2012年07月08日

大阪市長・橋下徹の文楽批判は文化の否定そのもの

大阪が文楽に補助金を出すのは無駄遣い?!

ぽわん:このところ(2012年7月8日現在)、文楽に対する大阪からの補助金の話題が沸騰しているねえ。おおまかな流れは、犬丸治の「橋下徹と大阪「文楽」問題を憂う」 http://homepage3.nifty.com/inumaru/newpage2012.06.26.html が詳しいので参照してほしいんだけど。
たぬき:景気が悪くなると真っ先に削られるのが文化予算だよね。こういうことに抵抗して井上ひさしも平田オリザも「演劇は生活のインフラ」みたいなことを一生懸命言ってたけど、橋下徹的なルサンチマンに同調する人間には、文化人が弄するレトリックの詐欺にしか思えないんだろう。
ぽわん:橋下的ルサンチマンって?
たぬき:自分が了解不能な存在に対する、度を超した憎悪の念とでも言えばいいのかな?
ぽわん:橋下改革って、文化予算に限らずとにかく競争原理の導入一本槍だよね。協会がどうの集客がどうのと言いつつ、そこが改善するか否かよりも、文楽と小劇場と同じスタートラインで、自分の主導下で競争させようとしているような感じもあるね。でも、小劇場と文楽のどっちが良いとか決めるのは土台無理な話。そもそも芸術って、たとえ同一ジャンルにせよ比較できるもんじゃないよ。そういうのが明快なスポーツでさえ、例えば陸上競技で短距離走者と長距離走者とどっちが速いかなんて、決められる?
たぬき:質と量の問題って、科学公式みたいに変換できないからね。橋下が引き合いに出す落語はほぼ身一つでできる点が文楽と違うよね。量と言えば、「そもそも経済的に自立できないようでは文化の名に値しない、その証拠に浮世絵もアニメも世界で人気」みたいなことを言う人もいるけれど、浮世絵もアニメもランゲージ・バリアーを突破しやすかったのと同時に(アニメは吹き替えによるオリジナリティ損失率が実写に比べて格段に低いから)、複製による大量流通が可能だから出来たことなんだよね。
ぽわん:その代わり、舞台芸術には複製芸術には逆立ちしても不可能な何かがあって、文楽には長い時をかけて練り上げられた、一度絶えたら二度と戻らない伝統の力としか言いようの無いものがある。我々はそれを、個々人の修練によって目の前で更新されていく瞬間に立ち会うことができるんだよね。つまり、伝統芸能には、二重の意味で複製不可能性があると言える。一つには、その場にしか現前化しない生の芸術であること。もう一つには、それでいて時間の蓄積の結果であるということ。一つ目には小劇場の演劇も当てはまるけど、二つ目の理由で、伝統芸能が助成の上で尊重されるのは自然な流れ。京劇なんて文化大革命で死に絶えちゃったよね・・・
たぬき:本来文化予算の交渉って「そちらも大変だと思うんですがこちらの財政も厳しいので」みたいに丸腰が似合うジャンルなのに、とにかく相手イコール敵としか見なせない弁護士根性からか、文楽自体を徹底的に誹謗することで、「減額=改革=良い事」みたいなイメージを、文楽の魅力を知らない人々に植え付けちゃったんだよね。
ぽわん:植え付けの効果は絶大だよね。文楽協会はまったく反論しないし。要するに橋下は、協会を批判しつつ、その協会のダメさを利用して自分の意見を広めている。即座にきちんと反論するような集団だったら、ここまで言いたい放題できなかったからね。
たぬき:橋下は文楽批判の放言を繰り返すことで、文楽を改革アピールのスケープゴートにしたいだけ。私たぬきが文楽の関係者なら、自分たちが誇りを持って取り組んでいるものを、政争の具として誹謗されたり命令されたりするのには耐えられないよ。
