2011年01月30日

演劇は誰のもの? 〜『わが町』『浮標』再演をきっかけに考える〜

グローバリズムとローカリズムのさじ加減

ぽわん:ちょっと大上段にかまえ過ぎたタイトルだけど、何が話したいかっていうとね、最近、近代の名作の再演が増えてるじゃない。『わが町』とか『浮標』とか。あれって、演劇界的にはすごくいいことだと思うんだけど、観に来る人にはどういう人を想定しているんだろう?ってふと思って。
たぬき:いわゆる「古典だから見に来る」演劇ファンは2割ぐらいで、残りは「誰々の演出だから」「誰々が出るから」じゃないのかなあ。そういう残りの8割が、それをきっかけに古典に興味を持ってくれれば…ということなんだろうけどね。
ぽわん:でもさあ、一口に古典って言っても、例えばシェイクスピアなんかは大昔の作品だし、そうでなくてもドレスを着るような「赤毛もの」(古い?)とかなら、観客も自分との距離ができて今の自分と細かいところを引き比べたりしないかもしれないけど、『わが町』みたいな、もちろん過去の時代の作品だけど、今風にリアルに上演されがちなものって、「今の話」だと誤解されないかとふと不安になるんだよね。『わが町』ってほのぼのするけど、一方で、すごく保守的な町の物語でもあるし。
たぬき:そうだね。『わが町』は手法の斬新さで有名だけど、その手法によって描写される中身は、当時つまり1930年代のアメリカの日常なんだよね。「新しい革袋に古い酒」というか。ただね、若い2人のすれ違いとか産後の肥立ちが悪いとかっていうのはいくらでもドラマティックに出来る題材なんだけど、当時はそうした出来事を「淡々と語る」こと自体が新しかったんだ。モダニスト作家、ガートルード・スタインのThe Makings of Americansっていう小説が元ネタなんだけど。
ぽわん:実際、こないだ新国立劇場で上演された宮田慶子版は、小堺一機に過度なおふざけをさせず、敢えてストイックな抑えめの演技をさせてたなあ。
たぬき:それはモダニズム戯曲の解釈としてはすごく正しい。はしゃいでる『わが町』なんて意味がない。白地図みたいな戯曲だから演ろうと思えば簡単なんだろうけど。
ぽわん:なるほどね。…話がそれたけど、とにかく、そういう、少し前の作品を、時代性を強調せずに上演するっていうのは、面白くもあるけど、複雑な気分でもあるな。新しく見せても、作品に通底する考え方やセリフは微妙に昔の価値観だったりするよね。もちろん、それがその芝居の価値のすべてではないからこそ上演されるわけだけど。
たぬき:なんで複雑な気分になるの?
ぽわん:つまりね、例えば『わが町』が感動的な話なのはよくわかるんだけど、しんみりしたり涙したりしている若い観客を見ると、一方で、「その芝居はすごく昔の価値観に基づいていて、たとえばフェミニズムとかゲイ&レズビアンカルチャーとかが入っていない保守的な世界だよ、結婚して女は主婦になって男は外で働いて、子供作って死ぬ、みたいな物語が当たり前に展開するけど、それがすべてじゃないっていうことも、わかってるよね?」って確認したくなる(笑)。今って社会が保守的になっているだけに。…枝葉末節かな?
たぬき:確かに、歌舞伎の時代物を観て「主君の恩に報いるために我が子を犠牲にするなんて封建的!」とか「『女がゆえの浅はかさ』って台詞ふざけないで!」とか怒る人は今更いないけど、近代劇だとそこまで作り事として突き放した見方はできないかもね。とはいえ3幕の墓場のシーンって、誰もが人生というものをある感慨とともに振り返らざるを得ない名場面だよ。それは、時代物に封建道徳を超えた感動があるのと同じじゃないかな。
ぽわん:うん。それはもちろん、わかってるんだけどね。
たぬき:ちなみに、さっき言ったガートルード・スタインって、レズビアンでゲイリブのはしりみたいな人なんだ。だからきっとヨーロッパ系の演出家なんかだと、舞台監督役に彼女を思わせる女優を配して別の女優とイチャイチャさせるとか、墓場の場面でレズビアンのカップルを出すとか、そういう目配せをするかもしれないね。日本でそういうのやっても好事家のスノビズムをくすぐるだけだろうけど。

