2011年07月13日

演劇界のオピニオンリーダーたちの偏向を糾す (あるいは流行についていけない中年ネコの嘆き!?)

ゼロ年代と90年代の関係性とは?

ぽわん:なんだかひさしぶりの更新になっちゃったね。
たぬき:6月はわれわれネコにとって換毛期だからね。
ぽわん:え、そういうことなんだっけ!? ・・・ともあれ、この間、最近の演劇についてつらつらと考えていたんだけど・・・。
たぬき:私たちの年代はメインターゲットから外れつつあるんじゃないかという不安はあるねえ、正直。
ぽわん:たとえば以前も書いたことだけど『わが星』好評の理由はいろいろあるんだろうけど、単体じゃなくて現象として考えると、ある種の一派をなす人達が、わいわいと神輿をかつぐみたいに持ち上げていている印象があるんだよね。
たぬき:「新サブカル系観客層」みたいなのが出来つつあるよね。90年代サブカルを引っ張ったのが松尾スズキとKERAだとするなら、10年代の小劇場界のフィクサーになろうとしているのが、いきなり単独名指しでナンだけど、言っちゃうと佐々木敦。『わが星』とか快快のDVDを出してるのは、彼が主宰してるHEADZレーベルだしね。ちょっと近いところにいるのが、ダンスの桜井圭介かな?
ぽわん:年齢でいうと、桜井圭介が60年生まれ、松尾スズキは62年生まれ、KERAは63年生まれ、佐々木敦は64年生まれ。ほぼ同世代なんだけど、KERA、松尾の二人が実際に創作活動を行って90年代のサブカルを牽引し、桜井は遊園地再生事業団の音楽を作っていたのに対し、佐々木は今、ゼロ年代を扱っていることと、彼が現場の人ではなく幅広く演劇を観ている人でもないっていうのは大きな違いだね。そして、佐々木がHEADZで出している雑誌『エクス・ポ』が、ゼロ年代演劇礼賛の発信源だね。
たぬき:佐々木って、80年代にシネヴィヴァン六本木でモギリのバイトをやってたことがあるんだけど、今彼がプッシュしてる小劇場周辺のややスノッブな雰囲気には、当時のWAVE文化に近い部分がある(あれよりずっとカラフルだけど)。抽象語を使って、何か立派なこと言った気になってる感じとか似てるよね。あと、WAVEが他の外盤屋に比べて利益目標が極端に低くて、しかもタワーやHMVみたいに大規模展開しなかったことも(要するに敢えて言っちゃえば緩いメセナだったんだよね、あれって)、最初っから助成ありきで、大劇場への野望なんてこれっぽっちも抱いてない今の小劇場シーンと重なる。
ぽわん:桜井も作曲から、気がついたらちんまりした稚拙なダンスを「コドモ身体」と命名したりする書き手になってた。あれもわざわざ小さいものばかり褒めてたなあ。別にそのこと自体、悪いことでもないんだけど、そこも松尾スズキやKERAとは違うね。彼らは自分のやりたいことを、より大きな劇場で行い、商業的にも一定の成功を収めているからね。それに対し、ゼロ年代の演劇は自分たちの小さな世界にこもっていて、広がったりより多くの人に見せたいみたいな欲望を感じない。あ、ちょっと話がずれたけど。というか、そういう世界を、佐々木や桜井をはじめとするひとたちがもてはやすことで、ファンを増やしているという、ある種の分業が行われている気さえするほど! 佐々木は80年代後半からの小劇場ブーム、とくに野田秀樹の「夢の遊眠社」や鴻上尚史の「第三舞台」についていけなかったみたい。でもって最近、チェルフィッチュとかを観て演劇の面白さに引き込まれたらしいよ。あまりにわかりやすくて笑っちゃうけど、『吾妻橋ダンスクロッシング』の企画として佐々木敦×岡田利規×桜井圭介鼎談も行われているね。
たぬき:要するにクラブカルチャー的なところがきっかけな訳だ。しかし、ダンスをこれまでと違うコンテクストで語ってきた桜井もさることながら、映画〜実験音楽〜文藝と遍歴してきた佐々木が新たに演劇をターゲットにするのは、なんだか東浩紀とショバが重ならないことを意識してる感じで可笑しいね。彼は「そんな意図はない、単にcutting-edgeな事象にしか興味が湧かないだけだ」みたいなことを言うんだろうけど(笑)。

