2011年07月20日

反響を受けての感想、および、改めての立場表明

ぽわん:いやあ、前々回のエントリーで話題にした方々からいろいろな反応があって、面白かったね!
たぬき:ああいう方々は、我々のゲリラ戦みたいなやり口には超然としてるものだと思ってたよ。いや、それは当初そう思っていたというだけのことで、結果的に反応があったのはむしろ有り難いんだけどね! だからと言って、それこそ一部で"邪推"されてたように「けんかをふっかけることでかまってほしかった」訳じゃ全然ない(笑)。もともとこっちが話しかけたわけじゃないんだし。こちらが書いた人の中には、愚痴ったりアフォリズムもどきを吐いたりしてた人もいたね。
ぽわん:そうそう。公的な媒体に書いているんだから、演劇専門ではないにしてもプロの批評家の仕事の範疇だと思ってたのに、「趣味で舞台観て感想書いてるだけ」「僕という存在を、勝手に大きく見積もった上で(断っておくが僕の「影響力」など微弱なものだ)、引き下ろすという謎の二段階の行為をしている」なんて言ってる人もいて驚いた! 私たちだって、そこまで自他ともに認めるど素人だとわかってたら、批判の矛先も鈍ったかもね(笑)。
たぬき:それにしても「サブカル版岩波文化人」はヒットだったみたいだね(笑)。おかげでこっちのブログのアクセスワードは「岩波文化人」だらけ(笑)。そんな中、桜井圭介氏が直接話しかけて来たのは先のエントリーの通りだけど、実際、正面から反応してくれたことには、敬意を表したい!
ぽわん:さて、前置きはこのくらいにして、桜井氏からこのようにご返事いただいたので、前回同様、連名形式でご返事してみますか。といっても、論点は整理されてきたかと思うので、もうオウム返しみたいなことはやりませんよ。

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桜井圭介氏の質問へのご返事 2

 まず、大前提として書きたいのは、このブログは、開設当初から、二人の猫が「なんでこんな舞台が褒められるのか分からない」と感じた出来事に関して、率直かつ毒舌でくっちゃべりながら、考えたり検証していったりするというスタンスだということ。具体的に例証もしてはいますが、根本的に言うと、ニュートラルな文体だとか事実の積み重ねによる論証とかには興味がありません。その反対に、思いつくままにあちこち脱線したり具体例を挙げたり留保したり断言したりしながら話が転がっていく、要するに観劇後の演劇トークのノリで対象を考察しています。
 ですから、桜井氏から「印象」についての指摘があったとき、「なんで語尾にだけこだわってるんだろ。もっと無茶なこといっぱい喋ってるのに」と内心いぶかしく思ってました。もっと言うと、ただの揚げ足取りだと感じました。でもせっかく聞いてくださったので、敢えてそれに乗ってみたわけです。だから、おっしゃるように「論がズレる」のは、ある意味当たり前なんです。だって、こっちも「これってズレてるのになあ」と思いながらも、話に沿って論証とやらを試みたのですから。ちなみに、twitter上の関係を可視化するサイトなんて、その時点で初めてアクセスしましたよ(笑)。

 ところで、桜井氏は「事実」とか「根拠」とかというものにこだわっていますが、そもそもそれって、そちらが思うほど簡単に確定出来る、あるいは少なくとも当事者が他人に強要できる類のことでしょうか? 英米圏では、著名人が亡くなるとしばしば、それを待っていたかのように偶像破壊的な伝記が出ますよね。生前の「本人」に対する周囲の遠慮、ないし当人が強力な煙幕を張っていることが多いからです(念のため付け加えますが、我々のスタンスは、関係者への膨大な取材を必要とするその手の作業とは対極のものですから、これはただの例示です)。要するに、そちらが求めるレベルの「論証」を行うためには、周囲の遠慮やら本人の煙幕を突破する必要があり、そのためには我々が猫の身を捨ててあなた方の極近辺に潜入する覚悟がいるんですね。残念ながら、その手のフィールドワークをやるつもりは当方にはありません。よって、そちらが示唆する、いとう氏・宮沢氏から岡田氏までも含めた正確かつ詳細かつ赤裸々なサブカル裏面史を描く気も今のところ、ありません。
 「フィールドワークの準備もせずに批判めいたことをするな」という声が聞こえてきそうですが、我々にも思うところがあります。今さっき我々のスタンスを「思いつくままに」と言いましたが、それを尤もらしく言い直せば、「体験の集積に基づく勘」です。それを「論証不可能」と切って捨てるのは結構ですが、結論から言えば「どうぞご勝手に。でも我々の考えは揺るぎませんよ」としかご返事できません。「視点の数だけ事実は存在する」みたいな極端な相対論に組している訳ではありませんが、我々はチケットを買う観客席側から発言しており、結果「まさにその通り」「言いたいことを代弁してくれてます 」という反応もいただきました。ですので、以降は幾つか、これはお答えしたほうがいいだろうというところだけピックアップすることで返信といたします。

