2014年10月22日

ダミアーノ・ミキエレットと中屋敷法仁 - 二人の若手演出家をめぐって

才人が陥るワナ!?

たぬき:ぽわんさん、実は私たぬきには、昔から「この2人は資質が似てるなー」と思ってる演出家がいてね。
ぽわん:んにゃ? たぬきさん、ひさしぶりだねえ。で、誰と誰ですか?
たぬき:えーとね、日本の劇団・柿食う客の主宰・中屋敷法仁と、イタリア出身のオペラ演出家、ダミアーノ・ミキエレット。こないだの東京二期会のミキエレット演出『イドメネオ』を見て、改めて思ったんだよね。
ぽわん:ふむふむ。で、どこが似ているの?
たぬき:二人の共通点と言えば、面長だけど端正な顔立ち(まあ顔自体が似てるって程じゃないけど)、まだ比較的若いのにあちこち引っ張りだこの売れっ子であるとこ、舞台作りが今風のポップなアイディア満載で、演出家としての才気をとっても感じるところ、などなど。
ぽわん:あー、まあそうかな? でも、わざわざ指摘するからには、何かその先に、たぬきさんが言いたいことがあるんですね?
たぬき:そうなんだよね。彼らの最大の共通点は、ほんとに独創性があるかっていうと疑問なとこと、手つきがいかにも優等生的で、毒もなければ社会に対する批判精神もない、要するに健全なノンポリだってこと。
 えーと、いわゆる読み替え演出派の中でも、ミキエレットはとにかく場面のつなぎ方がうまいよね。人物の出捌けが、いかにも自然に見えるよう念が入っている。新国立劇場の『コジ・ファン・トゥッテ』を見た人なら納得してくれるんじゃないかな。以前「劇作家の腕は人物の出捌けに出る」と言ったことがあるけれど、それは演出家に関しても言えることなんだよね。
ぽわん:こないだの『イドメネオ』では?
たぬき:うん。あれでも、たとえば、自然に人物を出入りさせるための嵐の扱い方は冴えていたし、特筆すべきは小道具の出捌けだったね。能や歌舞伎だと、不要になった小道具は後見や黒衣が持ってっちゃうけど、近代劇ではそうはいかないから、舞台に残っちゃった小道具は、うまいことどこかの段階で捌けさせないといけない。『イドメネオ』は所謂ダカーポ・オペラだから、アリアは繰り返しが必ず入る。歌詞もまったくの繰り返しだから、同じ事やらせても藝がないということで、1番で喜怒哀楽をひとしきり表現した後で、繰り返しに入った段階で、舞台上の小道具を処理しつつ、次の場面への転換や布石として有効に使ってた。冒頭のイリアのアリアでは、ト書きでは舞台にいないはずのイダマンテを小道具として(!)出して、彼女のイダマンテへの愛と、にもかかわらず(イダマンテがちょっと精神的に不安定だったりして)告白をためらう理由を表現してたし、その後のイドメネオのアリアでは、繰り返しに入ってから、イリアが前の場面で置いていった産着をイドメネオの手で砂の中に埋めさせることで、小道具を捌けさせると同時に最後のオチへの伏線となっていた。3幕のアルバーチェのアリアは、怒りにかられて舞台に積み上がったスーツケースを続々に放り出すという動作が、同時にステージ中央エリアを空けるための舞台転換にもなってるというね(笑)。
ぽわん:若いのに手練で、いいじゃないですか!


優等生よ、無茶をしろ!