ぽわん:橋下が批判する公益財団法人文楽協会がなぜこんなにダメダメかというと、確かに彼が言う通り、大阪市とかからの天下りが多くて、文楽についての知識や能力がある人達の組織じゃないから。そもそも国・府・市・NHKが補助金を出し合って作られて、そのときから天下りがいたのかな? で、国立劇場ができたタイミングでなくなるはずが、なぜか実権が弱まったかたちで残っちゃったんだってね。だから文楽協会が改革されるべきだというのは当事者含めてみんな思っているんじゃないかという気がするけど、それが文楽そのものの否定と結びつけて論じられているところがね・・・。けど文楽協会は大阪市の外郭団体でも何でもなくて、主務官庁は文部科学省。なのに、まるで市のものみたいにえばって改革迫って、いくらなんでも度が過ぎているよねえ。
たぬき:まったくだよ。腹に据えかねるとはまさにこのこと。とは言え、一応フェアに、相手の公式文書を読んでみようと、その徹底した頭の悪さに何度も辟易しながらも、 http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html を読んでみたよ。
ぽわん:どういう頭の悪さが感じられた?
たぬき:第一に、文楽協会内部の単なる人事問題と、芸能としての文楽が思いっきり混同されてること。天下りOBの問題とか、送ってた側が勝手に引き上げればいいだけの話。文楽を実際にやっている人達=技芸員だって、興行の素人を送り込まれて困ってたと思うよ。
 第二に、橋下が「人間国宝だからと言っても税で、その人の収入を維持するのはおかしいというのが僕の感覚です。 人間国宝であろうとなんであろうと、鑑賞料で賄えない文化であれば、それは保存の意味。」(ここで切れてるのは原文ママ。「意味がない」と言いたかったのかな?)「芸事は、芸で鑑賞料を賄えるかどうかが全て」と書き、参与の民俗学者・橋本裕之も「国税・地方税を投入する根拠はあくまでも文化財。文化振興に国税・地方税を投入する根拠は薄弱。そもそも文楽は興行である。これは伝統芸能全般にあてはまる」 (ワークグループ文書「伝統芸能のグレートリセット―制度設計に向けて―」 http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/cmsfiles/contents/0000174/174249/tenpu1.pdf ) とか書いてるけど、文楽は興行であると同時に国の重要無形文化財であって、ここに、彼の言葉をそのまま使えば「国税・地方税を投入する根拠」が発生する。要するに二人とも、「政府及び地方公共団体は、文化財がわが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり、且つ、将来の文化の向上発展の基礎をなすものであることを認識し、その保存が適切に行われるように、周到の注意をもつてこの法律の趣旨の徹底に努めなければならない」という、文化財保護法第一章第三条「政府及び地方公共団体の任務」に真っ向から反対する、異端の説を述べてることになる。
ぽわん:わ、長い説明だったね(笑)。つまり、興行価値を文化財保護の観点より優先してしまうと「適切な保存」が難しくなるってことかな? 美術館が、たとえ集客を犠牲にしても、損傷しやすい国宝や重文の展示に極めてデリケートなのと同じだよね?
たぬき:そうそう。橋下と橋本裕之の主張が正統となるためには、まず文部科学大臣に掛け合って、文楽を重要無形文化財の指定から解除してもらうところから始めないといけないんだよ。えーと、さっき一部引用した、橋本裕之による「伝統芸能のグレートリセット―制度設計に向けて―」には、かなりの問題点があるので、もうしばらく付き合ってね。


