2011年05月23日

井上ひさし×蜷川幸雄って実際どうよ?(2ちゃんねる風)〜『たいこどんどん』公演から考える〜

井上ワールドの“小ささ”VS蜷川ワールドの“大きさ”

たぬき:「井上ひさし追悼ファイナル」と銘打たれた、シアターコクーンの蜷川幸雄演出「たいこどんどん」。ここ数年井上作品を手がけることの多い蜷川だけど、私たぬきは蜷川と井上戯曲って実は相性ぜんぜん良くないと感じてるんだけど、ぽわんさんはどう思ってるの?
ぽわん:私も相性は良くないと思うよ。『藪原検校』は地人会でよく上演されていただけあってそっちのほうが面白かったという意見もあったし。そういうふうに考えている人は少なくないんじゃないかな。井上ひさしの世界って人情味というか、俳優たちの細やかな演技や味わいが要求されると思うんだけど、蜷川は大仕掛けで視覚中心の演出家でしょ?蜷川が芝居を上演するハコもシアターコクーンにしろさいたま芸術劇場にしろ割と大きいから、本質的には合わないと思う。だからこそ、蜷川は井上戯曲をずっとやってこなかったんだろうしね。
たぬき:井上戯曲って、だいたい3期に分かれると思うんだ。テアトル・エコーに書き下ろしてた初期は狭い小屋でひたすらドタバタ、五月舎中心の中期は臆面もなく卑猥さを強調、後期は評伝劇を中心に、三一致の法則を守りつつしっかりお説教を盛り込む新劇っぽいお芝居、みたいな感じだと思うけど、共通することが一つあって、それは、どの期の戯曲も、間口はせいぜい紀伊國屋ホールだってこと。
ぽわん:そうだね。蜷川もそれは分かっていて、『天保十二年のシェイクスピア』でもドカンと装置を作っちゃったけど芝居自体は割と狭い空間でやったし、今回の『たいこどんどん』も舞台上にさらに何畳か分のエリアを作って、基本的にはその上で俳優に芝居させていたね。『道元の冒険』に関しては、場面の動きなどが井上戯曲としては比較的ダイナミックな作品だし群衆っぽい人を出したりしやすいから、空間を広く使っていたと思うけど。つまり、蜷川と井上は、根本的に資質が違うのをお互い分かった上で晩年タッグを組んだと言えるんじゃないかな。といってもまあ書き下ろしは『ムサシ』1作に終わったけど。
たぬき:『ムサシ』は、さいたま芸術劇場の広々した空間やら、わざわざ可動式にしたセットに何の意味もなくて(あれ一杯道具でいいよ)惨憺たる出来だったね。『道元の冒険』は全編が劇中劇というか、阿部寛扮する新興宗教の教祖の妄想みたいな枠組みがあったから、下手エリアに阿部を配置するだけで絵にはなったね。今回の『たいこどんどん』はそうはいかなくて、「アクティング・エリアを区切りさえすればあとはスターさんに目がいくでしょ」みたいな安易なプラン。つまり、もはや老齢を迎えた蜷川には広い舞台空間を埋めるエネルギーがない、というか埋めなくてもいいと思っているんだ。かつてはくどいほど群衆やら花で埋め尽くした蜷川が、最初と最後だけ書き割りを並べて事足れりとしているのは、彼自身かつてあれほど嫌悪していた枯れた晩年を迎えていることの証左だね。
ぽわん:不思議だよね。最近の蜷川って、過去の自分の過剰さに飽きているのかなあ。「え!?」っていうくらいシンプルだったり、同じ演出プランの使い回しだったりすること、すごく多いもんね。その結果、「小さい空間で賑やかに」なるはずの井上の作品を「広い空間でスカスカした感じ」で蜷川が演出する、ということになってしまっていたよねえ。


蜷川演出には俳優同士の交流がない?