たぬき:さてさて、本題に戻ろうかな。今回の『イドメネオ』は、砂上(ほんとはゴムだそうだけれど)に無数の靴がばらまかれた抽象舞台で上演された。エレットラだけ突飛な衣装を含め、セノグラフィは全体にとても調和が取れていて、ぽわんさんの持論「センスがないと抽象化はやっちゃだめ」の基準は当然クリアしている。
ぽわん:はいはい。
たぬき:だからといって万々歳とはいかないのは、やっぱりさっき言った独創性の問題。全編が砂の上というのは、ロバート・カーセンがピナ・バウシュをパクって何度かやってたし、ト書きの指定ではそこにいないはずの歌手を出すのも読み替え演出の常套。ヒロインが妊娠してるとかラストで胎児が出てくるというのはバイロイトの名物で、ゼバスティアン・バウムガルテンが『タンホイザー』で、ハンス・ノイエンフェルスが『ローエングリン』で先にやってるし、ザルツの『ラ・ボエーム』は、どう考えても『RENT』の逆輸入。新国立劇場『コジ』の、舞台全体をゆるいドーム形の野原にしてグルグル回すというやつは、クラウス・グートの『ドン・ジョヴァンニ』のイタダキだ。
ぽわん:まあ、パクりパクられっていうのは以前も我々、話題にしているけど、パクりにもやっぱり仁義というか手法というか、パクりでは終わらない“何か”がないといけないね。今回のミキエレットの演出がその点で“何もない”とは言わないけど、強烈な独創性とまではいかなかったかもね?
たぬき:うん、それこそ「パクられる側」に回るほどのオリジナリティは生み出せてない。ただ、ミキエレットって、大っぴらに「パロディです」「メタレヴェルの出来事です」と触れ回ることでパクリを糊塗しようとする感じのカーセンよりは節操を感じるし、ドイツ系演出家のこれ見よがしな露悪趣味もない。ただし同時に、人間性に対するシニカルな視点もなくなっていて、やっぱり優等生だねえ。
 あとやっぱり、社会に訴える力の欠如は気になるんだよ。前も言ったとおり、読み替え演出とはそもそも、「オペラに社会性を」ということから始まったもの。彼らの世代としては「オペラを現代化すること自体がひとつの社会性の現れであると同時に、オペラという固定化したジャンルに対する批評である」みたいなつもりなんだろうけど、それは同時に、中屋敷の女体シェイクスピアシリーズにも言えることかも。
ぽわん:擁護するわけじゃないけど、オペラにしても演劇にしても、社会に問題を突きつけるばかりではなく、かといって古色蒼然としたださい内容でもなく、そこそこセンス/腕のいいものがあってもいいと思う。その点は、二人ともクリアしているのでは? そうやって上演して、そこに自ずと社会性が浮かび上がる、と彼らは自作について考えているかもしれない。
たぬき:まあ、実際、今回の『イドメネオ』だって、砂上に散乱する無数の靴を見て、東日本大震災やスマトラ島沖地震のことを思い出した人もいるかもしれないよね。でも、本来読み替え演出ってのは、作品をト書きの時代設定から離して、作曲家が生きた同時代なり何なりの、ある危機的な社会状況(←ここ重要)に対応させた形で先鋭化し、そこと現代の観客の立場とを対決させるという点にあったはず。彼らは外面のアップデートには熱心だけど、その一方で作品の根源に還る事を怠っているとは言えないかい?
ぽわん:けど、二人とも若者の風俗を、古典の中に取り入れてはいる。それは社会状況を描いてはいるんだけどね。そのことを、対決と言えなくもない・・・けど?
たぬき:うーん、やっぱりそれだけじゃ物足りないね。観客に匕首を突きつける、あるいは虚無へ突き放すような何かが欲しいってことかな。ほら、数年前に中屋敷がゴーゴリの『検察官』を演出した事があったじゃない。あれ、最後に自分の勘違いに気付いた市長が、本来は自分の周囲の登場人物に向かって言うはずの「あいつらのせいだー」の台詞を、敢えて客席に向かって言わせてたけど、その場面の毒のない事と言ったらなかった。異化効果ゼロで全然こっちに刺さってこないばかりか、「ふふふ、これが僕の斬新な解釈ですよ」と北叟笑む演出家の顔が思い浮かぶばかりでね。ほんと、優等生の限界だよ。
ぽわん:でも、優等生にも意地ってやつがあるはずなんだよ。彼らには、中途半端な周囲の評価に甘んじることなく、高みを目指してもらいたいものだね!
たぬき:ほんと、従来のファンをバッサリ切り捨てるような問題作に挑んでほしいね。四十過ぎると、発想も依頼もどんどん狭くなっちゃうよ・・・とは言うものの社会派オペラ演出家の雄、たとえばジョルジョ・ストレーレルとかパトリス・シェローあたりも、結局のところ、オペラという制約と不自然のカタマリである藝術を、いかにも自然な舞台劇というか、美的な完成品としてプレゼンテーションするその技量によってのみ評価されるというか、彼ら自身そこに立ち戻っちゃった面はあるよね。現在が「政治の季節」ではない以上、彼らのノンポリぶりは渡世として当然のことなのかもね。
ぽわん:おや、いきなり諦めの境地ですか?
たぬき:というか、今のとこ彼らは技量がグングン伸びてるというより、どっちかというと早くもルーティンな感じがあるよね。今のままだと、文学だろうとスポーツだろうとどこの業界にもいる、「案外伸びなかった早熟の天才」みたいなとこに落ち着いちゃうよ。やっぱり若いうちは誇大妄想的に無茶をやらないと!
ぽわん:「若者よ、無茶をしろ!」という言葉を、ミキエレットと中屋敷に捧げるとしましょうか。
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2013年09月13日