何がツボか。どんな影響を与えるか。

ぽわん:今話した『わが町』では、現代的に見せることで、保守的な内容も現代のものとして受容されないかっていう心配があったんだけど、逆の心配もある。たとえば『浮標』は戦争が絡むお話だけど、それを普遍的に上演した長塚圭史演出では、少しその辺りが弱かったっていう声もあるんだよね。
たぬき:古典をやるのなら、「ここは落としてはいけない」というツボがあると思うんだよね。化政文化の頽廃がない南北、社会意識の欠けたイプセンなんてありえないでしょ? で、長塚にとって、三好十郎のツボは「熱く情熱をたぎらせる男」で、そこに体当たりで挑んで突破することを目指したと思うんだよね。『胎内』のときもそれは感じたんだけど。ただ、ツボってのは本質的に、コンセプチュアルなものでないといけないのかもね。ほら、つか芝居でさえ熱演すりゃいいってもんでもないでしょ? 彼のツボは、やっぱり「差別される者の栄光」とかかもしれないし。いわゆるサブテキストとかバックグラウンドを掘り下げることは、その「ツボ」を探る上では、今でも有益だと思う。長塚って結構下調べする方だって聞いたことあるけど、それを手放すのが早いのかな?
ぽわん:いや、名作から時代感みたいなものを取り除いて普遍的/抽象的な演出で見せるっていうのが、最近の長塚演出のコンセプトのような気がするから、意図的なんじゃないかな。昨年、シアターコクーンで上演した『タンゴ』もその路線だったし。ともあれ、『浮標』を初めて観る人にとっては感動的だったみたいで、評判はいい。一方、過去に別の演出での『浮標』を観た人には、「演出はともかく、やっぱり戯曲がいいことを再確認した」っていう意見が多い。戯曲の良さを含めて感動が伝わったっていうのはすごくいいことだから否定するつもりはないけど、それは公演の良さというより戯曲の良さに起因する感動なんじゃないかなあとも思うんだよね…。
たぬき:三好十郎って、長塚だけじゃなくて鐘下辰男も栗山民也も一時好んで演ったけど、要するにみんな戯曲のパワーに惹かれてるんだよね。鐘下だと、戯曲自体が彼好みの限界状況そのものだし、栗山だと、舞台とは役者と役者のエネルギーの投げ掛け合いだという彼の演出論にうってつけだし。三好みたいな人が居なくなったのは、文学者の戯曲離れとともに、作・演出を兼ねる演劇人が増えたせいで、戯曲のポテンシャルだけで引っ張れるホンを書ける人、簡単に言えば専業の劇作家が絶滅しちゃったせいじゃないかな。
ぽわん:あと、演劇の発信側は、観客に影響を与えたいと思うんだけど、それがどんな影響なのかは操作しきれないよね。『わが町』で「ああ、これこそ人生だよね。私もいつかお嫁さんになるんだあ」なんて思ってほしくないし、逆に『浮標』では戦争のことをもう少し考えてほしいなんて思ったりするわけで、要は受け手がどのくらい自立しているかっていったら大げさかなあ。
たぬき:演出家の鈴木裕美が「演劇が社会に対して何らかのメッセージを発する必要はあると思いますか」みたいな質問を受けて、「私に出来ることは、いわゆる悪役の側にもしっかり存在理由を見つけてあげること」といったようなことを言ってたことがある。これはとても誠実な言葉で、本来舞台とは1つのメッセージが押し付けられる場所ではなくて、案外多くの視点が並べられてもいるんだ。それを読み解くのは観客の咀嚼力にかかっているんだろうけれど。
ぽわん:観客の咀嚼力を刺激するために、視点を多く提示することが大事ってことなのかな? 演劇が誰のものか、というのは、簡単には出せない結論だと思うので、引き続き考えて行こう!
posted by powantanuki at 22:34 | TrackBack(0) | 演劇論ほか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月20日