ぽわん:出演者についてはどうだった? 一説によると、中村橋之助は中村勘三郎の代役だったという噂だけど?
たぬき:橋之助と古田新太に、互いの心の交流が全然感じられなかったんだよね。勝手に演じてる感じ。例えば、古田演じる幇間の桃八は、橋之助演じる若旦那・清之助に手ひどく裏切られるんだけど、偶然の出会いからいとも簡単に和解してしまう、その理由が舞台で表現されていない。「仇敵との再会がなんでそうあっさり終わっちゃうの?」という疑問がぬぐえない。
ぽわん:んー、ただ、蜷川が戯曲をカットしない主義なだけにみんな早口でとにかく進めなくちゃいけなくて(それでも上演時間3時間40分だもんね)、交流どころじゃなかったっていう気もするけど。私は二人のコンビはそんなに悪くはなかったと思う。もちろん、勘三郎と古田だったらさぞかしプラスαの面白みがあったろうなあと想像しちゃうけど、橋之助は大健闘だったと思うなあ。
たぬき:そうだね。喜劇としてテンポを落としたくなかったのかもしれないけど、それでもテンポを落とさなくてももう少し身体表現なり何なりで表現できたはず。前から「アンサンブルを罵倒したり脇役にスケープゴートを作ったりはするけど、対照的にスターさんには演技指導が甘い」ことで有名な蜷川だけど、彼ら2人に大したハードルを課してなかったのは明白だね。
ぽわん:とはいえ、井上&蜷川作品での古田新太の使われ方は相当にハードル高いよ。イジメかっていうくらいの早口・長台詞・出ずっぱり・・・。つまりハードルの種類の違いというか、じっくりと醸し出す演技に重点を置いた要求をしなかったということじゃないかな。あるいは、あのテンポ・スピードを守るところまでしかいけなかったというところかも。でも、蜷川演出での俳優さんって大抵そうだよね。例外は平幹二朗とかごく少数の、本当の意味での名優さんのみ。
たぬき:確かに、「蜷川演出はいっぱい走らされるので大変」というのはよく聞くね。そういえば古田が鈴木京香に「濡れ場は事務所的にOKなのか?」みたいなこと言ってたけど、ああいう新感線の楽屋落ちみたいな台詞を許したのはいただけなかったなあ。
ぽわん:まあ古田にはストイックなことをいっぱいやらせたから、少し得意なこともやらせよう、みたいな感じなんじゃないの。私は全体の中で特別そこを批判しようとは思わないな。