第一回ABKAIに見る、限界あれこれ

『はなさかじいさん』はなぜ失敗作か

ぽわん:たぬきさん。過去に宮本亜門についてここで触れ、宮沢章夫についてはほんのちょっとだけここで触れた我々だけど、この二人が組む公演が、意外なかたちで実現したね!
たぬき:市川海老蔵の自主公演ABKAIの『疾風如白狗怒涛之花咲翁物語。〜はなさかじいさん〜』だね。
ぽわん:ぜひとも成功させたいだろう海老蔵自らメディアで大宣伝したせいか、いろいろあって不入りだった3月のル テアトル銀座とは対照的に、札止め満員だったのはひとまず目出度いとして、作品的にはどうだった?
たぬき:うーん、ホントにつまらなかった。これはまず第一に、宮沢章夫の脚本に原因があると見る。歌舞伎台本作りのイロハを知らないし、葛藤や劇的アイロニーの作り方にも習熟していない彼の弱さがモロに出ていたね。
ぽわん:たとえば?
たぬき:2役を兼ねる海老蔵がまず演じるのは、最後に枯木に撒かれることになる例の白犬。ここでの彼の演技プランは、基本的に「義経千本桜」の狐忠信がベースになってるんだけど、歌舞伎台本において「人外者」はたいてい超人的な力を持っている訳で、その意味で、犬なのに平気で人間の言葉を喋ったり、鬼ヶ島で鬼を相手に闘ってきたこの犬に、狐忠信風の芝居はひとまず合っているようにも思える。でも、狐忠信にせよ「蘆屋道満大内鑑」の葛の葉にせよ、歌舞伎の世界において、善人側に立つ「人外者」は、最後までその超人的な力を失うことはないんだよね。「伽蘿先代萩」の仁木弾正みたいに、最後に術が破れるのはいつも悪人側。なのにこの芝居、人間並みの知能を持ち、鬼ヶ島で大活躍できる程の賢くて強い犬が、ラストで民衆にあっさり殺されるのかが全く説明されてないんだよね。
ぽわん:殺される直前まで、多勢を相手に大立ち回りを見せていたのにねえ。あれは偶然?うっかり?刺されちゃったみたいなことだったのかなあ?
たぬき:プロット上の欠陥だと言わざるを得ないよね。別にそれまで不条理劇として進行していた訳じゃないんだから。
ぽわん:もっとも、それは宮本亜門の演出の問題かもしれないよ。その場その場を盛り立てることに終始する、一貫性のない演出だったからねえ。あと、歌舞伎俳優は自分でも作品作りに関わりたがるもの。ましてや、これは海老蔵の自主公演だからね。つまり、宮本亜門か宮沢章夫も不本意に手を入れられた可能性はある。
たぬき:いや、宮沢はこの件に関して、「僕の書いたものは、だいぶ台詞が削られていたものの、構造と、削られると困る残したい台詞はあった 」と言っているから、要するに最初からあの程度の構造だったということだ。彼はどうやら花咲か爺の昔話と東日本大震災とを二重写しにしたかったらしいんだけど、彼にとって「削られると困る残したい台詞」とおぼしき幾つかの妙な説明台詞は、ストーリーから完全に浮いていたねえ。
ぽわん:まあツイッターとはいえオフィシャルトーク?だから、本当は削られた残念なところが多かったかもしれないけどね。
たぬき:あと、亜門の仕事だけど、中劇場の割にはプロセニアムをはみ出す演出がお約束なあの劇場では、正直見飽きた手法のオンパレード。海老蔵の演技プランは本人の独断だったかもしれないけど、それ以外の舞台処理に関して亜門の抽斗がカラッポだったのも事実だね。もし「この芝居は歌舞伎愛好家に向けられたものじゃない。「四の切」とかと比べるもんじゃない」というエクスキューズが本人たちの中にあるとするのなら、我々はいかにも志の低い芝居を見せられた事になる。
ぽわん:まあ、新作歌舞伎と銘打っている以上、従来の歌舞伎と距離をどう取るにせよ、その距離は明確であるほうが志が高いといえるかしらねえ。
たぬき:既存演目への批評性なんて何も感じなかったからね。鶴屋南北の先行作に対する接し方を見習ってほしいよ。あと、プロット上の欠陥は他にもある。いちばんの問題は、悪玉となるべき得松爺と善玉である白犬の両方を海老蔵が兼ねてるせいで、ドラマ的な緊迫感が全くないこと。「善玉と悪玉が同時に出ることは禁じられているにも関わらずしっかりサスペンスを作る」みたいな高等手段は、宮沢の手に余ったね。
ぽわん:芝居で2役、それも善玉と悪玉の両方をやるというのは、歌舞伎ではアリな気がするけど?
たぬき:うん。例えばそういうのの代表作である「伊達の十役」だと、吹き替えを多用するのはもちろん、裁く側と裁かれる側を同一人物が演じる場面では、どちらかの不在を補う代理人的ポジション、所謂アナの役が出てくる。そういう行き方はこの少人数の座組では最初から無理だし、吹き替えは『蛇柳』で全面的に使っちゃってるから、二度も同じ手を使うのは藝が無い。となると残る手法としては、フランス古典悲劇みたいに不在の人物を台詞で想像させるしかないんだけど、要するに作家にそこまでの技量はなかったってことだ。民衆に、何の躍動感もメッセージ性もないシュプレヒコールもどきをやらせるのが精一杯なんだからね。
ぽわん:まあ、最後くらいは祭りにしたかったのかな。
たぬき:見易い欠点をもうひとつ挙げると、犬の命が狙われてるから飼い主夫婦は家に籠っているという設定なのに、件の悪玉・得松爺のところへ飼い主夫婦の片方・セツ婆がノコノコ出かけて行ったりするのは明らかにおかしい。そうしないと話が転がらないってだけでこんなルール違反をやらせる、余りのご都合主義にうんざりしちゃった。ほんと、花咲か爺の昔話と東日本大震災を二重写しにしてるヒマがあったら、他にやるべきことが山ほどあるだろうよ。


