2012年04月03日

演劇界の裸の王様!? 長塚圭史演出『ガラスの動物園』のどこがダメか

ローラは聾唖(ろうあ)じゃない

ぽわん:以前、『欲望という名の電車』を扱ったこともあったけど、我々は何を隠そうテネシー・ウィリアムズをこよなく愛する猫なんだよね。生誕100年の去年から日本でも上演が続いているけど、今年に入ってからは、長塚圭史の演出する『ガラスの動物園』上演が話題だったね。我々も観たわけだけど・・・
たぬき:これがまた困った代物でね。我々は「南部の雰囲気が感じられなくてはウィリアムズ作品とは言えない」みたいなことを言うほど心が狭くはない、というかコンヴィチュニーが好きなことからも分かる通り、新解釈自体は歓迎するタイプなんだけど、とにかく何もかもダメだったねえ。
ぽわん:まあ順を追って考えていくとしようか。まず、SIS COMPANYらしい豪華な顔ぶれが一つの話題だったと思うんだけど、各役者さんの演技はどうだった? わたしはまず、深津絵里のローラの演技が辛かったな。喋るのが終始、不自由なんだもの。言うまでもないけど聾唖者がどうこうじゃなく、事実として、ローラは聾唖者じゃないから。だよね?
たぬき:そうだね。極端な芝居をさせればそれだけ舞台にインパクトを与えられるという短絡的な発想はいただけない。ローラって、引っ込み思案で、端から見たらいわゆるパニック障害というやつかもしれないけど、少なくともウィングフィールド家の人間にとっては普通なところのある少女だと思えないと、芝居が成立しない。でないとアマンダが本気でローラの結婚相手を探したりはしないし、家を出たトムにとってのトラウマになったりはしない。
ぽわん:あんな状態で娘の結婚を考える時点で、アマンダが頭おかしい!みたいになっちゃうよね。そんな母の暴走を止められなかったトム、みたいな。わー、なんか違う劇みたい。さっき、「聾唖」って言っちゃったけど、あのローラの演技にはつまり、緩急があまりなかった。メンタルの事情じゃなくて第一義的に不自由、という印象があったんだよ。もちろん、そこからさらに酷くなる瞬間もあったけど、演技のベースがそんなだから効果が今ひとつ。興奮のあまり蓄音機をがちゃがちゃ操作する場面なんて、いつ「ウォ、ウォーター!」って叫ぶかと固唾を飲んで見守っちゃったよ。パンフレットなどは読んでないんだけど、演出の長塚はローラのモデル(作者の姉)がロボトミー手術を受けたということを引きずられ過ぎたんじゃないかねえ。
たぬき:うん。立石凉子のアマンダもいまいちだったね。あれじゃ気のいい煙草屋のオバサンだよ。ローラの母がただの苦労人なら娘があんなふうに育たないわけで、彼女にもある意味で歪みがある。その辺が分かってないね。
ぽわん:そう、アマンダは、一面的に、普通のオバサンなのでもエキセントリックなのでもないから、まさに歪み。立石はその複雑さを表現できていなかったと思う。まず、かつて美人だったとは信じ難いし、(南部女性の)誇り高い女というより頭のイカれた勘違い女っていう雰囲気だったし。客席が彼女の演技を受けて「わー、お母さんも苦労が多いね」とか「こんなお母さんだと大変だね」とか、そういう感じで沸いていたのにも違和感があったよ。前者と後者では正反対だけど、どちらにしても妙に庶民的で、この劇を今、どこにでもある家庭劇にしてしまっていたねえ。あ、それって長塚演出の意図だったのかなあ? 