芸術は震災とどう向き合うべきか

ぽわん:さて、もう楽日も近いからネタばれしてもいいかなって思うんだけど、ラスト、東京となった「元江戸」の町が波に飲まれる情景は、明らかにこの前の大震災の津波を意識して描いていたねえ。
たぬき:「富嶽三十六景」風のやつね。ちなみに私たぬきは、地震当日に所用で都内某所へ2時間半かけてとぼとぼ歩いてたんだけど、民族大移動みたいな人混みの歩道で「これからしばらく演劇界は地震ネタで溢れるだろうなあ、それはそれで単調なことだなあ」と物思いにふけってたんだよね。その流れは案外早く来たねえ。
ぽわん:好みかどうかはともかく、現代に生きる芸術家である以上、社会について何も言わないのはむしろ不誠実だと思う。いや、絶対に社会に対して直接的に何か言えって言いたい訳じゃないし、まあ何事もなく芝居をしても別にかまいやしないけど、作り手が「何事もなかった顔はできない」と思うならば、表現に取り入れればいいよ。特に蜷川は、社会とコミットして展開した学生運動の流れを汲む演出家なんだから。
たぬき:でもあれじゃ、「がんばろう日本」みたいな空虚なメッセージと同じじゃないの?
ぽわん:そうかなあ? 「がんばろう日本」の一番の気持ち悪さは「自分の主張の正しさを疑っていない」ところにあるけど、あの演出は黙って絵だけ使っているし、波が日本を襲ったこと事態は事実だし、もちろんあれを使うことそのものに明確な意志があるわけだけど、それが唯一無二の真実だという押し付けがましさはなかったから、気持ち悪さは感じなかったよ。
たぬき:いや、「押し付けがましくない」のが問題なんだと思うんだ。要するに、いちばん弱い部分を狙い撃ちしてる訳だから。涙もろくなってる人は泣かせやすいのと同じだよ。
ぽわん:まあ、恥ずかしながら私ぽわんも泣いちゃったから大きいことは言えないなあ。でもあれは現時点での一つの回答だと思うよ。もともとの戯曲自体がもっているいささかシニカルな、しかしポジティブな部分を、うまく活かした上で施した演出だった。ベタかもしれないけど、あそこに関してはアリだったと思う。同時進行で、文明開化の騒がしさを皮肉っているからウェットに過ぎることもなかったし。
たぬき:『道元の冒険』のエンディングでモニターを山ほど出してTVが現代の洗脳装置になってると主張したり、『オレステス』で紛争中の国の国旗をバラまいて「復讐の連鎖」を暗示したり、エンディングでだけ現実とくっつける蜷川手法って、私たぬきははっきり言って嫌いなんだ。舞台の終焉が現実の始まりなのは当然な訳で、唐十郎のパクリを仰々しくやってるだけだと思うね。
ぽわん:パクリかどうかを話すときりがないので今回は置いておくとして、文句だけ言っても平行線だから、蜷川の震災後最初の作品『たいこどんどん』で震災に言及したかった気持ちを汲んでみようじゃないの。じゃあたぬきさんは、どうしたらあの作品で、空虚でもなく泣かせるのとも違うかたちで、あの出来事を意識したものができると思うの?
たぬき:そうねえ。かつては台詞を変えずに舞台を日本に置き換えたシェイクスピアをバンバン上演してた蜷川だから、東北の民衆に放射線防護服を着せるなり、山賊が出る峠に☢(放射線管理域)マークを張るなり何でもやればいいと思うね。要するに、どうせやるなら全面的に、って事だ。
ぽわん:それは過激だけどぽわんも観て見たい。つまり“アリ”だね。でも最近の蜷川はかつてのように過激じゃないからねえ。でもって、どうやらぽわんの周囲では、震災前の演出プランで観たかったという声も、あのラストがインパクトあったという声も両方あったから、その意味では折衷的だったとは言えると思う。それがたぬきさんにとってつまらなかったっていうのはわかったよ。ただ、シェイクスピアと違って井上は去年まで生きていた“現代人”で、しかも基本的には震災前に上演が決まったホン&キャスティングだから、作家や企画の趣旨とそこまで異なるものを本編全体に入れ込むっていうのは、やっぱり蜷川にも主催者にも抵抗があったんじゃないかなあ。もしかしたら、井上が生きていたら相談の余地もあった、かもしれないけど・・・。まあそこは商業演劇の限界、とも言えるかもね。
たぬき:『真情あふるる軽薄さ』が初演された頃とは何もかもが違う、ってことか。
ぽわん:ともあれたぬきさんも予見した通り、今後震災の影響は、舞台芸術のあちこちに観られることになるだろうから、また検証の機会もありそうだね。
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2011年05月03日

みんな大好き『欲望という名の電車』の、松尾スズキ演出版は是か否か

松尾スズキは九州のテネシー・ウィリアムズ!?