「演劇全体はどうでもいい」のか

たぬき:勢いで佐々木についてちょっと言っちゃうとね(笑)、サブカルのイデオローグを目指す彼にとって、東浩紀と共に重要なのは蓮實重彦。駆け出しの頃の映画評なんかに一目瞭然だけど、要するに初期は完全に単なるエピゴーネン。今もタームとかにその名残があるけれど、フランス文学者でありながら映画評論界の一大権威となった蓮實が、東と並ぶ彼のロールモデルなのは間違いない。ただし佐々木にはテニュアという堅固な基盤が無い訳で、だから彼が最終的に学んだことは、映画に殉じることでもアカデミアで栄達することでもなく、その煽動家的側面。つまり、ペダントリーをちらつかせて一種の権威になることによって、興行側も観客もまるごと自分の影響下に収めるという戦術だね。
ぽわん:なるほど。それは今、実行されつつあることだね。
たぬき:これが、流行りものを追っかけるだけのコラムニストより一段上手であると同時に、なんとも胡散臭い部分。そしてテニュアを持たない彼は、まさにそのコラムニスト的に、つまみ食いというか焼畑農業方式で未踏の領域を探し続けることで、自分の商品価値をつねに新鮮に保つ必要がある。
ぽわん:つまり、佐々木は今、つまみ食いに選んだのが、世間的にはマイナーな小劇場の、さらに一部の演劇である、と?
たぬき:そうそう。言うまでもなく小劇場って、たとえ滑舌が悪かろうが猫背だろうが、新鮮さとか素の魅力とかでなんとかなるという面がある。その代わり、あっという間につまらなくなるけれど。「この手は長持ちしない」とか「この方法論には伸び代がない」とか、そういうことは彼は考えないね。
ぽわん:つまり、演劇の業界の人じゃないから、つまらなくなったら離れていくだけのことなんだよね。そこが私ぽわんもすごく引っかかっているところなの。演劇を広く観ない人が語るな、なんてことを言うつもりは毛頭ないけど、それだけが演劇であるかの印象を与え、観客に偏りを作ってしまっている。それだけの影響力が、演劇の批評家たちにないことも問題なのかもしれないけど、はっきり言って、一つのものをじっくり深く観ずにぱっと面白いことを言うのは割に簡単だし、目を引き易いから、ずるいとも思う。結果、ほかの演劇については考えず、佐々木をはじめとするオピニオンリーダーが褒める一部のものしか観ない観客が増えている気がする。いやまあ、そのこと自体は佐々木のせいじゃないかもしれないけどね。
たぬき:うん。新参者は当然歓迎すべきなんだけど、あるムーヴメント内で起きてることって必ず玉石混淆なんだから、舞い上がってる人々を横目に、玉と石の区別をきちんとしたパースペクティヴから評価できる演劇の専門家がいないことのほうがもっと問題だよね。それにしても、ほら普通の演劇ファンって大概「伝説の××に間に合わなかったコンプレックス」があるけど、佐々木には「遅れてきた人間」意識みたいなのが全然ないよね。よっぽど自分の感性ってやつに自信があるのかね。
ぽわん:というか、最近になって岡田利規(チェルフィッチュ)、柴幸男(ままごと)、藤田貴大(マームとジプシー)・・・といったものに、自分の感性と近いものをみつけて喜んでいるみたい。本人もこれらは平田オリザに始まる形式論の系譜だというようなことを指摘してるね。
たぬき:それは一目瞭然だからね。でも御本尊の芝居は大して好きじゃないんじゃないかな(笑)。
ぽわん:そうかも(笑)。ともあれあの手の人達って、演劇なりダンスなりが目的じゃなくて手段になってるって感じがするよね。
たぬき:そうそう。宮沢章夫〜いとうせいこう〜桜井〜佐々木あたりは、言わばサブカル版岩波文化人として緩く連帯してる感じ。党派性には党派性をもってするしかないのだとすると、それに対抗する右派というか“サブカル文春”が必要なのか!? いや、サブカルはそもそも文春的なものとは相容れないのか・・・?
ぽわん:われわれが“文春的連帯”をしても明らかに力不足だけど、まあ、こっそりがんばりますかねえ(笑)。

右も左もひれ伏す真の才能、求む!!