たぬき:『ガラスの動物園』というかウィリアムズ戯曲の危ういところは、話の筋自体は通俗劇というかメロドラマと言っても差し支えないところ。だから、ウィリアムズ戯曲の美点である、エゴイズムと表裏一体になったリリシズムを丁寧に掬い上げられなかった時点で、ただの通俗劇に堕してしまう。
ぽわん:今回、「わ、このアマンダ/ローラっておかしくね?」感を助長させていて残念だったのが、鈴木浩介のジムの、受けの演技。あの家庭に入って戸惑う/アマンダの勢いに気圧されるっていうのはまあ間違いではないけど、客席に、ジムに対して「わかる、わかる」っていう同情的な笑いが生まれていたのは違うと思う。あれだと“健康で普通の人であるジムが、頭のおかしい家庭に入っちゃった”みたいな印象。でも、これは声を大にして言いたいけど、本当は、ジムだって複雑な人間なんだよ! ジムは、末は大統領かと思われるくらいの高校生のスターだった。でも、その後、失速して、トムと工場で働いている。これはすごく重要なポイントだと思うんだよね。若いころに一度絶頂期を味わった人間はそれが忘れられない。そこからどうにか這い上がろうと、話し方を学んだりして自分を鼓舞している。その哀れさ・惨めさ・痛さみたいなものが、今回のジムの鈴木からはまるで感じられなかったなあ。
たぬき:それこそ、ある種のセミナーを受けて人格がフラットになっちゃった人、みたいな感じだよね。
ぽわん:え? それってやばいセミナーってこと?? 別にそうは思わなかったなあ。ただ、演技が平板というだけ。それ以上でも以下でもなく。
たぬき:いやね、なんであんなにフラットな芝居をやらせるんだろうと考えると、ひょっとするとその手のサブテキスト強調系演出がやりたかったのかと思って(笑)。
ぽわん:ほほう、その線で何か読み取れた?
たぬき:いや、何にも・・・。この手の“プランの欠如”が今回の欠点の一つだったと思う。
ぽわん:もちろん、実際にはプランはあったんだろうけど、十全な効果を伴って伝えられなかったってことだよね。だから、なぜローラにキスするのか、その感情の流れも演技から見えてこなかった。そもそも、ローラ、トム、アマンダに比べて、キャスティング的にも軽視されがちなジムだけど、この役、もっと重視されるべきだよ!
たぬき:ローラとジムがダンスするうちに、ジムがガラスのユニコーンにぶつかっちゃって角が取れて、そこからキスに至るまでの流れって本来ものすごくいい場面なんだけど、キスする直前までずーっと2人を棒立ちの向かい合わせにしたまんま台詞言わせてたから、なんでキスに至るかさっぱり分からないんだよね。それにしても我々が見た日はヒドかったねえ。ジムがユニコーンにわざとぶつかる感アリアリだったのには目をつぶってやってもいいけど、一度ぶつかってもユニコーンは落ちなくて、わざわざもう一度足で蹴って倒してた。あれが意図的な演出でないことを祈りたいね。
ぽわん:まあ毎日演じているんだから、たまにはミスもするよ。毎日ああだったらちょっとどうかと思うけど。