たぬき:松尾スズキが、秋山菜津子を主役にテネシー・ウィリアムズの名作に挑んだ、パルコプロデュース『欲望という名の電車』。企画を耳にした時は、これはなんとなく出会いものなのではという気がしたけど、ぽわんさんはどうだった?
ぽわん:んー、複雑な気持ちだったな。プロデュースものって、企画として「お!」とは感じさせるけど、まとまりに欠けたりして、文字通り「企画倒れ」ってことが多いんだもの。それに秋山菜津子はいい女優だけど、『欲望という名の電車』には私、思い入れがあるから、どういうブランチ像ができるか不安だった。だけど蓋を開けてみたら、好きかどうかはともかく、松尾スズキワールドになっていたから、そこは逆に気にならなかったなあ。
たぬき:松尾スズキが持っている主題のひとつは、人間の業の深さというか破滅的な本能のまるごと肯定みたいなことだと思うけど、それは当然ブランチにも共通するわけで、狙いは外れてはいないし、実際ある程度成功したと思うね。
ぽわん:パンフレットによれば松尾スズキは「俺の田舎には(略)黄色いスタンリー、黄色いステラ、黄色いブランチは、集落に1組は必ずいました」と書いているから、松尾スズキの原体験に基づく世界・人物として描いたみたい。ブランチというヒロインはこれまで、杉村春子、岸田今日子、栗原小巻、大竹しのぶなど錚々たるメンバーが演じてきて、スペシャルな存在になっていたというか、女優にとってある種の到達点だったと思うんだけど、その意味で今回は、いかにも「現実離れした、危ない女でござい〜」という空気を漂わせる王道路線から、ちょっとはずれていたかもね。でも面白かったのは、ずれていると見せかけて、秋山に関しては、渾身と言える演技を見せたこと。今時の新劇の女優にあそこまでできないだろうね。
たぬき:秋山菜津子ひとり舞台状態になるとこは引き込まれたね。例の「明かりをつけないで!」のあたりとか。自己陶酔系じゃなくて、あそこまで集中した芝居ができるのはさすが。
ぽわん:あそこはどうやるんだろうって思ったら、電球をミッチがびよーんって伸ばして来たのは、「ああ」って感じ。全体的に、今回の松尾演出は、名場面・名演技で有名な箇所自体を崩すというより、その周辺で遊んだ雰囲気だったね。ある意味、照れ屋の松尾っぽい(笑)
たぬき:ただ、彼女は本来引きの芝居も上手いんだけど、今回はアクセル踏みっぱなしという感じで、結果的に単調なのは否めなかった。
ぽわん:それは、周囲の俳優の問題もあるかもしれないし、松尾のイメージでもあるのかもしれないよ。公演パンフレットを読むと「過剰な女っておもしれー」っていう興味があるみたいだから。
たぬき:今回テキストレジってあんまりやってないと思うけど(ブランチがするオウムの話はさすがにカットしてたけどね)、それゆえ、松尾が内心冗長だなと思ってるかもしれない下りが冗長なまま残ってる。星座の話とか文学の話とか。ああいう場面って単なる性格描写じゃなくて、舞台にちょっと不気味な歪みみたいなものが出る筈なんだけど、そういうのはなかったなあ。
ぽわん:もともと戯曲をそのままやればそこが歪みになるはずのところを、松尾ワールドとして別の歪みをいっぱい作っちゃったせいで、かえって浮いた感じかなあ?
たぬき:あと、彼女がミッチに彼の結婚相手がゲイだったと打ち明けるくだりだけど、話が佳境に入る前に、相手の性格がsomething differentだったとか、"a nervousness, a softness and tenderness which wasn't like a man's"があったとか言うくだりがあるじゃない?このあたりが何の言い淀みもなく、また逆に変な流暢さもなく流れてて、単なる普通の喋りだったのは不満だったなあ。
ぽわん:松尾はいかにも新劇チックな繊細な表現、にしたくなかったんじゃないかな? だから彼の描く「意味深」は底が知れているんだとも思うケド。で、さっきも言ったことだけど、今回のブランチに関して言うと、彼女のヤバさというか痛さというか、そういうものが、観客がおののくようなものではなく、もっと別な身近な想像で埋められるものになっていたと思う。つまり、「あー夫がゲイだったらショックよね」という共感はあるけれど、今とは比べられない当時のゲイに対する不認知ゆえの恐怖や、ガラスのようなブランチの心の深遠をのぞくような気持ちにはなりにくかった。これは彼の個性だから、一概に否定するわけじゃないけど、
たぬき:さっき松尾スズキとブランチには共通点があるって言ったけど、同時にそこには相違点もあって、松尾ワールドの人物たちがある意味図太く不条理な感じに病んでるのに対し、ブランチはやっぱり不健康にというか文学的に病んでるんだよね。これは時代とか資質の違いでいいとか悪いの問題じゃないんだけど、さっきぽわんさんも言った「周囲の俳優の問題」さえクリアすれば、松尾ワールドとしての完成度はぐんと高まったのではと思う。


問題はキャスティング? 演出?

