2011年12月29日

斎藤憐の死をきっかけに社会劇の今後を考える


社会劇の旗手だった斎藤憐

ぽわん:なんともはや、おひさしぶりですねえ、たぬきさん。
たぬき:なんでこんなにご無沙汰しちゃったかというと、あれは蝉時雨の頃・・・奥多摩にあるという伝説の地・マタタビ山を目指した我々2匹。野犬やキツネの攻撃に耐えながら、嗅覚だけを頼りに道なき道を登って行くと、そこには・・・
ぽわん:実在したんだねえ、マタタビ山・・・ 花の他にはマタタビばかり・・・
たぬき:マタタビ酒、マタタビ布団、マタタビ御殿・・・ 狂乱の日々を送る間に、気がつけば体の芯まで冷え込む季節に。
ぽわん:まだ冬毛にもなってなかった我々は、凍えながら東京へ戻ったのでした。とほほ。まあ、わたしは最後のほう、ちょこっと抜け出して東京の劇場に行ったりもしたんだけど、すぐ戻ってはマタタビ三昧の毎日だったからねえ。
たぬき:前置きは以上として、さてさて久しぶりの現場復帰は、ちょっと時機を逸してしまった感はあるけど、骨太な社会劇や歴史劇が書ける最後の劇作家とも言える斎藤憐について考えてみたいね。彼が亡くなったことは、やっぱり日本の演劇界にとって大きな損失だったと思うんだよ。
ぽわん:時流に乗っているかと言えば明らかに違うけれど、わたしたちが生きているのはまだ20世紀の影響を色濃く残した21世紀なわけで、その20世紀の諸問題をじっくりと提示した硬派だものね。井上ひさしとは違うかたちで、ダイレクトに社会を表現した。扱っている題材が明確な分、広がりっていうか幅っていうか、そういうものはなかったかもしれないけれど、演劇が社会的に何かを訴える手段であった時代もあったんだよねえ。そういう社会的で硬派な劇作家って、以前はたくさんいたね?
たぬき:戦後に限っても、木下順二を筆頭に、三好十郎、秋元松代、宮本研、福田善之・・・ 福田は健在だけど、みんな死んじゃった。「まだ坂手洋二が居るじゃない」という人もいるかもしれないけど、坂手はやっぱり山崎哲の元で学んだ人で、斎藤憐的な硬派とはちょっと違うんだよ。
ぽわん:つまり?
たぬき:要するに近代劇の枠をはみ出ているというか、アングラ的なロジック無視の飛び道具が多用されるんだよ。もちろん斎藤憐の作品にだってリアリズムを逸脱した幻想的シーンは出てくるんだけど、それは1作品の中で多くて2場面程度。そのくらいに抑えておくことがかえって効果的だって知ってた訳だよね。
ぽわん:あー、そうだねえ。わたしぽわんがマタタビ山から戻って観た『たったひとりの戦争』も、むりやり飛躍させ過ぎていて、観ていても気持ちがついていかなかったもんなあ。題材に取り組む姿勢には感心しつつ、盛り沢山過ぎるし、無理に似合わないラップやら携帯小説やらの流行(?)を取り入れて寒かったし(ぐちぐち・・・)。劇作上の飛躍って実はわたし、好きなんだけど、センス・説得力がものすごく問われるんだよね。確かに斎藤憐の書くものはもっと地に足がついている感じ。とはいえ、例外的にある種の飛躍があって生まれたのが、他ならぬ傑作『上海バンスキング』だったという気もするけどね。あれは志向の違う串田和美とのマッチングがうまく働いた例だねえ。
たぬき:うん。まあ『上海バンスキング』って、音楽を抜きにして単純に戯曲として読めば、「制度=抑圧からの脱走」と、にもかかわらず「幻と消えた自由」という、よくある左翼系ウェルメイド・プレイ。むろん以後の斎藤作品にも、音楽劇・ストレートプレイを問わず、音楽が物語を紡ぐ糸になっている作品は多いんだけど、それはやっぱり、ばらばらなものを束ねる「糸」であって、おもちゃ箱ひっくり返し志向の串田とはベクトルが正反対だからね。
ぽわん:あれはあれで絶妙だったよねえ、しみじみ。
たぬき:ともあれ斎藤憐の偉いところは、空間と時間の凝縮を旨とする近代劇の枠に敢えてとどまったこと。実際、三単一の法則が有する観客を引きつける力というのは、本当に馬鹿にならない。音楽の力とか幻想性とかは、あくまでその凝集性を助け、彩るものだったんだね。
ぽわん:うんうん。
たぬき:もちろん彼だって、初期の作品ではいろいろ実験的な試みをやってたんだけど、井上ひさし同様、年を取るごとにやっぱり堅固な劇構造ってやつの偉大さに気づいたんじゃないかなあ。ぽわんさんが言うとおり、枠組みを取り払った飛躍系芝居を成功させるのは、羅針盤なしで大海を渡るようなもんで、ほんとにリスクが大きい。当たればデカいけど正直確率は低いし、そもそも相当の才覚が要るよね。