宮沢・海老蔵それぞれの課題

ぽわん:冒頭で書いた通り、宮沢章夫についても宮本亜門についても過去に言及したことのある我々だけど、まあ宮沢については短かったので、ちょっとここで書いてみようか。今回は歌舞伎俳優の自主公演ということで特殊だったかもしれないけど、たぬきさんはこの作品に、それにとどまらない宮沢の限界を見たんだよね?
たぬき:ナンセンスを出発点に、平田オリザ〜岩松了〜チェーホフ〜別役実〜中上健次〜青山真治などなど、宮沢章夫は節操無くいろんなものから影響を受けて来たけれど、いずれにも共通してるのは、どれもこれもあまりに表面的なカブれ方にすぎなくて、彼が影響を受けたものを元から知る人間にはネタが割れすぎてつまらないものばかりであること。
ぽわん:ふうん。たとえば?
たぬき:90年代半ばは平田オリザの影響をモロに受けて多重会話とかやってたし、ドラマの核心をわざと回避する岩松了の方法論も真似してたし、すぐに「三人姉妹」と「かもめ」の構図を借りてくるし、会話のずらし方は別役だし。勿論そのどれもがオリジネイターたちには遠く及ばないし(大概中途半端な模倣なんだよね)、模倣し折衷することによって「演劇の可能性」が広がったりする訳でもない。だって、要するに場当たりを狙ってるだけなんだから。いつも「あーこの場面、作り手はキメてみせたつもりだろうけど役者体も言葉も薄っぺらいから演劇空間として全然成立してないよ」みたいなのばかり。彼の薄っぺらさが幸運にもある種の同時代性を帯びることができたのは、ほんの数年間の出来事だと思う。
ぽわん:その数年て言うのはラジカル・ガジベリビンバ・システムの時代?
たぬき:うん。あと、薄っぺらさがある種のリアリティを持っていたという点では、オウムと阪神大震災の年である95年以前の2、3年を加えてもいいかもしれないね。
 いずれにせよ、今回も昔話と歌舞伎を表面的になぞってみただけ。こういうやり方で宮沢が今までやって来られたことに関しては、作り手側の浅薄なカブれっぷりを自分たちへの知的な(?)目配せと取り違え、ナイーヴに称賛してきた評論家にも大いに責任がある。彼らも反省してほしい。
ぽわん:『はなさかじいさん』に関して言えば、知的な目配せとは、本人も思ってないんじゃないかなあ。わからないけど。繰り返しになるけど、内心、忸怩たるものがあるかもよ。
たぬき:うん。確かに今回の脚本には、彼が昔話にも歌舞伎にも何の造詣も無かったことも、そのハンディをはね返すだけのセンスがなかったことも一目瞭然だったね。
ぽわん:さて、主宰の海老蔵についても少し触れておこうか。わたしに言わせると、犬の演技では「なんでもやるぞ」っていう気迫は感じたけど、悪玉の得松爺の台詞回しにいつもながらの変な抑揚があったなあ。
たぬき:海老蔵も演技の抽斗が多い訳ではないから、単に間の抜けた荒事みたいになっちゃってたね。もう1本の『蛇柳』も良くなかった。松羽目をアレンジした言わば柳羽目をバックに、「保名」、「娘道成寺」、切能もどき、あと「押戻」… そんなのが取っ替え引っ替え出てくるんだけど、新作舞踊的な華やかさで行くのか、松羽目ものの格調高さを狙うのかの焦点が絞れていない。冒頭の衣装がとっても和モダンで、なんだか隣の東急本店で買って来た安っぽい感じなのに、長唄の謡がかりが変に本格的で長唄本来の良さを失ってるし、乱拍子は決まらないわクドキは恋情がまったく伝わらないわで困ったし、良いとこを見つけるのが大変だったよ。
ぽわん:もうちょっと踊りがうまかったり、変化がつけられたりしたら、だいぶ印象違ったと思うんだけどねえ。
たぬき:うん。吹き替えで出てた人が、顔全面を隈取りで覆ってるせいもあって相当海老蔵に似てて、あそこまで似せられるんだから、変に顔を隠すと逆に吹き替えだってバレちゃうよ、もっと堂々としててもいいんじゃないのって気がしたね。
ぽわん:それはしかたないよ。吹き替えには吹き替えの領分ってやつがあるだろうし。あれでもだまされた人、いっぱいいたし。それより、吹き替えの時間を短くしてほしかったな。
たぬき:あそこは愛之助の見せ場だから、ある程度の時間をあげたのかな。押戻しに替わるのも一苦労だろうし。とは言え、あまりに時間をかけると吹き替えが長く舞台に居すぎるというジレンマが… この辺は少人数の座組ならではの遣り繰りの大変さだね。
ぽわん:海老蔵に関して言えば、演技や踊りの方向性にしろ、演目選びにしろ、体力に物を言わせてその場を乗り切るだけじゃなくて、もっとじっくり考えてほしいものだねえ。本音を言えば、次は宮沢&宮本コンビじゃない人に頼んでほしいなあ。まあ誰に頼んでも、本人がそれを生かせなければ意味ないけどね。
たぬき:仄聞するに、彼には良いブレーンも付いてなくて、周囲はご機嫌取りばかりみたいだね。今年3月、当初の予定通り栗山民也の演出でイアーゴーを演じていれば、ワンマンの芝居とは違う何かが分かったかなあ? とはいえ商業演劇では手心を加えなくもない栗山だから、大した成果にはならなかったかもねえ。
ぽわん:海老蔵に関しては、多くのファンが期待しては脱力し失望してきたんじゃないかと思う。それでもまだ若いから見守っているけど、若さはなくなっていくのだから、まもなく彼の正念場だろうねえ。
たぬき:自己を過信しているというか、己が伝統(と革新)を受け継ぐ存在であるということに対して楽観的すぎると思うんだよね。そりゃあ彼が口上で「ひとつにらんでご覧にかけ」れば、江戸の市民が團十郎のにらみで瘧が落ちると信じたのもむべなるかなって感じの大迫力だけど、黙阿弥の白浪物なんかだと、渋谷センター街にたむろするグレた若者にしか見えなくて、全てがブチ壊し。彼は天性の荒事師であるにせよ、備わっていないものがたくさんあることを自覚してほしいね。最近は、彼が妙な芝居をやると客席からクスクス笑いが漏れるけど、あれは決して彼のユーモアとか愛嬌にウケてるんじゃなくて、単に失笑してるだけだってことを肝に銘じてほしい(笑)。
ぽわん:無理矢理、宮沢章夫、宮本亜門、海老蔵に共通することを言うなら、有名な割に実力がいまひとつで、やりたいこととやれることが違うってことかなあ。そう考えると、実に象徴的な第一回ABKAIだったと言えるのかもしれないね。
たぬき:要するに、3人ともお山の大将なんだよね。山容とか標高は三者三様だけど(笑)。
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2013年05月22日