ぽわん:では具体的に聞くけど、ほかの出演者についてはどうだった?
たぬき:スタンリーの池内博之は変にニヒルで、暴力的な癇癪持ちには全然見えなかった。下品な役のはずなのに、ある意味いちばん上品な芝居やってたというか。
ぽわん:うーん、今回、松尾はステレオタイプを崩して、ブランチを過剰に強く、スタンリーをちょい間抜けにしたかったんじゃないかな。池内博之のスタンリーがどういう理由でキャスティングされたのかわからないけど、二枚目なんだけどどこかおっとりとしてる彼の個性を引き出した印象。
たぬき:松尾演出なら本来スタンリーが持っているエグさがもっと出せたかもしれないのに、もったいないね。とはいえステラの鈴木砂羽よりはずっとマシ。彼女、口跡は悪いし仕草にも台詞にも気持ちが全然乗らないし、挙句の果てに、妊婦なのにドタドタ走ったり身体をぶつけたり。余談になるけど、この芝居を観た帰りにたまたまある店で妊婦とその夫を見かけたんだ。妊婦はひたすらお腹を外界から守ろうと気を使っていて、夫に対してさえ近くに寄られることを警戒していた。そんなもんだよ。だからきっと、松尾演出のことだから、生まれた子が不具になるっていう伏線なのかと思ったら、そんなこともなかった。
ぽわん:確かに、それだと流れちゃうよーってとこ、いっぱいあったね。まあ、そういうところのリアルには、松尾は興味ないんだと思う。確かにそういうオチになったら松尾らしかったけど、今回は大きな冒険はせず、小ネタで遊んだ感じだからねえ。
たぬき:オクイシュージは、T・ウィリアムズと松尾ワールドの仲介者としてよく頑張った。「こんなダメ男に愛の希望を託さないといけないほど、ブランチは落ちぶれたのだなあ」って感じだけど(笑)。
ぽわん:そうだね、あのメンバーの中でマシっていうのもあまりぴんと来なかったよ(笑)。唯一の独身だからってとこかな。今回、松尾自身も大人計画的エグさではないものを、求めてキャスティングしたのか、キャストを観てこういう方向にしたのか・・・どうなんだろうねえ。
たぬき:キャスティングにはパルコ側の意向が相当入ってると思うけど、松尾自身にも「秋山さえいればあとはどうとでもなる」的な計算はあったんじゃないのかね。


秋山ブランチでの理想の布陣とは−−

ぽわん:さて、なんだかんだ言って上演のたびに盛り上がる『欲望〜』だけど、結局、今回の上演の価値・意義はどこにあったと思う?
たぬき:それはもう、いま日本でブランチを演じられる数少ない女優である秋山の演技が見られた、ってことに尽きるね。ぽわんさんもそうじゃないの?
ぽわん:私は、新劇のひとが今満足にできない以上、秋山という希有な女優を使って上演したことには意味があったと思う。ちなみに、新劇で満足にできないっていうのは、実力ゆえなのか、それともこれまでの伝説が偉大過ぎるからなのか、わからない。とにかくあまり上演されないからね。まあこちらにも責任はあって、「このひとなら!」って思わないと観に行きたくないなあ(笑)。その意味で、秋山は「このひとなら!」って多くの人に思わせることのできる女優だね。
たぬき:それでも、完売はおろか空席がかなりあったのがびっくりだね。松尾ブランドをもってしても、秋山では客は呼べないんだなあ。ちょっとがっかり。
ぽわん:震災のあとだからっていうのも、まだあるのかもしれないよ。ところで、松尾の遊びの中途半端さは、この戯曲をあまりいじらず、ある意味真っ向勝負で上演したいという意図が働いたからなのかな。まあ真っ向勝負かどうかは意見が分かれるかもしれないけど。
たぬき:いや、相当真っ向勝負だったと思うよ。テキストレジをほとんどやってないのがその証拠。だからこそ、プロデュース公演じゃなくて大人計画、それが無理なら日本総合悲劇協会でやってほしかったな。大人にも日総悲にも出たことあるしね、秋山は(笑)。
ぽわん:だけど松尾本人も「アメリカ白人自身が書いたアメリカ白人の愚かさを、黄色人種が死に物狂いで演じるというこっけいさ」ってツイッターで書いてるくらいで、王道的にはしたくなかったんじゃないかな。その意味で、たぬきさんが求める秋山菜津子ブランチでの理想的な上演は、全然別の布陣でこそ実現するのかも。実現性も考えると、栗山民也演出で、どうでしょう?
たぬき:栗山演出の、三好十郎作『胎内』での秋山は良かったからね、それこそ演技の足し算と引き算のバランスが見事で。でもさすがに、少なくともこの先10年は実現はしないでしょ、本人にいくらそんなつもりがなくても、松尾演出に不満があったんで別の演出を受けることにしました、ってことになっちゃうから(笑)。
ぽわん:じゃあ欲張って、10年後には、わおって思うような演出家、あるいはブランチ女優が出て来ていることを祈るよ!
posted by powantanuki at 22:23 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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