現在進行形の社会劇とは

たぬき:と、ここまで斎藤憐礼賛の言葉を連ねてきたわたくし、たぬきだけど、実のところ、彼が終生抱き続けた制度的なものへの生理的な反感と、それと表裏一体となった完全なる自由の希求ってやつは、さすがに耐用年数が切れてしまったとも感じているんだ。これは無論、彼の演劇人生が60年安保の敗北と軌を一にして始まったという個人史的な事情に端を発している訳だけど。
ぽわん:つまり、そんな斎藤憐と、まだ今後生きて行かなければならない作家は違う、と?
たぬき:うん。要するに「制度=悪」という概念そのものが古びてしまってるんじゃないの? 最近は「制度自体をアプリオリに悪とみなすこと自体が往々にして最悪のシステムを形成する」みたいな考えが主流でしょ?
ぽわん:そうだね。制度自体に圧倒的な強度がないというか、真っ向からぶつかっていくような「体制」自体が見えないもんね。見えないだけで存在しているのかもしれないけれど。そこへいくと、坂手は仮想敵(?)を設定して闘うところが、ちょっとドン・キホーテ的でもあり、やっぱり古風だと言わざるを得ないね。本人ももちろんわかってやっているわけだけど。
たぬき:ただ、坂手が昔からやってる沖縄とか紛争地帯をネタにした芝居って、正直「助成つきで安全地帯から題材を搾取するだけの植民地主義的演劇」みたいなレッテルを貼られる危険性があるとは思うんだ。もちろん本人がいちばん自覚してると思うけど、一旦始めるとやめられないんだねえ。
ぽわん:長年続けていると、書き手にとって身近な問題から、一歩も二歩も手を伸ばさなくてはならなくなるからね。戦場ルポライターがどんどん危険地域に行くのと同じかな? つまり、意味のあることだとも言ってるわけなんだけど、わたしは。
たぬき:もちろんわたくし、たぬきもアクティヴィストとしての坂手は大したもんだと思ってる。ただ、ひとつの事件に関してデマも真実もいっしょくたになって膨大に流れてしまうこのネット時代に、ああいうアプローチがどこまで有効なのか疑問を抱かずにはいられないねえ。彼は一本の芝居に「隠された真実」と「変にファンタスティックなユートピア」と同時に詰め込むのが好きだけど、それってネット上のコミュニティの似姿でしかない気も…。
ぽわん:じゃあ21世紀になって考えられる社会的表現ってなんだろう? そもそも、すべての演劇が、言ってしまえば社会性をもっているとも言えるわけだけど、ここはひとつ、斎藤憐的な狭義の社会劇について考えようよ。
たぬき:えーと、彼はもっぱら歴史劇という形で社会問題にアプローチした劇作家だから、まずその線で考えてみよう。鄭義信とか青木豪とかの自伝ベースの芝居は、昭和という時代を笑いあり涙ありで描いたという点では、井上ひさし=斎藤憐ラインにつながるようにも見える。けどやっぱり違う、というかどこか食い足りない。それはつまり、井上戯曲で言えば「諸悪の根源は天皇制だ!!」斎藤戯曲なら「制度は抑圧だ、自由万歳!!」に相当する、切実な叫びがないからなんだよね。やっぱり、共感するしないとは全く無関係に、観客って何らかの強烈なメッセージを受け取りたい訳。家族愛とか人間讃歌で終始されても物足りないんだよ。
ぽわん:まあ、鄭にしても青木にしても愛や讃歌だけじゃないと思うけど、悪や批判も個人史的な感じで、普遍的な広がりがない感じだからね。
たぬき:うん。例えば、バブル経済とその崩壊なんかも、いい加減劇作家個人の体験の延長線上なんかじゃなくて、もっと深い、あるいは広いパースペクティヴを持った歴史劇として取り上げるべきなんじゃない? だって、東京裁判の速記録を元に構成された木下順二の「審判」第一部が上演されたのが、裁判終結から数えて22年後。もうすぐ終わろうとしてる今年2011年も、プラザ合意から26年、総量規制から数えてすら早21年なんだからね。
ぽわん:考えてみたら、わたしたちの寿命なんてとっくに尽きてるねえ。
たぬき:いや、そこはほら、マタタビの威力で・・・。