 ツイッターでもご指摘の「“お詫びと訂正”か“追記”か」ですが、「お詫びと訂正」に至るのは明らかな間違い、例えるなら「桜井氏は実は新劇もミュージカルも大好きでした。証拠もいっぱいありました」クラスの事実誤認が発覚した場合です。でもって、追記というのは基本的に、「そっちはそういうつもりなんだあ。でもこっちにはこう見えるんだけど」という箇所に関して、「ご本人はこういうつもりらしいです」と書いてもいいですよという意味です。例えば、「ある種の一派をなす人達が、わいわいと神輿をかつぐみたいに持ち上げていている印象があるんだよね」のところに「桜井圭介さんから『僕も佐々木さんも岡田さんも色んな人と色んな場所でツルみますが、グルになって(徒党を組んで)悪だくみ(笑)はしてませんよ』という指摘を頂戴しました。」と追記するとか。なお、我々としては「頻度とかその度ごとの正確なメンバー構成は知る由もないけれど、『ツルむ』っていう言葉を用い、しかもそれが似合っちゃう/こちらが『やっぱり』と納得できちゃう時点でそれは派閥」という認識なので、全体の論旨に変更はありません。だって、意見の合う人同士とはいえ、なんでそこまでいつも仲良しなんだろうなあ、ぶつかりそうな意見・本音は言わないという暗黙の了解でもあるのかなあ、なあんて、一緒にブログをやりながらも実は芝居毎にしょちゅう意見が割れている我々2匹としては、勘ぐっちゃうんですよ(笑)。

 それから、「ダンスや演劇の一部だけを愛して、あとは興味なし」のくだりで、我々が「鬼の首を取ったつもりなんだろ」といったことをおっしゃってますね。何度も言ってますが、我々は今回俎上に上げた人々に何の下心も抱いておりません。また、ありとあらゆる公演を網羅しろとも言っておりません。ただ、一般論として、「これって視野が狭いな」と感じる意見を目にする度に「こういうこと平気で書ける人は、きっといろんなジャンルを見ていないんだろうなあ」と思ってしまうのは事実です。いわば、お書きになっているものや褒めておられるものに感じるパースペクティヴの問題です。あと、twitterに必ず書くとは限らないのはよくわかりますが、我々はツイッターヘビーユーザーじゃないけど、日常的に感じたことを頻繁につぶやいている人を観察するに、すごく良いと思ったら書きたくなるのが人間の心理かとは思いますけどね。

 ついでに言うと、下北沢云々はどちらかを持ち上げてどちらかを貶めるつもりはないですよ。そちらのクラブカルチャー〜の質問に答えただけのことで他意はないです。「クラブカルチャー的なところ」という言葉は、そういう共通点があるという以上の意味はありません。そのことに、どういう"さらなる意味”があるかは、文章全体から読み手各人が推して知るべし。ご指摘の通り、日本語における「〜的」という表現の適用範囲のやたらな広さに対してははっきり自覚して用いております。そういうのは会話体ならではの融通無碍なところです。

 あと、「『ダンスをこれまでと違うコンテクストで語ってきた』らなぜその後『演劇方面にアプローチ』することになっちゃうんでしょうか?その『根拠』がわからない(笑)」と仰ってますよね。釈迦に説法ここに極まれり、みたいな感じで申し訳ないですが、「ダンスならざるものにダンスを観るあるいはその逆」の第一人者である桜井氏が「演劇なのにダンスが見えるものあるいはその逆」が増えてきた昨今のシーンへ親近感を覚えるのは当然、みたいにパラフレーズすればよろしいでしょうかね。あ、蛇足ながら、ここでいう「ダンス」の定義が広いのは、他ならぬ桜井さんなのでご理解いただけると思います。