続続・小谷野敦『猿之助三代』のびっくりな内容

ぽわん:2013年5月18日付けの小谷野氏のブログタイトルが、匿名者に告ぐ。となっているけど、内容から察するにどうやら我々のことだねえ。
たぬき:我々は「ぽわん&たぬき」なる記名のもとに存在する猫であって、アノニマスな存在ではないのだけれど、その辺の違いは小谷野氏には分かってもらえないでしょうからひとまずおいといて…
ぽわん:こっちはボランティアで著書の誤りを指摘しているのに、本人は誹謗中傷としか受け止めず、「匿名は卑怯」と吠えているのが不思議だよ。著者なんだから、こちらが勘違いしているようなところがもしあるなら反論するにしても、正しい指摘は甘んじて受ければいいのに。その本質から目を背けて「犯人探し」に奔走しているのは見苦しいね。
たぬき:小谷野氏の反論がまた、汚いやり口なんだよね。そこでまず、このブログに目を通してくださっている方々に、ここから先を読み進めるにあたり事前に知っててもらいたいことがあるんです。それは小谷野氏が、反論するにあたって、こちらの意見を不完全に引用し、結果的にねじ曲げていることです。

 まず、我々は、小谷野氏の反論への回答である、続・小谷野敦『猿之助三代』のびっくりな内容において、「義経千本桜」で源頼朝(登場人物として舞台に上がることはなく、間接的に言及されるのみなのですが)と源義経が、終幕において和解する可能性があるのかどうか憶測をめぐらせるという一種のシミュレーションを行ったんだけど、その結果、「五段目で河越太郎が吉野へ到着して一声発した時点で鎌倉にいる頼朝が義経を許す気になっている可能性はゼロ」という結論へと至ったわけです。
 しかるに小谷野氏は、匿名者に告ぐ。において、この一節から「五段目で河越太郎が吉野へ到着して一声発した時点で」「鎌倉にいる」ならびに(許す)気になっている」という、時間・場所・意味内容をそれぞれ限定した文言を削除し、かつ、そもそもこれが単なる「憶測」にすぎないという我々の断り書き(続・小谷野敦『猿之助三代』のびっくりな内容にあります)にも触れることなく、あたかも我々が断言でもしたかのような
「頼朝が義経を許す可能性がゼロ」
 へと改変してくださいました。まったく迷惑な話です。
 小谷野氏の文章は「とはなにゆえか」と続くのですが、その回答は「そっちで勝手に改変しときながら、なにゆえかもへったくれもないよ!」以外にありえません!