「何を書くか」と「どう書くか」の関係

たぬき:歴史劇じゃなくて、現代を直接扱う場合なんだけど、坂手的な告発劇の衝撃度が落ちてきてるとするなら、やっぱり永井愛とか渡辺えりみたいに、身近な怒りに端を発しつつもそれを1本の娯楽劇に仕立てるってやつがいちばん、社会的な訴えかけとして有効、ってことになるのかな。「制度=悪」という斎藤憐的大風呂敷じゃなくて、「考えれば考えるほどコレって問題だよね」みたいな、やや射程距離の短いタイプ。
ぽわん:それをたとえば、今の若い世代がやるとしたらどうなるかな? 今年のフェスティバル/トーキョーの公募アワードを受賞した捩子ぴじんなんかは、コンビニでアルバイトする自分というものを描いたけど、まんま過ぎて演劇としてどうか?という議論も。もちろん例外もあるけど、今評価されている作家のおおまかな傾向として、外はどうでもいいから自分の世界だけをひたすら構築したいっていうタイプと、ひねりがなさ過ぎと言われるくらいにそのままずばりなタイプと、分かれている気もする。若い作家の力量からすると、なかなか歴史的な文脈も踏まえ、政治的な批判や社会への鋭い眼差しも感じさせつつ、フィクションとして豊かなものを作るっていうのは、端的に言って難しいのだろうけれども。
たぬき:年齢は少しいっちゃうけど、松田正隆なんかは堂々たる前衛仕立てで健在だし、確かに若い人のドキュメンタリー風味の今様報告劇みたいなのは増えてきたねえ。でもさ、根本的には社会劇って、マスに届いてはじめて機能する訳で、そういう意味でも、斎藤憐が自負してたウェルメイドな職人芸アプローチってやっぱり大事じゃない?
ぽわん:それが今の作家の多くにとって、難しかったり興味がなかったりするから、少ないってことかなあ。最近では岡崎藝術座が移民や国家について扱ってたね。内容にはちょっと不満が残るというか、もっと問題の所在をしっかりえぐってほしかったし、身体や空間の可能性を探求してほしかった・・・と、不満も残るけど、引き続き進めていってほしい方向性ではあるかなあ。
たぬき:うん。「掘り下げろ」は、いくら強調してもしすぎることはないね。とにかく資料集めと読み込み、あと、取材には手間をかけないと。それで思い出したけど、平田オリザも下調べの重要性については強調するところだよ。でもここだけの話、「何を書くかは問題とされない。いかに書くかだけが問題とされる」という、彼が切ってみせた大見得の悪影響って大きかったと思うんだ。あのせいで「何を書くか」がひどく軽視されてしまった。そもそも、社会劇って「何を書くか」ありきじゃない?
ぽわん:内容と形式の問題っていうのはどの芸術ジャンルにも言えることだね。でもさっきも言ったように、「何を書くか」だけだと、そのまんま過ぎるんだよ。「何を書くか」と「どう書くか」。さじ加減が難しいけど、わたしとしては両方にこだわりたいかな。
たぬき:要するに、「言いたいことは何か」と「それがどのくらい表現として完成されているか」の両方を問うという、至極当たり前の話だよね。
ぽわん:そう。若い創作志望者は往々にして「意余って力足りず」状態だけど、だからと言ってこちらとしては大目に見る訳にはいかない。仮に彼らの修練が不足していたのなら、観客の貴重な時間とお金を使わせてしまった以上、批判されても甘んじて受けて次に行かなければならないね。なんでこんな言わずもがなのことを言うかというと、今の若い作家って、批判されるとムキになって、しかもブログやツイッターやインタビューで「むかつく」とか言うから、批判しにくいんだよね。
たぬき:確かに、作品上でもツイッター上でも、「オレはこういうことが言いたいんだー分かってくれー」みたいな感じの人が増えてきたねえ。それだけじゃ作品としては無価値なのに。
ぽわん:もともと作家もそういうことを言いたくて、ブログやツイッターがいいツールになったということかもしれないけど、できれば作品で、ダイレクトにではなく観客それぞれの問題意識に照らし合わせて考えられるような感じで豊かに語ってほしいね。
たぬき:我々こそご意見無用の言いたい放題状態だけどね…。
ぽわん:批判的な意見が言いにくい空気だから、わたしたちだって過激化しちゃうんだよね。でもだから、わたしたちみたいな意見も、虫がいい言い方かもしれないけど、作り手側もポジティブに参考にしてほしいんだよね。むかつくだろうけどさ(笑)。ってことで強引だけど、来年の演劇シーンが、たくさんの意見でより豊かになることを祈ってます!
posted by powantanuki at 01:25 | TrackBack(0) | 演劇論ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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