や美術もKERA版とは正反対に近いくらい違っていて、比較されることをわかった上で、常道的なやり方、ステレオタイプな見せ方はかなり意識して排したんだろうなあと思ったよ。まあ意識的でないステレオタイプな演出なんて、どんな作品でも見たくないに決まってるけど(笑)。
たぬき:しかし、蜷川のライヴァル設定癖ってほとんど病理的だねえ。本来勝ち負けのない藝術の世界で、無理やり勝者になりたがってるというか。
ぽわん:まあそれくらいの気概をもって臨むこと自体はいいんだけどね(笑)。ただ、そういう、演出家として勝負する、みたいな姿勢ばかりで、肝心の演出としての効果、つまり作品に隠されたものを取り出し、照射し、意味を与えるということができていたかというと・・・うーん、遠慮がちに言っても、いいとこあり、だめなとこあり、だなあ。
たぬき:具体的には?
ぽわん:あちこち、(KERA演出版がただ軽快に通り過ぎていったところに)山場を作ってはいたけれど、それによって新たなものが見えるといった効果より、変に湿った芝居になったり流れが滞ったりするといった弊害が目立ちがちだった。それは、KERA戯曲との相性の問題でもあるのかもしれないなあ。蜷川は、井上ひさしでもそうだったけど、喜劇のテンポを作るのが苦手みたいだから。
たぬき:本人は強がってるけど、蜷川はやっぱり軽快な喜劇に適性ないよねえ。いつも肩に力が入ってて、「軽さ」みたいなのが出せないから。
ぽわん:蜷川はどちらかというとコマ割りよりも一枚絵の人だしね。ちなみにさっき、KERAの芝居は喜劇ではなくファルスっていうたぬきさんの意見があったけど、蜷川に喜劇が苦手で、だけどファルスができるとしたら、それはKERAみたいなスピーディーなものではなく、醜悪で大仰な類のものだと思う。あ、この定義自体には優劣はつけてないよ、もちろん。単に違うものだと言いたいだけ。あと、さっき言った、劇にフォーカスを当てることとつながるのかもしれないけど、役者の演技が感情過多になって、台詞回しがたどたどしくなったりもしていたなあ。もともと舞台向きじゃない映像系の人は置いておくとしても、中嶋朋子みたいないい女優もそんな感じになってた。あと、たとえば、字幕を設置してト書きを表示した辺りは、「俺はこんなに細かい戯曲の指定にちゃんと真っ向から答えたんだぞ」っていうアピールかもしれないけど、正直、「だから?」って感じ。そんなアピールしなくても、ちゃんとした舞台が目の前に展開されていれば十分なはずだから。
たぬき:蜷川は死ぬまで説明的な演出に固執するだろうけど、やっぱりそれは彼の自己顕示欲と無関係ではないのかねえ。で、ぽわんさんは実際どっちに軍配を上げるの?
ぽわん:うーむ。違和感なく面白く見られたのはKERA演出だけど、作者でもあるわけだからねえ。なんだかんだ言っても、解釈を施そうとした蜷川の姿勢そのものは買いたいねえ。まあ、最後の最後にフォローするわけでもないんだけど、これだけの企画で脚本が書けるKERAは貴重な人材だし、演出対決に闘志を燃やす蜷川も立派だとは思ってるの。ベストな公演だったとは言わないけど、けちをつける楽しみすら提供してくれないしょうもない公演もある中、楽しませてもらったよ! 今回、岸田國士戯曲賞を穫った人々もこういう企画が実現できるようになるかな?
posted by powantanuki at 22:57 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/322622797

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。