 次に、手段と目的の話。「僕には、さんにとって『演劇、ダンスが手段になっている』ということを裏付ける証拠た得る記述は見当たりませんでした」に関してですが、我々の主張をこの点に即した形で再構成すると「いい年した中年がこんなにくだらない演劇に感動する(=目的になる)ってことはあり得ない。ということは例によって新たな飯の種(=手段)を見つけて喜んでるのに違いない」です。もちろん彼が本気で楽しみつつそれを飯の種にしている可能性は否定できません(我々には信じ難いことですが)。その意味で桜井氏のおっしゃる「人が何かする時に『それが無私、無欲なのか打算があってのことなのか』という話はゼロか100かというふういは出来ないし、『手段か目的か』というのも、そう簡単な話じゃないと。そして、それは端から見てて分かるようなわかりやすい話じゃないよ」というのは、一番大人なご意見ですね。あとそれから、桜井氏の「ダンスに実存を仮託してしまう」という言い回しに、今さらながら「ああそういえば桜井氏は美学者だったのだなあ」という感慨を覚えましたが、でもそれって結局「桜井圭介なる主体がダンスという現象をmeansとした思考の旅をするうちに、辿り着いたendは己の実存だった」ってことじゃないですか? 「手段means」と「目的end」という大枠自体は変わらないように思います。

 最後に、powantanukiに関して誤解があることが分かりました。powantanukiとは、「1つのブログと1つのtwitterアカウントによる言語表現の総体」です。それゆえ、「あなた方と何の利害関係もない」のは自明です。審級が違うのですから。それにしても皆さん、「powantanukiアカウントのパスワードを知っている1人ないし複数の人物」の「正体」ばかりが気になるみたいですね。そっちも利害関係はありませんが、これは信じていただく以外にありませんね。顔や所属や住所といったことを抜きにして文章だけで存在するところに筆名の意味があるんだし、現にこうして議論し合えてるんですからそれでいいじゃないですか。

 我々の主張の底にあるものが、利害関係でも悪意でもなく「演劇を愛する故のもどかしさ」だと喝破してくださった方がおりました。我々はそういう方がいる限り、これまでのようにブログを続けます。

ぽわん&たぬき
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2011年07月17日

桜井圭介氏の質問へのご返事

(以下のエントリーは、いつもと違ってぽわん&たぬきの連名でお届けします!)

先のブログの文章を受けて、桜井圭介さんからツイッターで「実証的ではなく、印象で人を批判するときに、匿名はダサいと思うのです。批判も、『ためにする』批判のように見えて、あまり建設的なものとは思われません。残念です。」と話しかけられました。

こちらは幾つもの媒体で公的に署名原稿を書いている方の思想および思想背景についてブログで書いただけであり、ご本人へツイッターで話しかけるなどといったことはしておりませんが、桜井さんのほうからコメントがあったわけです。もちろんお声をかけていただいて嬉しいですとも! 

というわけでこちらもツイートにて「印象的?具体例も出してます。そちらのツイートこそこちらについて、非実証的・ダサい・残念、といった「印象」を広めようとの意志を感じます。ダサいという批判もまさに印象批判(ダサくて結構ですが)。尚、匿名ではなく筆名で書いてます」 「念のため補足申し上げます。「ためにする批判」という言い回しは、字義通り取ると「言外の意図(何らかの下心)があって行う批判」の意味ですが、我々は単につまらない演劇及びそれらを褒めるばかりの人間を、具体的に検証してみただけです」とお答えしたところ、次に以下のような質問ツイートだけが連投されてきました。


語尾が「印象」「感じ」。で根拠が明示されていません。→「ある種の一派をなす人達が、わいわいと神輿をかつぐみたいに持ち上げていている印象があるんだよね」「宮沢章夫〜いとうせいこう〜桜井〜佐々木あたりは、言わばサブカル版岩波文化人として緩く連帯してる感じ
語尾が「感じがする」。で根拠が明示されていません。→「桜井圭介も同じで、ダンスや演劇の一部だけを愛して、あとは興味なしっていう感じがするんだ」「あの手の人達って、演劇なりダンスなりが目的じゃなくて手段になってるって感じがするよね」
語尾が「気がする」。で、その根拠が明示されていません。→「佐々木をはじめとするオピニオンリーダーが褒める一部のものしか観ない観客が増えている気がする。」
「ついでに2点ほど質問です。「クラブカルチャー的なところがきっかけな訳だ」←クラブカルチャー的なところの意味するところは?「ダンスをこれまでと違うコンテクストで語ってきた桜井もさることながら」←「さることながら」は当該の文の後半のどこにつながりますか?