ぽわん:緻密さとか客観性とか、そういうものを持つ気はないんだろうかねえ。
たぬき:特に、「頼朝が義経を許す気になっている可能性はゼロ」と一続きになっているのに、真ん中の「気になっている」の箇所だけわざわざ削除したり、この記述そのものが憶測(シミュレーション)にすぎないと断っているにも関わらずそこには触れない小谷野氏のやり方は、極めて「卑怯な」ものだとしか言いようがない。「匿名は卑怯」とは彼の常套句だけど、そう言う彼の方こそが繰り出してくる「卑怯」な手を、以下で我々は何度か指摘することになるだろうね。ちなみに件の「頼朝が義経を許す可能性がゼロ」に関し、「引用が不完全だといちゃもんをつけているが、形を整えただけで、文意は変わっていない」式の言い訳は通用しませんよ。「許す気になっている」を「許す」に改変することは、「食べる気になっている」を「食べる」と改変することと同じ詐術が働いてますからね。また、「心の中で許したのであれば、それは許したということである。意味は同じである」式の言い草もまた通用しませんよ。意味が同じなのなら、「気になっている」をわざわざ削除せず、そのまま引用すれば済む話なんだからねえ。
ぽわん:匿名の件だけど、仮に彼が、「匿名は卑怯だからこちらもそれなりの対応に徹する、それが嫌なら実名を名乗れ」的なことを考えているとするなら、おかしいところを指摘した読者にそんなこと言うこと自体がナンセンス。そんなことより本質的な話として言いたいのは、「自分が書いたお粗末な内容について猛省せよ!
たぬき:あとさ、単純な事実誤認のうち、「うっかり間違えた」で済みそうなものだけ、彼は我々の指摘にあっさり応じたけど、自分の沽券に関わるようなものについてはあれこれと言い逃れしてるよね。これってどうなの? 以下のa)からr')までの中には、見解の相違とか言葉が足りなかったとか、そういう言い逃れが出来ない「ごく単純な事実誤認」がいくつも含まれてるよ、と、念を押した上で、以下に論点を整理します。*アルファベットは前回の我々の記事に呼応してまして、抜けてるところは「一応訂正済み」か、「言い抜けっぷりを細かく論証するのが面倒なので今回は止めた」な項目です。

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b) 「仮名手本忠臣蔵」が初演されたのは元禄赤穂事件の同時代じゃないです
※この件に関し、匿名者に告ぐ。において、「徳川時代には同時代の出来事を狂言に仕組むのが禁じられた。「同時代」というのは徳川時代のこと、すなわち関ケ原以降のことである。」とあります。当然ながらこうした反論は予想されておりました。再反論のために、いったん『猿之助三代』の原文「同時代の事件を描くにも、「仮名手本忠臣蔵」のように『太平記』の中の逸話に仮託したり」に戻りましょう。
 ここで「事件を描く」のは誰でしょう。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の3人です。故にここでの「同時代」は、否応無く「彼ら3人が生きていた時代」を意味してしまいます。「「同時代」とは徳川時代のこと」なる小谷野氏の断言は、彼らではなく我々から見た視点に基づくものに他なりません。
c) 福地櫻痴は「鏡獅子」の作者として現在も有名です
匿名者に告ぐ。に「福地桜痴は、あんた(たち?)は知っているかもしれないが、世間的には全然知られていない」とありますが、『猿之助三代』なる一応は歌舞伎をテーマにした本を書いた著者の、この「世間的には全然知られていない」という発言がいかに無責任かを考えてみましょう。もしターゲットが"世間"であるのなら、『猿之助三代』では「この人はあなたたちが知らないかもしれないけど、実はこんな代表作があるんだよ」と書くのが筋ですよね。先の記事は、「世間で知られてないんだから俺も"あまり知られていない"って書いたんだよ文句あるか」みたいな言い分に聞こえますよ?
d) 三代目寿海の襲名披露興行の「桐一葉」@歌舞伎座は父子で出てないです
※今のところ訂正なし。
e) 歌舞伎の台本を書いた戦後作家は三島だけじゃないです
※この件に関し、匿名者に告ぐ。において、「筒井康隆は歌舞伎の台本を書いたのである」という唐突な断言が行われています… すいません、我々は「筒井康隆が書いたのは歌舞伎の台本ではない」とも「我々は歌舞伎の台本を書いた戦後作家を網羅した」とも言ったことはありませんが、ひょっとして、「やーい騙されたー 筒井康隆は歌舞伎の台本も書いたんだよー」とかそういうことが言いたいんですか? でしたら、どうぞご自由に溜飲をお下げください。ただ、「筒井康隆は歌舞伎の台本を書いたのである」との断言は、『猿之助三代』における、ご自身の「歌舞伎の台本を書いた戦後作家は三島だけであろう」と思いっきり矛盾を起こしてるですけど、いいんですか?
 でですね、訂正追加と愚痴において小谷野氏は「私が言いたかったのは、純文学の戦後作家が戯曲を書かなくなったということである」と発言していますが、そもそも歌舞伎は江戸時代から現在に至るまで基本的にはずーっと商業演劇で、お客の入る作品が書ける、つまりエンタテインメントの手腕を持った作者しか起用しないのが原則。よってこの要約は、以下の指摘e'へとアップデートされます。
e') 『猿之助三代』が、基本的には商業演劇である歌舞伎に関する本である以上、本文中に何の断りもないのに、「戦後作家とはすなわち純文学の戦後作家」の謂いだと後から言い出すのは卑怯だし思いっきり筋違いです
f) 菊五郎劇団は、そう明白には名乗っていない時期も六代目一門としての結束は固かったし、あと少なくとも「菊五郎劇団音楽部」の名称はずっとありました