ご都合主義的過ぎるehon『SWEETS〜「可哀想」にたかる蟻たちの話。〜』

並べるのみでなくリアルに動かすべし


ぽわん:ehonっていうプロジェクトの第一回公演『SWEETS』っていうのを観たの。夢の遊眠社の看板女優だった円城寺あやが出演しているし、座・高円寺の「演劇村フェスティバル」の一環となっているので、一定の質かなあという期待もあって観たんだけど・・・
たぬき:座・高円寺は公共の劇場なわけだから、そりゃ観客としては最初からある程度の信頼を置くのは当然だよね。
ぽわん:ところがどっこい、芝居に必要な掘り下げが欠けていて…。ともあれ、まず設定を話すね。とある母子家庭の家で、娘は反抗的で家に居着かず、息子は20歳過ぎてるのに引きこもりで、ゲームのカスタマーセンターに「リセットできない」とクレーマー状態。そんな中、母に三人目の婚約者ができる。
たぬき:ということは、主人公はシングルマザーのお母さん? 母子家庭のステレオタイプを圧縮させたってとこだね。
ぽわん:サイドストーリー的に、家に居着かない、ちょっと反抗的な態度の娘が、耳に障害のある男と付き合ってて身ごもる、という物語が用意されてる。さて、母の婚約者が母と結婚しようとする中、ルポライターとか名乗る男が「あんたの結婚相手はあやしいぜ」みたいなことを言ったりするんだけど、これがまたわざとらしい!
たぬき:あやしさは雰囲気でかもし出すから怖いのに、言葉で言っちゃうのは薄っぺらいねえ。
ぽわん:ともあれ、娘は障害者の男の子供を身ごもるに至るんだけど、妊娠した娘が、母の婚約者に対して、驚くべき事実を明かす。その事実とは−−。
たぬき:伏線が全然ないから予想もつかないなあ...
ぽわん:まあそれは私がここで端折ったせいもあるかな(笑)。とにかく、実のところ最大の問題は、息子の引きこもりにあるのではなく、母親が、最初の夫にかまってほしいがために、当時赤ちゃんだった息子の食事に下剤を飲ませては病院に行って夫や周囲の同情や関心を得ようとしていたこと、その行為にあるとわかる。
たぬき:気づこうよ、親族とか近所の人!
ぽわん:ちなみに前述の自称ルポライターは、実は最初の夫の親戚だから事件を追っていたんだと後からわかるんだけどね(笑)。でもって夫はその嘘に長年だまされた挙げ句、妻、つまり一家の母親に殺されたの。で、9歳になっていた息子は父親を切り刻むのを手伝わされたため、以後、母から真実を言わないよう脅迫されたり暴力受けたりして「引きこもらざるを得なかった」のだとわかる。一方、娘は二番目の夫の子なんだけど、その実の父親から性的虐待を受ける。かくして、二番目の夫もまた殺されることとなり、娘も息子と同じように、母が父親を切り刻むのに加担した。
たぬき:...あり得なくはないけど非現実的だねえ。ちょっと北九州の連続監禁殺人事件を思わせるかな。にしても殺人だの性的虐待だの、警察は動かないのか!? プロの作家なら必ず早い段階で「警察が動かない理由」「親族とかご近所から切れてる理由」みたいなのは説得力をもって入れてくれるんだけどなあ。
ぽわん:そして、さっき言った通り、妊娠した娘が母の婚約者に対して驚くべき事実を明かした時、「なぜ話すんだ!」と聞く婚約者に対して「家族になるってことは秘密を共有することよ」と言う! しかもそこへなんともタイミング良く、それまで「息子が引きこもりで困ったわ」というふりをしていたはずの母親が、息子に暴力を振るいながら居間に入ってくる。ので、婚約者は、娘が言ったことが本当だと分かる…ご都合主義にもほどがあるね。
たぬき:...人の出入りは劇作家の腕がはっきり出るからねえ。プロなら「そこでその人が出て来る理由」をキッチリ作ってくるんだけど。人間関係って並べるのは超簡単なんだけどそいつらをリアルに動かすのは超難しいんだよ。

何に泣くか、が重要!?