とのご質問。

まあはっきり言って、論文ならさておき、会話体による進行を旨とするブログで、「気がする」「印象だ」と書いた箇所をあげつらって文章全てが「印象的」で「残念」だと断じるのは、アンフェアというか、そもそも文体に対する感受性を疑いますが、折角の機会でもあり、以下に指摘された部分、つまり我々が「印象」とか「気がする」とか「感じ」とかを用いた箇所について見ていきましょう。連休中ですが、捨て置いては失礼にあたるでしょうから、気づいたあと、なるべく早くご返事を書きましたよ!

 ちなみにツイッターをご存知の方はおわかりでしょうが、この質問はすべて「@〜」ではなく「.@〜」でなされています。つまり少なくとも1760人以上の桜井氏ご自身のフォロワーに公開しているわけです。しかもこちらの返信のほうはリツイート(公表)せずに。
 そもそもツイッター自体、承認制ではないこともあり、公的なものだと考えるので、ブログでのご返事もルール違反ではないでしょう。こちらはツイッターヘビーユーザーではなく影響力もない一般猫なので、フォロワー数では不公平が生じるし、発端はこちらのブログなんだし。

(1-1) 「ある種の一派をなす人達が、わいわいと神輿をかつぐみたいに持ち上げていている印象があるんだよね」への質問
 これに関しては続きがその具体例になっています。引用すると、「『わが星』とか快快のDVDを出してるのは、彼が主宰してるHEADZレーベル」「佐々木がHEADZで出している雑誌『エクス・ポ』が、ゼロ年代演劇礼賛の発信源」とか。え?オレは『エクス・ポ』には書いてない?その後で「『吾妻橋ダンスクロッシング』の企画として佐々木敦×岡田利規×桜井圭介鼎談も行われている」と書いてます。岡田利規が『エクス・ポ』に連載してたのは無論ご存じですよね?

(1-2)「宮沢章夫〜いとうせいこう〜桜井〜佐々木あたりは、言わばサブカル版岩波文化人として緩く連帯してる感じ」への質問
「岩波文化人」というのは当然「リベラルを謳いつつ実は教条的な文化人」の謂いです。「グルーヴ」だの「コドモ身体」だの「テン年代=天然だい!」(これは佐々木敦ですが)だのといったタームによる囲い込みが、教条的に(=枠に入らないものの排除として)機能しないとでもお思いでしょうか?
 ついでに、彼等の「緩い連帯」が本当に行われているかどうか、twitter上の関係を可視化するサイトで実証してみましょう。まずは、桜井圭介@sakuraikeisukeと宮沢章夫@aki_u_enchといとうせいこう@seikoitoの関係(佐々木敦@sasakiatsushi を省いたのは、彼がフォロワー0のため結果に反映できないから)。結果はこう。
http://twiangulate.com/search/sakuraikeisuke-aki_u_ench-seikoito/common_friends/table/my_friends-1/
比較対照の例として、勝手ながら@seikoitoと文学座@bungakuzaを入れ替えてみましょう。
http://twiangulate.com/search/aki_u_ench-sakuraikeisuke-bungakuza/common_friends/table/my_friends-1/
宮沢章夫は文学座に書き下ろしたことさえあるのに、誰かさんとの関係より文学座との関係は薄いと考えられますね…
おまけで我々@powantanukiも。
http://twiangulate.com/search/aki_u_ench-sakuraikeisuke-powantanuki/common_friends/table/my_friends-1/
まあ、本来こんなことわざわざ検証するまでもないことですが、ご質問なので念のため(笑)。

(2-1)「桜井圭介も同じで、ダンスや演劇の一部だけを愛して、あとは興味なしっていう感じがするんだ」への質問  
ええと、@sakuraikeisuke のTLを1ヶ月ほど辿ってみました。答えは、バストリオ『絶対わからない』、『20年安泰。』、ニブロール『THIS IS WEATHER NEWS』、サンプル『ゲヘナにて』。新劇もミュージカルもクラシック・バレエも、ついでに歌舞伎も能もありませんね? 本当は見ているけど/愛しているけど/興味があるけど、書いてないんですか?? そこは確かめようがないので、違うと「推測する」のが妥当。と考えると「っていう感じがする」は至極真っ当な表現じゃないですか?(笑) 違うなら、それらの感想or批評をツイートしなかった理由とともに申告してくだされば「違うそうです」って追記しますよ。