匿名者に告ぐ。のこれ、反論になってません。小谷野氏が、日本俳優協会から言われたように「資料にあた」り、「ご自分で検証して見極め」た結果が、『猿之助三代』における「たまたま七代目菊五郎の周辺に人が集まったので、今でも「菊五郎劇団」と言っているだけらしく」に結晶したとするなら、はっきり言って資料の収集と検証能力のどちらか、あるいはその両方かが欠けてたんですね。
g) 「大人になったら猿之助、功なり名遂げた隠居名が段四郎」というのにはいろいろ無理があります
匿名者に告ぐ。がわざわざ言ってる、猿之助と段四郎の名跡の大きさが逆転してしまったというのは澤瀉屋のファンには周知の事実でして、特に問題がある訳ではありません。問題なのは「段四郎」の名跡を"隠居名"としている点です。澤瀉屋の隠居名は「猿翁」ただ一つです。「初代が猿翁を名乗るまでは「段四郎」が隠居名である」式の主張が無理筋であることは以前指摘した通りです。
h) (毛谷村六助)は(毛谷村)か(毛谷村六助住家)のどっちかじゃないと変です
匿名者に告ぐ。に「「毛谷村六助」は略称として落語でも出てくる。」とありますが、ほんと卑怯な言い逃れ。文楽でも歌舞伎でも「毛谷村六助」という言い方はしません。
i) 歌舞伎でもよく上演された近松の作として、「国性爺合戦」以外の時代物をすべて差し置いて改作の「心中天網島」が入るのはおかしいです
匿名者に告ぐ。に、「『心中天網島』が出てきて別におかしいことはない、いちゃもんである。」とありますが、「別におかしいことはない」理由を詳しくお聞かせください。あるいはもっと単純に、我々の考えであるところの「『吃又』も『俊寛』も『嫗山姥』も絶えず上演されてた」に対する反証でもいいです。
j) 「曾根崎心中」の初演は当たったという資料が残ってます
※この件に関し、訂正追加と愚痴に、「より正確にその後は書いている」とあるのですが、それはつまり、その後の著作をもって正誤表に代えるということですか? そんなおざなりな対応でいいんですか? 今のままだと、小谷野氏は浄瑠璃研究家なんてほぼ全員「信用しないほうがいい」 と主張してることに等しい気がするんですけど、それでいいんですか?だとするなら、小谷野氏における正誤表とは、読者のためのものではなく、単に本人のメンツのためのものにすぎないんですね。あとさ、「より正確にその後は書いている」ってどの著作のどの部分?
k) 「義経千本桜」は義経と頼朝の和解じゃなくて佐藤忠信の敵討ちで終わるのでは?
前回は小谷野氏の珍要約に誘われて思わぬ多弁を弄してしまったので、今回は単刀直入にいきます。「義経千本桜」五段目において、