ぽわん:母が次第に風水にはまっていくさまも描かれるんだけど、これがまた唐突で、「このお母さんは頭がおかしいです」という安直な記号もどきにしかなっていないんだよね。あと、娘がお腹の子の耳にも障害の可能性があると言われて、そんなお腹の子に、わざわざ音が大事なガラガラを買って、振ってしょんぼりする、という場面があるのも、中途半端に作為的だったなあ。そして、そんなふうにお腹の子のことを気遣っているはずなのに、なぜ、娘がいきなり真実を母の婚約者にぶちまけるのか、さっぱりわからなかった。
たぬき:ふむふむ。
ぽわん:だって劇中では、相手の男は障害があっても誇り高く強く生きているっていうことが示されるんだよ。その人との間に子供ができてこらから産もうという状況下で、娘がいきなり古い家族にこだわるのはおかしいんだよね。身ごもって新しい家族をもつことになるはずの人間が、それまで居着かなかった家族に自ら執着する? それよりも、危ない家庭から離れて赤ちゃんを守ろうとするよね、普通。もしも、赤ちゃんや自分への自殺行為的に母親の秘密を暴露したということが表現したかったならば、そういう複雑な娘の心理を、もっと描かなくちゃいけないはずだよ。
たぬき:未見だからウカツなことは言えないんだけど、説明台詞を言わせたいがために、キャラクターの一貫性とかリアリティを置き去りにするという初歩的ミスだねえ。そういう展開にしたければ、一旦娘と障害のある男を仲違いさせる場面とかを作らないといけないんだよね。そこまで考えが至らないんだろうけど...
ぽわん:結局、娘が秘密を暴露し、息子と母親がもみ合って乱入したその居間で、事態は殺傷事件へと発展して、息子が母と娘と婚約者を全員殺しちゃう。でも娘は、死に際に赤ちゃんの父親に携帯電話で「赤ちゃん守れなかった。ごめんなさい」みたいな電話をかける。一方、息子は最後、「リセットしたい」と言う。ゲーム会社にもそうクレームしてたからね。ベタ過ぎる伏線で笑っちゃうなあ。
たぬき:結末で人が死ぬのは、ある意味で極めて安易だよね。たぶん劇作家の誰もが、一人前になる過程で一度は「今度の新作は誰も死なないことにしよう」と自らに縛りをかけると思うんだけど(むろん喜劇作家を除く)。…それで全体の感想としては?
ぽわん:陳腐でげんなり、という感じ。ディテールで言っても、次のセリフや展開が簡単に読めちゃうし、人物の造形が全然掘り下げられてなくて、役には、作者が言わせたいことを言わせてるだけで、言うまでの心理とか描けてない。そのくせひどいのは、大きな字幕も頻繁に入れて、そこで文字でたーぷり説明しちゃってたこと。それを芝居で描くのがあなたの仕事でしょーーー! 
たぬき:怒り心頭だねえ。
ぽわん:例えばケラリーノ・サンドロヴィッチとかも字幕入れるけど、分量や内容には節度があるよ。せいぜい幕の最初とかだし。しかもそんな舞台を観て、泣いてる観客が何人かいたよ。芝居に泣いてるんじゃないね、あれは。
たぬき:「最初から泣きにかかる客」って居るんだよね。ほら普通はさ、プロットに穴があると「あれ!?なんでそういう展開に?」って感じで醒めてしまうじゃない? でもそうじゃないタイプの人間が一定数いるんだよね。たぶんそういう人は現実とドラマの間に区別を付けないんだ。目の前で可哀相なことが起きたら自動的に涙腺が緩む、みたいな。
ぽわん:そうそう。そういう感じ。
たぬき:皮肉でも何でもなく、そういう人たちはある意味タフなのかもねえ。ほら、現実の不幸に対していくらでもシミュレーションが出来るわけだから(笑)。
posted by powantanuki at 01:18 | TrackBack(0) | 芝居の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月19日

戌井市郎の劇団葬をきっかけに新派復活のウルトラCを思いつく

ぽわん:今日はたぬきさんが一人で言いたいことがあるんだって。
というわけで、以下はたぬきさんの原稿です。では、どうぞ!

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 戌井市郎の劇団葬、商業演劇界を代表して弔辞を読んだのは水谷八重子だった。故人との付き合いの長さが主たる選考基準であり、ということは必然的に年配者が引き受けるのが自然であろう弔辞読みとしてはやや貫禄に欠ける彼女だが、現在の新派に他に適当な人材が居ないのも事実。
 いかにも今の新派のテイタラクを象徴…と言いたいところだが、わたしことたぬきが物心ついた頃、既に新派は低迷の極みとされていた。にも関わらず現在まで新派は存続している訳で、それには水谷良重が親の名前であった二代目八重子を継ぐという、例の襲名ビジネスが大きかったのではと思う。
 これをヒントにたぬきが提案したいのは、歌舞伎のメインストリームからは遠ざけられ、そのせいもあってかここのとこ新派への客演が目立つ、澤瀉屋軍団の更なる積極的関与である。具体的には、今から20年後ぐらいに、例えば市川春猿が“新派に客演するときのみ”三代目八重子を襲名するのだ。となれば市川猿弥は当然二代目安井昌二、市川笑三郎は三代目英太郎であろう。似合いそうだ!
 これが成功すれば、市川段治郎が大化けしちゃったので喜多村緑郎の大名跡を復活!みたいなことも可能かもしれない。となれば当然、襲名前には喜多村と、彼の遠縁にあたる戌井市郎の墓参りという一大イベントが待っている訳ですよ。

 え?荒唐無稽だって?ほら、尾上松緑だって舞踊のときは藤間勘右衛門を名乗るじゃないですか。あれを拡大解釈するんですよ!!! (文責:たぬき)
posted by powantanuki at 11:57 | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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