(2-2)「あの手の人達って、演劇なりダンスなりが目的じゃなくて手段になってるって感じがするよね」への質問
 佐々木敦についてはこの件にたっぷりと言及してますが、桜井氏本人については確かに言及してないですね。でも、木村覚との対談には、以下のようなとってもエゴイスティックな発言があります。
「(木村の『「コドモ身体」論では、どうもイズム=主義が主で、ダンスは従という気がするんですが』を受けて)ダンスが従というのはそうかもしれないけど、イズムが先にありではなく、私・桜井が先にある、という感じかな(笑)」はい、「目的じゃなくて手段になってる」認定。

ああ、そういえば、この「根拠を出せ」のやり取りってどこか既視感があるなあと思ったけど、2008年の木村覚と乗越たかおのやりとりだ! 出典と論拠は一部重なるけど同じじゃないし、もちろん偶然でしょうけどね。

http://d.hatena.ne.jp/nori54/20081212
http://d.hatena.ne.jp/nori54/20081220


なんかだんだん飽きてきたけど、続けますかね。

(3)「佐々木をはじめとするオピニオンリーダーが褒める一部のものしか観ない観客が増えている気がする。」への質問
これ、それまでに書いた「ペダントリーをちらつかせて一種の権威になることによって、興行側も観客もまるごと自分の影響下に収める」の結果ですよ。念のため言っとくと、サブカル系が文学座とは切れてるのはさっきのグラフでも立証済み。

ふう、あともう少し。

(4-1)「クラブカルチャー的なところがきっかけな訳だ」←クラブカルチャー的なところの意味するところは? という質問
チェルフィッチュが西麻布SuperDeluxeでやったり、ままごともラフォーレミュージアム原宿でやったりしてたけど、要するに「ライブハウスでも公演を打つ集団」もちょっと広げれば「舞台における音楽の比重が大きい集団」といった程の意味です。ちなみにチェルフィッチュも快快もままごとも、小劇場王道の地・下北沢で公演を打ったことがありません(マームとジプシーはあるみたいだけどね)。

(4-2)「ダンスをこれまでと違うコンテクストで語ってきた桜井もさることながら」←「さることながら」は当該の文の後半のどこにつながりますか? という質問
「さることながら」というのは当然「…は言うまでもなく」という意味で、「演劇をターゲットにする」にかかり、「いつかは演劇方面にアプローチしただろうけど」という意味です。何か変ですか? それとも「佐々木に話が流れちゃってるけど、自分についてもっと書いてほしかった」ってことでしょうか?

それよりもこちらからの抗議、

(5)「ためにする批判」という言い回しは、字義通り取ると「言外の意図(何らかの下心)があって行う批判」の意味ですが、我々は単につまらない演劇及びそれらを褒めるばかりの人間を、具体的に検証してみただけです
に対する返答・反応はないのですか? そもそも我々はあなた方と何の利害関係もないのだから、「ためにする批判」をやろうと思ってもしてさしあげられないんですよ。まさかとは思いますが、「批判のための批判」というつもりで「ためにする批判」と言った訳じゃないですよね(笑)? ご返事はツイッターでもかまわないし、ご自身のブログとかでもかまいません。


ぽわん&たぬき
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2011年07月13日

演劇界のオピニオンリーダーたちの偏向を糾す (あるいは流行についていけない中年ネコの嘆き!?)

ゼロ年代と90年代の関係性とは?