アイデアは思いつきの段階を超えるべし

ぽわん:さて、作者の分身と言われるトムを演じた瑛太はどうだった?
たぬき:意に添わない労働に明け暮れる若者の鬱屈した感じがなかったね。顔にも芝居にも陰影がないから、単に甘やかされてDVに走るイマドキの若者にしか見えなかった。
ぽわん:えー! DVというほど暴力的ではなかったよ。でも、瑛太というキャスティングの時点で予想できたことながら、これまた一本調子だったね。『ガラスの動物園』って時系列的にちょっと難しいところがあって、過去にこの作品を読んだり観たりしたことのある人なら、あの悔恨に満ちた痛切なラストの言葉を想わずには観られない。そこから逆算した「回想」「追憶」としての劇を、トムを通してどう描くかが、一つのポイントだと思うんだけど、瑛太の、というか、長塚の、というか、この『ガラス〜』にはその視点が足りないように感じられた。強いて言えば、ダンサーを使ったのは、その辺りを考えたとも言えるとは思うんだけど・・・
たぬき:そう。ウィリアムズ本人が言うように、『ガラスの動物園』は'memory play'。8人のダンサーはおそらく記憶のおぞましさみたいなもののメタファーなんだろうけど、その割には道具を動かしたりしてるだけなんだ(笑)。だって元々が舞台転換ゼロ、一杯道具の室内劇なんだから、机だの椅子だのを動かしても全然効果的じゃないんだよね。
ぽわん:演劇におけるダンサーの使用っていうと「うへぇ」って感じのセンスのないのも多いんだけど(陳腐なショーダンスっぽかったり、見た目がダサかったり)、今回は白塗り含めて、あの白い装置にうまく溶け込んでいて、振付も独創的で悪くなかったとは思う。でもって椅子やテーブルをダンサーが動かすこと自体が、もっとダンス的なイメージで徹底的に行われていたら、「ほほう」と感心したかもしれないけど、場所の変化がない室内劇だからせめて工夫してみました、の域を出なかったかねえ。でも、たぬきさんが言っているのは、きっともっと根本的な話だね?
たぬき:うん。おそらく、オリジナルの上演台本では映像で処理するように指定されてるいろんな要素を、映像の代わりに人間でやってみるというのが根本の発想だったんだろうし、「芝居の内容に付きすぎるとダサくなる」っていう懸念からあのくらいの距離感になったと思うんだけど、効果的とは言えなかったね。その程度なら、最初から出さなきゃいいじゃんと思っちゃう。
ぽわん:トムの心理・記憶をダンサーたちに担わせるという意図と、転換をさせるということが、いまひとつつながっていなかったと言えるかな。転換と言えば、途中でいきなり、ダンサーたちによって、椅子や蓄音機などを舞台前面に一列に並べ始められたのはちょっとびっくりした。それをやるなとは言わないけど、この工夫も、アマンダらがいる奥の部屋と、ジムがアマンダと話す前の部屋っていう空間分けをしたかった以上のものがなかったかしらねえ? 
たぬき:前が居間兼ローラの寝室、後ろが食堂っていうのがオリジナル脚本の指定だから、途中までオリジナルの指定を破って、クライマックスで戻しただけだね。でもさ、そもそも、指定を破ってまで、コクーンの奥行きの広さをうまいこと使ってたかというと全然そんなことなくて、基本的に芝居が行われる前舞台とそれ以外のオマケ的行動が行われる後方って感じに分断されてたよね。役者の声が届かないから奥で芝居させなかったのかもしれないけど。
ぽわん:舞台奥の、タイプライターが置かれた机の辺りが比較的孤立気味だったのは、要するに回想を意識したんだと思う。照明や何かで極端化したりはしなかったけど。
たぬき:その辺の意味づけも中途半端だったかなあ。あざといことやりたい野心はイヤっていうくらい感じるんだけど、それがセノグラフィーとしてまったく未完成。少なくとも道具は抽象度の高いものにすべきだったよねえ。
ぽわん:食事に際しての食器は無対象、でも蓄音機や電話はあったね。その意図を、たぬきさんはどう取った?
たぬき:うん。戯曲では、食事に関しては無対象が指定されてる訳だけど、今回は1場面のコーヒーカップだけ実物で、その場面のお砂糖とかはもう無対象。その場面以外の食べ物とか飲み物は無対象。意味ありげなつもりなんだろうけど、場当たり的な思いつきにしか見えなかったなあ。あとほら、アマンダが食堂に飲み物を取りにいくとき、左右に3つずつ並んだ計6個のドアのうち、上手側一番奥のドアから出て行って上手側いちばん手前のドアから戻ってくるっていう、ある種の違和感を狙った演出がされてたけど、それって「これはmemory playです。記憶の世界は歪みます」みたいな目配せだったのかなあ。
ぽわん:ちょっと記憶が曖昧だけど、トムが出て行く時にも複数のドアが開いたり閉まったりしてたよね。「閉塞状況」とか、「人生における選択/道」とかを表したかったのかな?
たぬき:そういうのって、演出家のプランとして筋を通さないといけないんだよね。いろいろ変なことやってるんだけど、肝心の芝居が一本調子だなんてシャレにもならない(笑)。コンヴィチュニーの時に使った言葉をもう一度使うと、グランドデザインとディテールの統一ってやつ。じゃないと、「そりゃあドアの向こうは台所じゃなくて単なる袖なんだからどこから出てどこから戻ろうと自由だろうさ、演助の数さえ揃えればいくらでも同時にドアは開くさ」みたいな気になっちゃうんだよね。
ぽわん:演助って・・・。今更ながら、すれっからしだね、たぬきさん(笑)。
たぬき:ふふふ。例えばまあ「閉塞状況」ないし「人生の選択」がコンセプトだとすると、家を出たトムは、閉塞状況から抜けられたのか、行った先も閉塞状況だったのか、その選択は正しかったのかということを役者も小道具も大道具を駆使して分からせないといけない。これは余談になるけど、蜷川幸雄はその辺分かりやすすぎるほどビジュアルで分からせる訳で、あのくらいの気持ちでいないといけないよね。
ぽわん:まあ、蜷川だと、シンボル、シンボルと、さぞかし鬱陶しくなっただろうな〜。