「文化財保護だけは、国が主で自治体は従」の怪

たぬき:えーと、「文楽協会に対する国の補助金は、文楽がどうにもならない状況にあったさい、国が重要無形文化財である文楽を保存するため、緊急措置として設けたものである。(参考資料:「重要無形文化財伝承事業費国庫補助 要項」)以降、半世紀以上にわたって再検討されないまま自明視されてきたが、そもそもきわめて不自然かつ不均衡な措置である。大阪府市の補助金もその内容に準じる」とあるんだけど、これはいろいろと間違い。
ぽわん:たとえば?
たぬき:そもそも、今から半世紀前に文楽協会は存在していない(設立は1963年)ので、まず「半世紀以上」か「文楽協会」のどちらかかは絶対に嘘なんだけど、とりあえず国・府・市からの補助金は半世紀以上前から出てるのは事実なので、二つの仮定で考えてみるよ。
 【その一】後者の「文楽協会」が「文楽」の書き間違いであるとする。その場合、文楽協会設立前の1953年度から始まった助成金の交付は、彼が言うように「文楽がどうにもならない状況にあった」からじゃなくて、単に戦後の文化政策の転換によるもの。重要無形文化財の指定と助成金交付に先立つ、豊竹古靱太夫の文楽界初の芸術院会員(1946年)ならびに掾号受領と天覧(1947年)に象徴されてるように、敗戦後、それまで大阪の一郷土芸能であった文楽は、一躍国民的文化財として認められた訳。つまり、分裂(1948-63年)はすれど敗戦後の文楽は基本的にリスペクトされてたというか、言い方を変えれば2団体に分かれてもなんとかなってた訳で、「どうにもならない状況」という表現は的外れ。そもそも文楽って、戦前からずーっと苦労しっぱなしだったんだから。
 【その二】後者の「文楽協会」のほうが合ってるけど、前者の「半世紀以上」が「半世紀弱」の間違い、つまり、"松竹が"「どうにもならない状況にあった」ために成立した、文楽協会以後の補助金の話だと仮定してみよう。残念ながら、そうだとしても補助金が"緊急措置"というのは完全に間違い。松竹が手放してからの文楽は、手間のかかる割にお客さんの入りが悪い通し上演とか、学究的な資料集の発行とか、補助金なしには絶対にできないことばかりやってきた。こうした努力は、文楽が「わが国の歴史、文化等の正しい理解のため欠くことのできないものであり、且つ、将来の文化の向上発展の基礎をなすものであることを認識し、その保存が適切に行われるように、周到の注意をもつてこの法律の趣旨の徹底に努めなければならない」という文化財保護法の精神に基づくことは言うまでもない。
ぽわん:つまり、ざっくりまとめると、文楽は、興行であると同時に文化財であるのだから、国も地方自治体も一体になって大事にしなければいけないってことかな? 確かに、皆が古い美術品や資料を鑑賞して楽しむわけじゃないのに、そこに大きな税金を投入することに、人々から文句が出たりはしないねえ。ただ、今回問題なのは、国からの補助はともかく、地方自治体に過ぎない大阪からの補助金の話だと思うんだけど。
たぬき:さっきも引用したとおり、本来文化財保護の任務を帯びるのは「政府及び地方公共団体」。あたかも国が主で自治体が従みたいに思われていて、現に池末浩規参与は「大阪市としては「文化財保護」に与する必要はなく」と勝手に言い切り、橋下は更に独断を進めて「文楽を守る役割は結局国にある」「自治体の役割は振興」とか言い出してる。そんな役割分担、勝手に決められる訳ないじゃない。
ぽわん:国が主で自治体が従というのは、他ならぬ橋下市長にとって心外のはずじゃないのかしらねえ!