ぽわん:なんだかひさしぶりの更新になっちゃったね。
たぬき:6月はわれわれネコにとって換毛期だからね。
ぽわん:え、そういうことなんだっけ!? ・・・ともあれ、この間、最近の演劇についてつらつらと考えていたんだけど・・・。
たぬき:私たちの年代はメインターゲットから外れつつあるんじゃないかという不安はあるねえ、正直。
ぽわん:たとえば以前も書いたことだけど『わが星』好評の理由はいろいろあるんだろうけど、単体じゃなくて現象として考えると、ある種の一派をなす人達が、わいわいと神輿をかつぐみたいに持ち上げていている印象があるんだよね。
たぬき:「新サブカル系観客層」みたいなのが出来つつあるよね。90年代サブカルを引っ張ったのが松尾スズキとKERAだとするなら、10年代の小劇場界のフィクサーになろうとしているのが、いきなり単独名指しでナンだけど、言っちゃうと佐々木敦。『わが星』とか快快のDVDを出してるのは、彼が主宰してるHEADZレーベルだしね。ちょっと近いところにいるのが、ダンスの桜井圭介かな?
ぽわん:年齢でいうと、桜井圭介が60年生まれ、松尾スズキは62年生まれ、KERAは63年生まれ、佐々木敦は64年生まれ。ほぼ同世代なんだけど、KERA、松尾の二人が実際に創作活動を行って90年代のサブカルを牽引し、桜井は遊園地再生事業団の音楽を作っていたのに対し、佐々木は今、ゼロ年代を扱っていることと、彼が現場の人ではなく幅広く演劇を観ている人でもないっていうのは大きな違いだね。そして、佐々木がHEADZで出している雑誌『エクス・ポ』が、ゼロ年代演劇礼賛の発信源だね。
たぬき:佐々木って、80年代にシネヴィヴァン六本木でモギリのバイトをやってたことがあるんだけど、今彼がプッシュしてる小劇場周辺のややスノッブな雰囲気には、当時のWAVE文化に近い部分がある(あれよりずっとカラフルだけど)。抽象語を使って、何か立派なこと言った気になってる感じとか似てるよね。あと、WAVEが他の外盤屋に比べて利益目標が極端に低くて、しかもタワーやHMVみたいに大規模展開しなかったことも(要するに敢えて言っちゃえば緩いメセナだったんだよね、あれって)、最初っから助成ありきで、大劇場への野望なんてこれっぽっちも抱いてない今の小劇場シーンと重なる。
ぽわん:桜井も作曲から、気がついたらちんまりした稚拙なダンスを「コドモ身体」と命名したりする書き手になってた。あれもわざわざ小さいものばかり褒めてたなあ。別にそのこと自体、悪いことでもないんだけど、そこも松尾スズキやKERAとは違うね。彼らは自分のやりたいことを、より大きな劇場で行い、商業的にも一定の成功を収めているからね。それに対し、ゼロ年代の演劇は自分たちの小さな世界にこもっていて、広がったりより多くの人に見せたいみたいな欲望を感じない。あ、ちょっと話がずれたけど。というか、そういう世界を、佐々木や桜井をはじめとするひとたちがもてはやすことで、ファンを増やしているという、ある種の分業が行われている気さえするほど! 佐々木は80年代後半からの小劇場ブーム、とくに野田秀樹の「夢の遊眠社」や鴻上尚史の「第三舞台」についていけなかったみたい。でもって最近、チェルフィッチュとかを観て演劇の面白さに引き込まれたらしいよ。あまりにわかりやすくて笑っちゃうけど、『吾妻橋ダンスクロッシング』の企画として佐々木敦×岡田利規×桜井圭介鼎談も行われているね。
たぬき:要するにクラブカルチャー的なところがきっかけな訳だ。しかし、ダンスをこれまでと違うコンテクストで語ってきた桜井もさることながら、映画〜実験音楽〜文藝と遍歴してきた佐々木が新たに演劇をターゲットにするのは、なんだか東浩紀とショバが重ならないことを意識してる感じで可笑しいね。彼は「そんな意図はない、単にcutting-edgeな事象にしか興味が湧かないだけだ」みたいなことを言うんだろうけど(笑)。