ぽわん:さて、ここで、そこまで御神輿的に褒めてるのかぽわんが納得できずにいる舞台について述べるね。ままごと『わが星』でしょ、あと、マームとジプシーの作品とかロロの作品とか。いずれも、昔ながらの台詞や戯曲構造の巧みさ、基本的かつ重要な演出技法などをなおざりにしたもので、音楽的には今風なものも(全部じゃないけど)多いから、音楽畑の佐々木と桜井にも共感しやすいのかな。
たぬき:とはいえ、佐々木が青山真治監督の『GGR』を褒めているのは意味不明というか、いかに演劇の基礎がわかっていないかの証左だよ。あの舞台は、とにかく形になってなかったから。台詞劇なんだから本来は舞台の進行に従って登場人物の心理とか関係性が刻々変化するんだけど、それを舞台の動線や役者同士の絡みで視覚化するという作業が全然やられてない。それって演出の基本なのにね。
ぽわん:うん、あれを褒める佐々木って、やっぱり、演劇についての基本的な素養がないと思ったよ。
たぬき:あと、1幕と2幕の舞台転換で書類を撒いていたけど、紙とか花って、撒くことで舞台の景色が変わらないと効果が上がらないんだよね。あの場面って部屋は最初から散らかってる訳だから、分かってないよなー、としか言いようがなかったね。オープニングの意図不明なサックス演奏に至っては何をかいわんやという奴だ。
ぽわん:冒頭の中華料理店の装置からして変だったよね。セットが動くんだけど、それが立体的じゃなくて・・・あれは映像的、なのかなあ?
たぬき:あれって要するに、映画と同じ2時間休憩なしにしたくて、そのせいで1幕の中華料理店のセットが割を食ったってだけだと思う。つまり、ああしか動かせるスペースが残ってないんだ。しかし、プロローグだけとかなら兎も角、1幕全部を黒幕でエリア半分に区切りっぱなしというのは素人としか言いようが無いねえ。
ぽわん:マームとジプシーやロロは典型的なゼロ年代演劇。作り手は20代前半で、すごーく閉じた世界観が特徴なんだけど、佐々木はあれを褒めて何がしたいのかな。ゆとり世代の若者は褒めて伸ばすってか? そんな教育者的使命感、彼はもってないと思うけどね。
たぬき:ごめん、もうその辺りの劇団はもう端からターゲットじゃないと思ってて、全然観てないんだ(笑)。
ぽわん:そっか。ちなみにゼロ年代ではない人で言うと、佐々木は飴屋法水が好きみたい。少し前の『おもいのまま』を佐々木はツイッターで「物凄い」と褒めていて、「いかなる企画、いかなる内容であれ、僕はもちろん凄いに決まってると思っていたが、しかしいつも飴屋さんは、その遥か上にいってしまう」と大絶賛。ちなみに、ツイッターの140字で揚げ足とるのもおとなげないかもしれないけど過去に「リスペクトにも二種類ある」として、全肯定と部分肯定を挙げて、「僕は後者しか出来ない。というより前者はリスペクトではない」と書いているんだけど、そのスタンスと飴屋礼賛は矛盾しないのかな?(笑)
たぬき:そのくらいは大目に見てあげなよ(笑)。青山とか飴屋とかの固有名にひれ伏しちゃうのは、要するに蓮實が提唱してた作家主義の軛から逃れてないってだけだろうね。で、飴屋演出の『おもいのまま』は具体的にどうだったの?
ぽわん:とにかく中島新とかいう人の書き下ろし戯曲が稚拙過ぎた! 要はタイトル通り、思いによって、状況は変えられるんだということを、とある秘密をもった夫婦のもとを侵入者が来るという設定はそのままに、前半/後半で同じ状況を描きながら少しずつ差異を出して行くんだけど、その秘密というのも単に性的志向だったりとひねりもなく陳腐だったり、前半と後半で解消されないままの謎かけもあって、あきらかにだめだめな戯曲だった。ということは、それをいかに役者が頑張っても、飴屋が音や光をかっこ良く使っても、舞台全体としては駄作だよ。なのに佐々木は「飴屋、飴屋」って双手を上げて絶賛してて、ツイッターでもほかのひとが「佐々木さんが褒めているから観なきゃ」って言ってたりしたよ(ため息)。そういうのを見ると、やっぱり、演劇がわかってないのに影響力があって嫌だなあって感じがしちゃうんだよね。桜井圭介も同じで、ダンスや演劇の一部だけを愛して、あとは興味なしっていう感じがするんだ。まあ佐々木よりはいろいろ観ている印象もあるけど。
たぬき:まあ、彼らのような、オルタナティブな視点がない人達がオピニオンリーダーになっちゃっているのは残念だけど、ゼロ年代の内輪な自閉的表現自体に対しては、今の若者にとってそれがリアルなのならそうですかと言うしかないさ。私たぬきには正直つまらないけど、それを言うなら、80年代の自分探しも90年代の露悪性も、当時の中年世代にはそれぞれ共感不能だったに違いない。ただ、二昔前には「やってることは学芸会だなと思うんだけど、やっぱりあの野田ってのは凄い役者だから、客席では浮いてるけど観に行ってしまう」みたいなことを言う年配の演劇愛好家はいたよね。すれっからしの中年を引きつける、そういうスペシャルな存在が今の小劇場にいるといいのにねえ・・・。
ぽわん:そうそう。だからまあ極論から言えば、今たぬきさんが「岩波派」と命名(笑)した人たちが褒めていても気にならないくらい、「文春派」!?も褒めたくなるような大きな才能がいないってことなんだよね。もちろん、褒めて育てるっていう現代教育は大事なのかもしれないけどさ(笑)。
posted by powantanuki at 12:26 | TrackBack(0) | 演劇論ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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