見抜く観客だって、いる

ぽわん:結局、長塚演出は、工夫が効果につながらず、結果として表面的に色々やってみただけ、という感じがするねえ。恐らく今回、敢えて現代的な感覚でというのが、起用したSIS COMPANYや長塚の趣旨だったんだろうけど、現代的=表層的ならいい、というわけじゃないからねえ。これ、ほかの“現代的”とされている小劇場芝居にも言いたいことなんだけど・・・。
たぬき:「こういうのがリアルでしょ、クールでしょ」みたいなのが現代的だとするなら、ほんと勘弁してほしいね。ヒューマニズムに基づく近代劇であるウィリアムズ戯曲でどうしてもスーパーフラットな世界を作りたいのなら、戯曲に書かれたヒューマニズムの記号を全部つぶしていって、それを別の何かに置き換えるというものすごく面倒な作業がいる。そこまで行けたら感心するんだけどねえ。
ぽわん:さっき、たぬきさんが「セノグラフィーとしてまったく未完成」って言ったよね。これは本当にその通り。あの舞台はお金もかかっていたんだろうし、装置ほかビジュアル的には一見綺麗。写真だったら「素敵な舞台」って思うかもしれない。でも演劇というのは動くものだからね。その動かし方を含めた視覚性という意味では、残念だけどうまくいってなかった。
たぬき:コクーンの長塚演出と言えば、市川海老蔵と宮沢りえの『ドラクル』も無駄にお金がかかってたけど大して意味がなかったね。アンタ盆を2つ作って回したいだけでしょみたいな装置に、最後は照明で目つぶししてる間にドラキュラが脱出するっていうやつで。
ぽわん:『タンゴ』も、串田和美の美術は挑戦状みたいな、かなり取り組み甲斐のあるものだったけど、舞台全体がそのインパクトに負けていて、前衛の真似事みたいになっていたなあ。美術をはじめ思い切ったビジュアルのものが多くて、面白いんだけど、使いこなせてない。これは長塚演出での外部公演全般に言える気がする。結局、演劇界で嘱望されていて、ある程度資金を使うこともできる環境にいるわけだけれど、十全に答えられていないんだよね。というわけで最後にちょっと、演劇界の星、長塚圭史の可能性について考えてみましょう。劇作家として袋小路にある気もする長塚だけど、さて、では、演出家としてどうなのか? 何が長所で、どこに改良の余地があるか?
たぬき:そうだね。彼の本来の劇作家としての長所はもちろん、話を転がすというか大風呂敷を広げる上手さ。ただし広げた大風呂敷を畳むのが絶望的にヘタで(=予定調和か投げっぱなしのどっちか)、正しい畳み方さえ覚えれば順調だったのに、変に内的世界みたいなのを描くようになったよね。
ぽわん:いや、風呂敷を広げるのも、若さの割には、というだけで、わたしはそんなに才気を感じていなかったな。男の子がわーわーやってる、その勢いを買われたってことだと思う。小さなところで楽しくやっていたところから、一定程度のサイズがある劇場で、しかも今回みたいな名作戯曲を調理するにあたって、どう機能し得るかっていうこと。
たぬき:演出家としては、古典にどうしても我流の解釈をしたいのなら、プランを徹底して貫いてほしいよ。我々みたいな、すれっからしも納得するようにね。
ぽわん:まあ今更だけど演劇ってやっぱり難しいもので、観劇歴をある程度重ねると、良いものや、いまひとつなものもわかってくるけど、若いころから作り手であり続けてきた長塚には、それを知るだけの時間や実行する技量を育む余裕がなかったんじゃないか。経験において無駄をはぶくのが、伝承とか継承とかだと思うけど、日本には演出家の養成機関はないし、いまや新劇の劇団の影響力は見る影がない有様だし。彼をはじめ、今の演劇界の才能たちには、演出とはどういうものか、近代劇とはどんなものであるか、きちんと学ぶ機会がなかった。アンチ〜として意識することすらなかった。でも、こういうこと言うと煙たがられるんだろうけど、やっぱり土台なくして成長なしというか、飛躍に限界があるんだよね。その意味では、長塚も可哀想ではある。でも、そういう舞台を見せられる観客も可哀想だよね! そして、もし長塚がそのことに気づいていないんだとしたら、誰かが言ってあげなくちゃいけない。だから、こんな場所ではあるけど、我々も敢えてうるさく言ってるわけだけど。
たぬき:そうだね。「綺麗だったー」「俳優さん素敵だったー」で終わるひともいるけど、浅慮な手の内を見抜いてしまう観客だって結構多いんだということは、肝に銘じてほしいね。
posted by powantanuki at 23:36 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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