「演劇全体はどうでもいい」のか

たぬき:勢いで佐々木についてちょっと言っちゃうとね(笑)、サブカルのイデオローグを目指す彼にとって、東浩紀と共に重要なのは蓮實重彦。駆け出しの頃の映画評なんかに一目瞭然だけど、要するに初期は完全に単なるエピゴーネン。今もタームとかにその名残があるけれど、フランス文学者でありながら映画評論界の一大権威となった蓮實が、東と並ぶ彼のロールモデルなのは間違いない。ただし佐々木にはテニュアという堅固な基盤が無い訳で、だから彼が最終的に学んだことは、映画に殉じることでもアカデミアで栄達することでもなく、その煽動家的側面。つまり、ペダントリーをちらつかせて一種の権威になることによって、興行側も観客もまるごと自分の影響下に収めるという戦術だね。
ぽわん:なるほど。それは今、実行されつつあることだね。
たぬき:これが、流行りものを追っかけるだけのコラムニストより一段上手であると同時に、なんとも胡散臭い部分。そしてテニュアを持たない彼は、まさにそのコラムニスト的に、つまみ食いというか焼畑農業方式で未踏の領域を探し続けることで、自分の商品価値をつねに新鮮に保つ必要がある。
ぽわん:つまり、佐々木は今、つまみ食いに選んだのが、世間的にはマイナーな小劇場の、さらに一部の演劇である、と?
たぬき:そうそう。言うまでもなく小劇場って、たとえ滑舌が悪かろうが猫背だろうが、新鮮さとか素の魅力とかでなんとかなるという面がある。その代わり、あっという間につまらなくなるけれど。「この手は長持ちしない」とか「この方法論には伸び代がない」とか、そういうことは彼は考えないね。
ぽわん:つまり、演劇の業界の人じゃないから、つまらなくなったら離れていくだけのことなんだよね。そこが私ぽわんもすごく引っかかっているところなの。演劇を広く観ない人が語るな、なんてことを言うつもりは毛頭ないけど、それだけが演劇であるかの印象を与え、観客に偏りを作ってしまっている。それだけの影響力が、演劇の批評家たちにないことも問題なのかもしれないけど、はっきり言って、一つのものをじっくり深く観ずにぱっと面白いことを言うのは割に簡単だし、目を引き易いから、ずるいとも思う。結果、ほかの演劇については考えず、佐々木をはじめとするオピニオンリーダーが褒める一部のものしか観ない観客が増えている気がする。いやまあ、そのこと自体は佐々木のせいじゃないかもしれないけどね。
たぬき:うん。新参者は当然歓迎すべきなんだけど、あるムーヴメント内で起きてることって必ず玉石混淆なんだから、舞い上がってる人々を横目に、玉と石の区別をきちんとしたパースペクティヴから評価できる演劇の専門家がいないことのほうがもっと問題だよね。それにしても、ほら普通の演劇ファンって大概「伝説の××に間に合わなかったコンプレックス」があるけど、佐々木には「遅れてきた人間」意識みたいなのが全然ないよね。よっぽど自分の感性ってやつに自信があるのかね。
ぽわん:というか、最近になって岡田利規(チェルフィッチュ)、柴幸男(ままごと)、藤田貴大(マームとジプシー)・・・といったものに、自分の感性と近いものをみつけて喜んでいるみたい。本人もこれらは平田オリザに始まる形式論の系譜だというようなことを指摘してるね。
たぬき:それは一目瞭然だからね。でも御本尊の芝居は大して好きじゃないんじゃないかな(笑)。
ぽわん:そうかも(笑)。ともあれあの手の人達って、演劇なりダンスなりが目的じゃなくて手段になってるって感じがするよね。
たぬき:そうそう。宮沢章夫〜いとうせいこう〜桜井〜佐々木あたりは、言わばサブカル版岩波文化人として緩く連帯してる感じ。党派性には党派性をもってするしかないのだとすると、それに対抗する右派というか“サブカル文春”が必要なのか!? いや、サブカルはそもそも文春的なものとは相容れないのか・・・?
ぽわん:われわれが“文春的連帯”をしても明らかに力不足だけど、まあ、こっそりがんばりますかねえ(笑)。

右も左もひれ伏す真の才能、求む!!