文楽は無形文化財の動態保護の進化形

たぬき:今回の騒動で市長やその周辺の人達が分かってないのは、無形文化財においては「現状維持」自体がものすごく大変だということ。今でさえレパートリーのマンネリ化とか芸の正統な継承とかが危惧されているのに、これ以上の退化を招いてどうするんだよ。
ぽわん:文楽は興行という形態でやっているから、客の入りが悪いだの何だのと数字で言われちゃうけど、美術館や博物館に眠る(中には展示すら滅多にされないものもある)品々に比べたら、稼いでいるかもしれないよねえ。
たぬき:そうそう。さっきちょっと言ったけど、文化財を保護する最上の手段は、絵画なんかだと金輪際展示なんかせずに、温度・湿度を厳重に管理した真っ暗な部屋にしまっとくこと。展示すること自体が最大の劣化原因だからね。それとは対照的に、人間の手になる無形文化財は常に上演されてないと死んでしまう。それも形骸化と俗化という二つの罠から逃れながらね。散文的に言い換えるなら、決して原点を忘れることなく、かといって時流から取り残されるでもなく無論おもねるでもなく、みたいな健全な新陳代謝かな。育成が正常に機能していれば、良い意味での現在性は保たれるはずだけど。
ぽわん:最近では文化財的な建物なども「動態保存」するよね。文楽はあれの先駆的な意味合いとも考えられるわけだよね。
たぬき:前述の大阪市のHPにもある通り、橋下は三谷幸喜が作る文楽を、見もしないうちからえらく持ち上げてるけど、古典芸能にとっての新作とは、新しい観客を呼ぶための機会であると同時に、芸が形骸化しないための活性剤であって、どちらにしても古典へのフィードバックありきのもの。だから我々は、橋下一派が考える"稼げる文楽"が、文楽の形骸化・俗化を招かないよう、それこそ「保存が適切に行われるように、周到の注意をもつて」見守らなければならない。歌舞伎を例に挙げると、最初は新作の楽しさとか世話物の分かりやすさから入るかもしれないけど、結局は時代物こそその神髄だと気づく訳じゃない?そういうのって、たぶん橋下には理解できないんだろうけど。
ぽわん:7/8のツイッターでは、杉本文楽のドキュメンタリーも楽しんだと書いているね。だけど、あれはお金かかり過ぎて黒字にはなってない、つまり稼げてないはず。それに、彼が少なくとも口では大事だと言っている「庶民」には楽しめないチケット代だったよね。会場もセレブであふれていて。
たぬき:何らかのかたちで工夫して、鑑賞の機会を増やすことは大切だけど、それは基本的に営業サイドが知恵を絞ることで、芸そのものが安易な受けに堕すことだけは絶対にやっちゃいけない。例えば、イヤホンガイドを英語だけじゃなくて韓国語・中国語にまで増やすことで、文楽のバックグラウンドである儒教道徳(とそれとの相克)を共有している、東アジア文化圏の団体客へのアピールを強めるとか、そういう工夫はアリかもね。
ぽわん:こういうご時世なので、興行としてどう成立させていくかも考えないといけないものね。ただし、興行だ!と言い切って文化財保護をやめるのは間違っている。となると“二元の道”を模索するのがいいのかなあ。
たぬき:顧客獲得という点からすると、7/8の橋下のツイート「古典文楽も、文楽の技術を継承するためには必要なのであろう。しかしエンターテイメントである以上、新規のファンも増やさなければならない。二本立てでいいじゃないか。」は一見正しそうだけど、「文楽がエンターテイメントになっていない。高尚な芸術として保護の対象になってしまっていることが問題の本質だ」というのは間違い。少なくともいま劇場に熱心に通っている人間は存在しているのだから。
ぽわん:いっぱい批判を受けて「古典も」って書くようになったみたいだけど、興味ない感じが伝わるよ。わかりやすいひとだね(笑)。それはともかく、大阪の文楽劇場の入場率が5割とはいっても、それは劇場が大きいからであって、大阪だけで年間で9万人以上動員してるんだよね。もちろんもっと増えたほうがいいけど、新規のファンにおもねる余り、この9万人を失うことになったら本末転倒だよ。
たぬき:まったくだ。既存のファンの中には、文楽がもはや古典としての品格を失ってしまう危険を憂いている人はいても(ちょうど世代交代の時期だからね)、これ以上の娯楽性を望んでいる人はあまりいないと思うんだよ。現在でさえ動員力優先の演目や配役に不満が出てるというのに、これ以上新規開拓ばかりだったらコアファンを失いかねない、というかそれ以前に無形文化財としての意義すら疑われてしまう。
ぽわん:同じ7/8のツイートに、「文楽はエンターテイメントに戻るべきだ。技芸員の技術は世界に誇れる。文楽に今必要なのは、演出・プロデュースだ」「歌舞伎のように現代に合わせた演出のものもやれば、古典もやるように二本立てにするべきだ」ともあるね。
たぬき:けど、新作とか新演出って時間もお金も手間もすごくかかるもんだからそれこそ財源が要るし、従来のファンと新規のファン、両方を楽しませるとなると相当ハードルは高い。古典の良さが理解できない反動で、彼は新作とか新演出に対して楽観の度が過ぎると思うよ。要するに、いろいろと見る目がないってことだ。
ぽわん:とどのつまり、文楽の問題というのは、時間、技芸、作品などケースバイケースで、細やかに忍耐強く考えていかなければならないことなんだよね。それを橋下みたいに現場への理解もなく礼儀も敬意もないまま、YESかNOかの二者択一で判断しようとするのが、どだい無理な話。でも考えてみれば、ホントはこれって他の事柄を含む、政治全体に言えることだよね? というわけで、文楽の問題から見えてきたのは、橋下の政治家としての限界でもあるのでした!
posted by powantanuki at 22:34 | TrackBack(0) | 演劇論ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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