・「頼朝と義経の和解が暗示されている」は正しいですが、
・「頼朝と義経が和解する」は間違いです。


 なぜかというと、前から言っているとおり「「義経千本桜」において頼朝と義経の和解はありえない、なぜならば相手の片方が存在しないから」です。小谷野氏は我々への反論において「頼朝義経の和解にいくというのが自然な道筋である」とか言ったりしていますが、この「道筋」もまた「義経千本桜」内には暗示という形でしか存在せず、「義経千本桜・完結編」か何かが書かれない限り、出現するすべがありません。
 そんな訳で彼のいう「義経と頼朝の和解で終わる」はいきなり袋小路なのですが、ついでに彼の「卑怯な」詭弁(あるいはただの誤解?)をひとつ紹介しておきましょう。彼は、自説である「義経と頼朝の和解で終わる」に固執するために、彼曰く“内山美樹子先生のもの”とされる(なぜ“ ”がついてるかというと、実際には角田一郎との共同だから)「頼朝と義経の関係に一応の結末をつける」という「新大系」(←補足しときますが「新 日本古典文学大系 竹田出雲 並木宗輔 浄瑠璃集」という本です)の脚注を引用しているのですが、この小谷野氏の引用はとっても我田引水というか、初歩的な誤謬を犯しています。
 まず言えるのは、この本に書かれた「一応の結末をつける」とは「和解を暗示させる」の意であって、和解そのものではないということ。理由は、繰り返しになりますが「そもそも和解しようにもその相手がいない」から。なので私たぬきはこの脚注は正しいと思うし偏頗だとも思わないので(だってこれが五段目唯一の脚注とかなら偏ってるなーって思ったろうけどそうじゃないし)、小谷野氏の言う「もし(ぽわん&たぬきが)内山先生の解釈を「偏頗」だと言うなら、実名を名のり、堂々と学術論文を書いて対決するほかないだろう」の主張は全然あてはまりません。よって我々は学術論文など書かないし、そもそも対決しようにも論点の食い違いなど全くありません(こんなに筋を通してるのに「卑怯」とか言われたら、ほんと割に合わないよ)。
 あと、小谷野氏に「和解とはすなわち和解の暗示」とか言われたくないので一応付け加えておこうかな。五段目は、脚注で言ってる「頼朝と義経の関係に一応の結末」がついた後にもいろんな人間関係に「結末」がついて、それでようやく大団円なんだから、「「義経千本桜」は"和解の暗示"で終わる」訳でもないよ。「結末イコール終わり」みたいな、本文を知らない人しか騙されない短絡はやめてね。
l) クラシック音楽界における古楽器演奏や編成のスリム化は一時の流行じゃないです(藝術的な成功不成功は主観にせよ、継続してるのは事実)
匿名者に告ぐ。は、私が考える成功の定義とか、のらくらした記述に終始して、「成功不成功は主観にせよ、継続してるのは事実」という我々の指摘に対する返答になっておりません。
n) 四の切、澤瀉屋以外で宙乗り狐六法をやるのは当代海老蔵だけです
※これ、例によって匿名者に告ぐ。では言い逃れに徹してるけど、まあ『猿之助三代』本文中で、「今の松緑の襲名披露の時に宙乗りでないのを観たはずだがあまり覚えていない」とか言ってる時点ですでに終わってるというか、仮に松緑が宙乗りするならそれは家の藝を手放す大事件だとか、そういうことにも無知なんだからねえ。やってらんないよ。
o) 猿之助は73年以降身内の襲名披露にしか出ない訳じゃないです
匿名者に告ぐ。に、「藤十郎は、扇雀時代に一緒にやっているから、仲間と言ってもいい」とあるんですが、あのーすいません、襲名披露の口上に列座するということは、そもそも襲名する人と縁のある役者が集まってお祝いするということですから、猿之助と藤十郎程度の距離ですら「仲間」になってしまうと、小谷野氏の考える「仲間以外の襲名披露に出る」とは「縁の薄い役者の襲名披露に出る」という意味になってしまい、『猿之助三代』における「猿之助はこの後、自分の仲間以外の襲名披露には出なくなる」が「猿之助はこの後、縁の薄い役者の襲名披露には出なくなる」になってしまうので、なんでわざわざそんな当たり前の事を本に載せるのか、訳が分からなくなるのですが…。
p) 七十すぎた女形が若い女を演じる例は以前からあります
 これ、『猿之助三代』の原文は「いったい、六十、七十になって、女形が若い女を演じるなどということがあったのか」なのですが、六十だとあまりに数が多くなってしまいそうなのでひとまず基準を「七十以上」に設定し、七代目宗十郎と先代梅玉の例をもって反証としました。
 ですが、匿名者に告ぐ。において、「私は徳川ー明治時代のことを主として言っているのである」という、『猿之助三代』本文を読む限り絶対そんなふうには読めない(←ここ重要。ほんと卑怯だよね)初耳な制限が新たに増えてしまったので、基準をデフォルトの「六十、七十」に戻させてもらい、還暦過ぎても「鳴神」の絶間姫を演じたりしていた、享保生まれの初代中村富十郎の例をあげつつ、この要約を、p'へとアップデートしましょう。
p')徳川時代でも六十を過ぎた女形が若い女を演じた例があります
q)「金鶏」の猿之助はちゃんと演出してます

訂正追加と愚痴において訂正の報告が施されておりますが(具体的にはこちら)、いまだに問題があります。詳細は次のrにて。
r)「金鶏」の衣裳は歌舞伎の衣裳方が担当した訳じゃないです
訂正によれば、「「日本では演出と報道されたが」以下、削除し「演出もさることながら、毛利臣男が担当した衣装、朝倉摂の舞台装置など、歌舞伎風の背景が目にたった」に訂正したとのことです。
 ただし「金鶏」の衣裳と装置が「歌舞伎風」というのは間違いです。「スーパー歌舞伎風」ならばその通りです。何しろこっちが元祖なのですから。「金鶏」をご覧になったことのない方のために、画像はこちら。よってこの要約は、以下の指摘r'へとアップデートされます。
r')「金鶏」の衣裳は全然歌舞伎風じゃないです。朝倉摂によるモダンな抽象舞台は尚のこと

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ぽわん:はっきり言って、我々への数々の「卑怯な」対応によって、この人は尊敬に値する著者じゃないことが明白になったと思う。我々もまた一読者であるという観点が毛頭ないところからして、読者を舐め過ぎ。
たぬき:さっきも言ったけど、このままだと、彼のウェブサイト上の正誤表は、読者のためのものではなく、もっぱら自分のメンツのためにしか存在しないということになる。彼は「正直者」を自認しているらしいけど、正直の定義=「正しくて、うそや偽りのないこと。また、そのさま。」を持った人間という意味じゃなくて、「自己肯定のためにはなりふり構わない、独善に陥った人間」ということになりやしないかねえ。
posted by powantanuki at 23:57 | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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