ぽわん:さて、ここで、そこまで御神輿的に褒めてるのかぽわんが納得できずにいる舞台について述べるね。ままごと『わが星』でしょ、あと、マームとジプシーの作品とかロロの作品とか。いずれも、昔ながらの台詞や戯曲構造の巧みさ、基本的かつ重要な演出技法などをなおざりにしたもので、音楽的には今風なものも(全部じゃないけど)多いから、音楽畑の佐々木と桜井にも共感しやすいのかな。
たぬき:とはいえ、佐々木が青山真治監督の『GGR』を褒めているのは意味不明というか、いかに演劇の基礎がわかっていないかの証左だよ。あの舞台は、とにかく形になってなかったから。台詞劇なんだから本来は舞台の進行に従って登場人物の心理とか関係性が刻々変化するんだけど、それを舞台の動線や役者同士の絡みで視覚化するという作業が全然やられてない。それって演出の基本なのにね。
ぽわん:うん、あれを褒める佐々木って、やっぱり、演劇についての基本的な素養がないと思ったよ。
たぬき:あと、1幕と2幕の舞台転換で書類を撒いていたけど、紙とか花って、撒くことで舞台の景色が変わらないと効果が上がらないんだよね。あの場面って部屋は最初から散らかってる訳だから、分かってないよなー、としか言いようがなかったね。オープニングの意図不明なサックス演奏に至っては何をかいわんやという奴だ。
ぽわん:冒頭の中華料理店の装置からして変だったよね。セットが動くんだけど、それが立体的じゃなくて・・・あれは映像的、なのかなあ?
たぬき:あれって要するに、映画と同じ2時間休憩なしにしたくて、そのせいで1幕の中華料理店のセットが割を食ったってだけだと思う。つまり、ああしか動かせるスペースが残ってないんだ。しかし、プロローグだけとかなら兎も角、1幕全部を黒幕でエリア半分に区切りっぱなしというのは素人としか言いようが無いねえ。
ぽわん:マームとジプシーやロロは典型的なゼロ年代演劇。作り手は20代前半で、すごーく閉じた世界観が特徴なんだけど、佐々木はあれを褒めて何がしたいのかな。ゆとり世代の若者は褒めて伸ばすってか? そんな教育者的使命感、彼はもってないと思うけどね。
たぬき:ごめん、もうその辺りの劇団はもう端からターゲットじゃないと思ってて、全然観てないんだ(笑)。
ぽわん:そっか。ちなみにゼロ年代ではない人で言うと、佐々木は飴屋法水が好きみたい。少し前の『おもいのまま』を佐々木はツイッターで「物凄い」と褒めていて、「いかなる企画、いかなる内容であれ、僕はもちろん凄いに決まってると思っていたが、しかしいつも飴屋さんは、その遥か上にいってしまう」と大絶賛。ちなみに、ツイッターの140字で揚げ足とるのもおとなげないかもしれないけど過去に「リスペクトにも二種類ある」として、全肯定と部分肯定を挙げて、「僕は後者しか出来ない。というより前者はリスペクトではない」と書いているんだけど、そのスタンスと飴屋礼賛は矛盾しないのかな?(笑)
たぬき:そのくらいは大目に見てあげなよ(笑)。青山とか飴屋とかの固有名にひれ伏しちゃうのは、要するに蓮實が提唱してた作家主義の軛から逃れてないってだけだろうね。で、飴屋演出の『おもいのまま』は具体的にどうだったの?
ぽわん:とにかく中島新とかいう人の書き下ろし戯曲が稚拙過ぎた! 要はタイトル通り、思いによって、状況は変えられるんだということを、とある秘密をもった夫婦のもとを侵入者が来るという設定はそのままに、前半/後半で同じ状況を描きながら少しずつ差異を出して行くんだけど、その秘密というのも単に性的志向だったりとひねりもなく陳腐だったり、前半と後半で解消されないままの謎かけもあって、あきらかにだめだめな戯曲だった。ということは、それをいかに役者が頑張っても、飴屋が音や光をかっこ良く使っても、舞台全体としては駄作だよ。なのに佐々木は「飴屋、飴屋」って双手を上げて絶賛してて、ツイッターでもほかのひとが「佐々木さんが褒めているから観なきゃ」って言ってたりしたよ(ため息)。そういうのを見ると、やっぱり、演劇がわかってないのに影響力があって嫌だなあって感じがしちゃうんだよね。桜井圭介も同じで、ダンスや演劇の一部だけを愛して、あとは興味なしっていう感じがするんだ。まあ佐々木よりはいろいろ観ている印象もあるけど。
たぬき:まあ、彼らのような、オルタナティブな視点がない人達がオピニオンリーダーになっちゃっているのは残念だけど、ゼロ年代の内輪な自閉的表現自体に対しては、今の若者にとってそれがリアルなのならそうですかと言うしかないさ。私たぬきには正直つまらないけど、それを言うなら、80年代の自分探しも90年代の露悪性も、当時の中年世代にはそれぞれ共感不能だったに違いない。ただ、二昔前には「やってることは学芸会だなと思うんだけど、やっぱりあの野田ってのは凄い役者だから、客席では浮いてるけど観に行ってしまう」みたいなことを言う年配の演劇愛好家はいたよね。すれっからしの中年を引きつける、そういうスペシャルな存在が今の小劇場にいるといいのにねえ・・・。
ぽわん:そうそう。だからまあ極論から言えば、今たぬきさんが「岩波派」と命名(笑)した人たちが褒めていても気にならないくらい、「文春派」!?も褒めたくなるような大きな才能がいないってことなんだよね。もちろん、褒めて育てるっていう現代教育は大事なのかもしれないけどさ(笑)。
posted by powantanuki at 12:26 | TrackBack(0) | 演劇論ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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